伊号第十八潜水艦

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Japanese submarine I-18 in 1941.jpg
佐世保沖で公試中の伊18
艦歴
計画 第三次海軍軍備補充計画(マル3計画
起工 1937年8月25日
進水 1938年11月12日
就役 1941年1月31日
その後 1943年2月11日戦没
除籍 1943年4月1日
性能諸元
排水量 基準:2,184トン 常備:2,554トン
水中:3,561トン
全長 109.3m
全幅 9.10m
吃水 5.34m
機関 艦本式2号10型ディーゼル2基2軸
水上:14,000馬力
水中:2,000馬力
速力 水上:23.6kt
水中:8.0kt
航続距離 水上:16ktで14,000海里
水中:3ktで60海里
燃料 重油
乗員 95名[1]
兵装 40口径14cm単装砲1門
25mm機銃連装1基2挺
53cm魚雷発射管 艦首8門
九五式魚雷20本
22号電探1基
航空機 なし
備考 安全潜航深度:100m

伊号第十八潜水艦(いごうだいじゅうはちせんすいかん、旧字体:伊號第十八潜水艦)は、大日本帝国海軍伊十六型潜水艦の二番艦。

艦歴[編集]

第三次海軍補充計画(マル3計画)で建造が計画され、1937年8月25日佐世保海軍工廠で起工、1938年11月12日に進水。1941年1月31日に竣工して横須賀鎮守府籍となり、伊20と共に第六艦隊第一潜水戦隊第二潜水隊を編成する。

太平洋戦争勃発時には第6艦隊特別攻撃隊に所属して11月18日にを出港して真珠湾攻撃に参加、ハワイ沖まで甲標的を輸送した。12月7日2145、真珠湾口150°、12.6地点付近で、古野繁実中尉、横山薫範一曹を乗せた甲標的を発進させる。16日、ジョンストン島へ砲撃のために向かうが、目標の視認に失敗。22日、クェゼリンに入港。

1942年1月4日、クェゼリンを出港し、ハワイ方面へ向かう。9日0630、ハワイ西方550浬地点付近にて、米空母レキシントンを基幹とする第11任務部隊(司令官:ウィルソン・ブラウン中将)を視認する。その後ミッドウェー島へ向かい、25日に浮上して砲撃準備中、ミッドウェー島からの砲撃を受けて潜航して退避する。2月1日、第一潜水隊に編入され、3日に横須賀に帰投。

3月10日、第一潜水隊は第八潜水戦隊に編入。16日、横須賀を出港し、呉に移動する。4月16日、甲標的を乗せて呉を出港し、ペナンへ向かう。途中の18日、ドーリットル空襲を受けて米機動部隊を捜索するべく小笠原諸島へ向かうが、空振りに終わる。27日にペナン入港。30日、甲標的を積んでペナンを出港。5月17日、波のうねりにより浸水し、左舷ディーゼル機関が故障。このため、甲標的の発進地点への到着が遅れ、30日のディエゴ・スアレス攻撃には参加できなかった。その後、インド洋通商破壊を行う。6月8日0230、南緯20度20分 東経36度47分 / 南緯20.333度 東経36.783度 / -20.333; 36.783モザンビーク海峡でノルウェー貨物船ウィルフォルド(Wilford、2,158トン)を砲撃により撃沈。9日、英客船エリシア(Elysia、6,757トン)を撃沈[2]。同日、搭載甲標的を投棄。7月1日、南緯25度12分 東経35度56分 / 南緯25.200度 東経35.933度 / -25.200; 35.933のモザンビーク海峡で蘭貨物船デ・ヴェールト(De Weert、1,805トン)を砲撃。デ・ヴェールトは2日後に沈没した。2日、英貨客船テミス(Themis、7,406トン)を雷撃するも、魚雷は早爆してしまう。テミスは潜望鏡めがけて銃撃するも、命中することはなかった。6日、南緯28度35分 東経32度20分 / 南緯28.583度 東経32.333度 / -28.583; 32.333の南アフリカ南方のインド洋で、英貨客船ムンダラ(Mundra、7,341トン)を砲雷撃により撃沈した。8月2日にペナンに寄港し、23日に横須賀に帰投して整備を受ける。

その後、ガダルカナル島への輸送任務につくため呉に回航され、12月17日に呉を出港し、トラック島経由でショートランドへ移動。以降ショートランドを基地として活動する。

1943年1月3日未明、ニューブリテン島南方沖合で、輸送任務のためにガダルカナル島へ向け浮上航走中、米潜グレイバックの雷撃を受けたため、潜航して魚雷を回避した。5日、ガダルカナル島エスペランス岬沖に到着し、ドラム缶に詰めた輸送物資15トンを揚陸してショートランドへ向かった。後、再び輸送物資を乗せて出港し、11日には再びエスペランス岬沖に到着。ドラム缶に詰めた輸送物資25トンを揚陸してトラックへ向かった。22日、トラックを出港。26日、エスペランス岬沖に到着し、特型運貨筒に積んだ輸送物資18トンを揚陸する。揚陸を終えた後、偵察のためガダルカナル島南方へ進出する。2月11日、サンクリストバル島南方200浬地点付近の珊瑚海で、戦艦、巡洋艦各3、空母1、駆逐艦多数で編成された米艦隊を発見。これより攻撃に移る、との連絡を最後に消息不明。

アメリカ側記録では、同日にニューカレドニア島ヌーメアに帰投中のアメリカ海軍第67任務部隊(司令官:カールトン・ H・ライト少将)所属の軽巡洋艦ヘレナから発進し哨戒中のキングフィッシャーが、艦隊から約17kmほど離れた海域で潜航する潜水艦を発見。哨戒機は発煙筒を投下して、近くにいた米駆逐艦フレッチャー」を攻撃に向かわせる。フレッチャーは船首から約2700m離れた位置にいる潜水艦をソナー探知。1527、フレッチャーは1回目の爆雷攻撃を行う。この結果、1539に重油と空気の泡が浮かび上がるのを確認。4分後、フレッチャーは浮かび上がった重油の中心部をめがけて再び爆雷攻撃を行った。この結果、1546にコルク片と木片、その他潜水艦のものと思われる物体が浮かび上がり、長い重油の帯ができた。これが最期の瞬間であり、艦長の村岡富一中佐以下乗員102名全員戦死。沈没地点はガダルカナル島インディスペンサブル礁南東沖合、南緯14度15分 東経161度53分 / 南緯14.250度 東経161.883度 / -14.250; 161.883

1943年2月11日に亡失と認定され、同年4月1日除籍。

撃沈総数は4隻で、撃沈トン数は18,061トンである。

歴代艦長[編集]

※『艦長たちの軍艦史』417頁による。

艤装員長[編集]

  • 畑中純彦 中佐:1940年7月1日 -

艦長[編集]

  • 畑中純彦 中佐:1941年1月31日 -
  • 大谷清教 中佐:1941年8月25日 -
  • 村岡富一 中佐:1942年12月1日 - 1943年2月11日戦死

脚注[編集]

  1. ^ 乗員数は『写真 日本の軍艦 第12巻 潜水艦』より。
  2. ^ 同船は6月5日に報国丸愛国丸の攻撃を受けて大破していた。

参考文献[編集]