伊東月草

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伊東 月草(いとう げっそう、1899年(明治32年)12月17日 - 1946年(昭和21年)12月4日)は、長野県出身の日本俳人。本名は秀治(ひでじ)。

経歴[編集]

1899年(明治32年)長野県上伊那郡藤沢村 (現在の伊那市)に生まれる。16歳から俳句を始め、大須賀乙字に師事[1]、乙字の死後は同じ乙字門下の吉田冬葉が立ち上げた「獺祭」に参加、1928年に独立し「草上」を主宰する。

満州事変日中戦争を機に新体制運動に傾倒、大野林火との戦火想望俳句論争を皮切りに、俳句報国のための団体を結成すべしと全国の主要俳人、結社に「この昭和維新に際会して、新体制に協力しないやうな非国民はあるまい」と檄文を送り[2]、『俳句研究』を中心に論陣を張った。この運動は結実し、日本俳句作家協会、後に日本文学報国会俳句部会が結成され月草は常任幹事となった[3]

1942年、日本文学報国会編の『俳句年鑑』においては会長の高浜虚子に代わり冒頭文を書いた。

昭和十七年の俳句界は、思想的にいつて、昭和十六年十二月八日にはじまると考へてよいであらう。その日からわれ/\の人生観は一変し、句作の態度も変つた。自由主義、個人主義の上に立つ、芸術至上主義、乃至享楽的耽美主義を清算し、新しい世界の樹立と、皇道主義、全体主義の上に立つ新らしい文学理念の確立とが強く叫ばれた。 — 『俳句年鑑』冒頭「昭和十七年俳句界概観」

時局に乗じて中央俳壇の席を得た所は小野蕪子にも通じるが、直接的な表現とスローガン的な報国俳句の多い蕪子とは違い、俳句そのものは花鳥諷詠の伝統俳句を好んだ。太平洋戦争突入後の1943年に上梓した『伝統俳句精神』に於いても、

ひゆうと弾丸が飛んでくるとすはこそと緊張する。緊張した瞬間は何も見えず、何も聞こえないけれども、それがゆるむと直ぐ周囲に考へが向いて、さういふ時に足元の草や、蟲や、空ゆく雲や鳥や、つまり自然の風物が心に映つることもある筈であります。俳句はさういふ時にはじめて出来るのであつて、(中略)俳句でなければ表はし得ない世界もあるわけであります。 — 『伝統俳句精神』「戦争俳句の鑑賞」244頁)
戦争俳句といつても十七字の形を以てやたらに戦争を描写するものでなく、さういふ意味で戦争の間にも俳句に適する世界があつて、それを描き得たものがはじめて戦争俳句として成立するのであります。 — 『伝統俳句精神』「戦争俳句の鑑賞」245頁)

と、あくまで花鳥諷詠を基本とすべきとし、過度のスローガン的な戦争俳句、報国俳句の類を戒めている。

1946年12月4日、敗戦の失意の中、46歳で死去。

私設俳句図書館「草上文庫」を東京府北多摩郡保谷町(後の東京都保谷市、現在の西東京市)で運営していたが、死後その蔵書は永年の弟子でもあった角川源義に売却された[4]

句集[編集]

  • 『わが住む里 自選句集』(1947年・目黒書店)

評論[編集]

  • 『俳句の考へ方と作り方』(1927年・考へ方研究社)
  • 『添削と批評 俳句になるまで』(1931年・交蘭社)
  • 『最新研究俳句の作り方講義』(1931年・山海堂出版部
  • 『傳統俳句の道』(1935年・三才書院)
  • 『蓑俳句鑑賞』(1940年・古今書院
  • 『伝統俳句精神』(1942年・古今書院)

編著[編集]

  • 『冬葉第一句集』(1922年・丸の内書店)
  • 『草上俳句集』(1935年・草上書屋)
  • 『光風』(1939年・草上書屋)
  • 『俳諧新辞典』(1939年・太陽堂) ※高木蒼梧との共編
  • 『保谷村塾作品集』(1944年・草上)
  • 『連句大概』(1946年・朋文堂)

参考文献[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 『戦争俳句と俳人たち』、284頁。
  2. ^ 『新興俳人の群像「京大俳句」の光と影』 第七章「俳句報国」時代 「伊東月草、激飛ばす」、203頁。
  3. ^ 『戦争俳句と俳人たち』、284頁。
  4. ^ 『戦争俳句と俳人たち』、286-287頁。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]