仙石騒動

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仙石騒動(せんごくそうどう)は、江戸時代後期の出石藩で発生したお家騒動。しばしば「江戸時代の三大お家騒動」の一つとして紹介される。

原因[編集]

出石藩第6代藩主仙石政美の代になると藩の財政は逼迫し、藩政改革の機運が盛り上がった。仙石氏一門で行政の最高責任者の筆頭家老仙石左京重商主義的産業振興策と人件費削減策を掲げ、同じく一門で財政責任者である勝手方頭取家老仙石造酒は質素倹約令の励行という保守的な政策と大量に発行された藩札を回収することを主張し対立した。藩主政美は左京の政策を支持し、強い権限を与え藩政改革にあたらせた。それを背景に左京は藩士の俸禄の一部を強制的な借り上げたり、藩営の物産会所を設置し、御用商人以外を締め出す代わりに御用商人から徴収している運上金の金額を大幅に値上げするなどの改革を推進する。しかし、はかばかしい成果がなかなか上がらず、藩士や領外の商人、多額の運上金を課せられた御用商人からも反発が出、政美は左京の政策を一時停止させ、一時失脚していた造酒を復権させ藩政を執らせた。しかし、その直後に藩主政美が急死する。

勃発[編集]

文政7年(1824年)藩主仙石政美が参勤交代で出府する途中で発病し、江戸についてまもなく28歳の若さで病没する。政美には嗣子が無く隠居していた政美の父久道が江戸で後嗣を選定するため、分家の旗本を含めての会議を開いた。仙石左京は筆頭家老であるため国許の代表者として江戸へ出るが、実子小太郎を同伴させた。これを左京が小太郎を後継に推すのではと不信感を抱いた造酒は実弟の酒匂清兵衛を同道させ監視した。会議は造酒派の主導で進み、久道の十二男で政美の弟である道之助を元服させ久利として藩主に据えることで決定した。左京は小太郎を後継に主張することも無く賛成した。

こうして藩政の実権は、造酒派が完全に掌握し、左京の政策は全て廃止された。しかし、造酒が側近の桜井良蔵を重用したことから同じ造酒派内で家老磯野源太左衛門と造酒、清兵衛が激しく対立し、乱闘騒ぎまで起こす。この事件の責任を問われ源太左衛門、造酒、清兵衛は隠居を余儀なくされる。

幼君の下、筆頭家老として人事権を握った左京は反撃に出て藩重役は造酒の息子主計以外はみな左京派に挿げ替えられた。造酒の政策である藩札の切り替えによって流通量を半減させる政策が失敗し、上方商人からの借り入れが不可能になると、その責任を問われて主計も失脚する。藩政を掌握した左京は再び改革を始めた。家族一人あたり一石八斗以上の俸禄は禄高数に関係なく全額借り上げる面扶持制を導入し人件費を大幅に抑えた。また、物産会所を復活し、領外商人を締め出し御用商人に特権を与える代わりに運上金を増徴する。そして江戸詰めの造酒派重臣荒木玄蕃の不正が発覚したことからこれを免職し、藩政の最高権力者になった。天保2年(1831年)左京は息子小太郎の嫁に幕府筆頭老中松平康任の姪を迎えた。また左京は松平康任に対し、多額の贈賄を行っていたともされる。

これに対し仙石主計、酒匂清兵衛、荒木玄蕃、原市郎右衛門といった造酒派の重臣は左京が小太郎を藩主に据えようとしていると先々代藩主久道に直訴する。久道は全く相手にせず、かえって4人は久道の怒りを買い蟄居を命じられる。同じ造酒派でこの行動の首謀者であった河野瀬兵衛は藩を追放された。瀬兵衛は江戸に上り天保4年(1833年)、一門の旗本仙石弥三郎に上書を提出して訴えた。この上書は久道夫人(常真院)に渡った。左京の政策から、江戸屋敷での経費も大幅に節減され耐乏生活を送っていた久道夫人は上書の内容をそのまま信じ、左京が藩士から取上げた俸禄を不正に蓄財しているとして国許で隠居している久道に左京の非を激しく訴えた。久道から夫人の書状を見せられた左京は重臣を江戸に上らせ、久道夫人に弁明をすると共に瀬兵衛の消息を掴むことに全力を挙げた。藩内に潜伏していた瀬兵衛は天領生野銀山にまで逃げたが捕縛された。本来天領での捕縛には幕府の勘定奉行の許諾が必要で、無断捕縛は違法であった。しかし、左京は懇意の老中松平康任にこの事実をもみ消してもらう。そして瀬兵衛に加担し仙石弥三郎に引き合わせた弥三郎の家臣神谷転の捕縛を老中松平康任の伝で南町奉行に実行させた。身の危険を感じた神谷は虚無僧になって江戸に潜伏していたが、南町奉行所に捕縛されてしまった。この事態に神谷が帰依所属していた普化宗一月寺が、僧は寺社奉行の管轄に属し、町奉行に捕縛権限はないので違法であり、即時釈放することを、寺社奉行所に神谷が所持していた瀬兵衛の上書の控と共に訴えた。また、久道夫人は実家である姫路藩邸に赴き、藩主酒井忠学の妻で将軍家斉の娘喜代姫にも藩の騒動を話していた。

寺社奉行の脇坂安董は松平康任に対抗し、権力掌握を狙っていた老中水野忠邦に出石藩の騒動と康任の関係を報告した。康任を失脚させるため、水野忠邦と脇坂安董は左京が仙石家の乗っ取りを策謀しているとして将軍家斉に言上する。出石藩の騒動は娘の喜代姫経由で家斉の耳にも達しており、家斉はこの騒動を寺社奉行、町奉行、公事方勘定奉行で構成される評定所が裁定し、その責任者を脇坂安董とすることに決める。

裁定[編集]

実際の調査取調べは寺社奉行吟味物調役である川路弥吉(のちの川路聖謨)が行った。天保6年(1835年)裁定が下され、仙石左京は獄門になり、鈴ヶ森に晒首された。左京の側近宇野甚助も斬罪となり、左京の子小太郎は八丈島流罪になるなど、左京派は壊滅的打撃を受けた。藩主久利に直接お咎めは無かったが、出石藩は知行を5万8千石から3万石に減封となった。また幕府内でも、老中松平康任は同時に発覚した密貿易(竹島事件)の責も含め失脚、隠居を余儀なくされた他、南町奉行筒井政憲と勘定奉行の曾我助弼も失脚した。

その後[編集]

出石藩はその後も抗争のしこりが残り、文久2年(1862年)藩主久利が実権を握り、親政を開始するまで長く藩内の政争は続いた。

仙石小太郎は八丈島に向かうために立ち寄った三宅島で発病し、死亡した。小太郎の荷物は皆盗まれ、寝巻きしか残っていなかったという。また左京の娘は白湯文字と呼ばれる私娼に零落したという。

松平康任が隠居した後、子の康爵が跡を継いだが、石見浜田から陸奥棚倉に懲罰転封された。南町奉行を解任された筒井政憲は左遷されるが、後に復権し川路聖謨と共に対ロシア外交の責任者となる。

康任を失脚させた水野忠邦は老中首座となり、天保の改革を推し進める。脇坂安董は寺社奉行から老中に就任する。名を上げた川路聖謨は出世の契機となった。

関連作品[編集]

関連項目[編集]

参考文献[編集]