仙人谷ダム

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仙人谷ダム
黒部専用鉄道の橋から見た仙人谷ダム
所在地 富山県黒部市宇奈月町黒部奥山国有林内
位置 北緯36度38分58秒
東経137度40分54秒
河川 黒部川水系黒部川
ダム湖 名称未定
ダム諸元
ダム型式 重力式コンクリートダム
堤高 47.5 m
堤頂長 77.3 m
堤体積 37,000
流域面積 284.1 km²
湛水面積 6 ha
総貯水容量 682,000 m³
有効貯水容量 246,000 m³
利用目的 水力発電
事業主体 日本電力日本発送電関西電力
電気事業者 関西電力
発電所名
(認可出力)
黒部川第三発電所
(81,000 kW)
施工業者 佐藤工業
着工年/竣工年 1936年/1940年
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仙人谷ダム(せんにんだにダム)は、富山県黒部市宇奈月町黒部奥山国有林内にある関西電力管理の重力式コンクリートダムである。土木学会の「日本の近代土木遺産―現存する重要な土木構造物2000選」に認定されている。

概要[編集]

仙人谷ダムは下流の欅平に設けられた黒部川第三発電所(黒三発電所)で発電を行うために、日本電力黒部川水系で最後に建設した発電用ダムである。当初の計画では、仙人谷よりも5キロメートル上流の十字峡付近に建設される予定であったが、1934年(昭和9年)に黒部峡谷一帯が中部山岳国立公園に指定されたために現在の位置に建設されることとなった。第二次世界大戦前で軍需物資製造のための電源開発は至上命令だったため、国家総動員法のもとに人海戦術で工事が進められ、当時の労働者の平均月収の10倍以上に当たる、2時間5円、日当10円という給金で作業員が駆り集められた。工事は1936年(昭和11年)9月に開始され、1939年(昭和14年)6月に阿曽原 - 仙人谷の水路隧道が完成、1940年にダム本体が完成し、同年11月に黒部川第三発電所が発電を開始した。

資材運搬には黒部専用鉄道(現黒部峡谷鉄道)のトロッコ電車が利用される計画であったが、欅平の上流は河川勾配24分の1と急峻で、標高差が250メートルあり、トロッコ電車の力では上ることができなかった。このため、欅平に高さ200メートルの縦坑を掘削して内部にトロッコ運搬用のエレベーターが設置された。エレベーターで揚げられたトロッコは仙人谷まで掘削された隧道を通る関西電力黒部専用鉄道で運搬される。仙人谷ダムの付近には関西電力職員宿舎があり、関西電力黒部専用鉄道にはこの施設の最寄り駅として仙人谷駅が設置されている。

高熱隧道[編集]

関西電力黒部専用鉄道のコンクリートで覆われた区間(阿曽原 - 仙人谷間)
関西電力黒部専用鉄道のコンクリートで覆われた区間(阿曽原 - 仙人谷間)
「高熱隧道」(阿曽原 - 仙人谷間)コンクリート工事がされていない区間
「高熱隧道」(阿曽原 - 仙人谷間)コンクリート工事がされていない区間
黒部峡谷鉄道上部軌道 仙人谷駅
黒部峡谷鉄道上部軌道 仙人谷駅

関西電力黒部専用鉄道として使用されているトンネルは、ダム建設時に工事用資材を運搬するために掘削された。摂氏166度に達する高熱の岩盤を掘削して建設されたこのトンネルは「高熱隧道」と呼ばれ、工事に従事した作業員の中から多くの死者を出した。雪崩の犠牲者も含めた全工区の犠牲者は300人余りで、同時期に完成した丹那トンネル工事の犠牲者を大きく上回った。犠牲者は黒部市宇奈月町内山に葬られている。

建設工事は仙人谷 - 阿曽原の第一工区、阿曽原 - 志合谷の第二工区、志合谷 - 欅平の第三工区に分けられ、第二・第三工区では比較的順調に工事が進捗したが、第一工区では本坑工事を開始した1937年(昭和12年)頃から岩盤温度が上昇し始めた。当初は65℃程度であったが翌年の7月に100℃を越え、坑内の気温が上昇する中、作業員の体に黒部川の冷水をホースでかけたり、坑内を冷却する散水装置を設置するなどして作業を続けたが、熱中症で次々と作業員が倒れた。

1938年(昭和13年)8月23日、切端でダイナマイトの装填作業が行われていた最中に、地熱でダイナマイトが自然発火する暴発事故が2箇所同時に発生し、装填作業を行っていた作業員のうち8名が死亡、6名が重傷を負った。事故が発生した当時の岩盤温度は摂氏120度に達していて、事態を重く見た富山県警から工事中止命令が出されるも、電源開発が国策であることと、日本電力が社運を賭けていたために工事は続行された。岩盤からの熱伝導を防ぐためにダイナマイトにはエボナイトやボール紙、割り竹などを被せて対策が施されたが、暴発事故はその後も相次ぎ、多くの人命が失われた。

水平歩道では資材運搬を行う歩荷の転落事故が日常的に発生している状態であった。

黒部峡谷は日本でも有数の雪崩発生地帯であり、越冬作業は不可能と言われてきたが、当時の情勢は冬季の作業休止を許さず、阿曽原谷や志合谷などに作業員が宿泊する飯場が設置された。これらの宿泊施設には当時最新の雪崩防止対策が施されていた。しかし、1938年12月27日午前3時30分頃、志合谷で大規模な泡雪崩が発生し、直撃を受けた飯場(1・2階鉄筋コンクリート、3・4階木造)の木造部分が峡谷の対岸まで600メートル余り吹き飛ばされ、84名の死者(うち、47名は遺体を収容できなかった)を出した。なお、吹き飛ばされた部分が発見されたのは事故から2か月以上経ってからであった。隧道が貫通した後の1940年(昭和15年)1月9日にも阿曽原谷で泡雪崩が宿舎を直撃し、直後に発生した火災などによって死者26名、重軽傷者37名を出した。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]