今宮義教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
 
今宮義教
時代 江戸時代
生誕 正保3年(1646年)
死没 享保12年(1727年)
改名 大源(幼名)→義教
別名 又三郎(通称)、摂津守、常蓮院。
戒名 林法院珍南良珠
墓所 闐信寺
主君 佐竹義処義格義峯
久保田藩
氏族 佐竹氏庶流今宮氏
父母 父:今宮義賢、母:白土氏
兄弟 今宮義教ほか、兄弟1人、姉・妹4人
梅津忠定の娘
永教(外記)義透(大学)
テンプレートを表示

今宮 義教(いまみや よしたか、正保3年(1646年) - 享保12年(1727年))は江戸時代久保田藩士で修験、社人頭領。幼名は大源。通称は又三郎、摂津守、常蓮院。父は今宮義賢(凉松院)。母は白土氏。夫人は梅津忠定(たださだ、梅津憲忠の4子。図書、五郎右衛門)の娘。子は藩寺社奉行を務めた今宮永教(外記)、藩家老を務めた今宮義透(大学)など7子。また柳生心影流剣術と新天流槍術に優れ、津の守流剣術の創始者とされる。戒名は林法院珍南良珠。墓所は闐信寺。

経歴[編集]

正保3年(1646年)に出羽国仙北郡角館東勝楽丁にて出生する。寛文6年(1666年)に父とともに大和国金峰山に入峰する。その後、今宮家の家督と修験、社人頭領を継承する。

寛文年中より久保田藩がそれまで修験、社人頭領の管轄であった領内の社人、修験の支配権を寺社奉行に与える措置をとったことにより、修験・社人頭領を世襲してきた今宮家と藩との確執が生じていた。

延宝7年(1679年)に 玉川対岸押切にかかった相撲興行に飛び入り参加する。

延宝8年(1680年)2月にそれまで藩から直接行われた諸令達を角館所預の一門、佐竹北家より行われること、「角館境目御用」を理由に今宮家の組下は佐竹北家の指示に従って勤務すること、などとされたが、これを今宮家への冷遇として反発、家中50人が久保田城下に出て、藩に抗議する騒ぎとなる。

また、同年3月に藩主佐竹義処より久保田城下移住を命じられるがすぐに従わず、同年閏8月に仙北角館から久保田城下に移住する。

その他、組下の者や今宮家の分家とともに藩主義処に再々不満を訴えることが多く、ついに延宝9年(1681年)に修験・社人頭領の権と組下の支配権を剥奪され、嫡男の永教とともに佐竹義房邸に幽閉される。

貞享2年(1685年)に謹慎のまま隠居して、元禄3年(1690年)に久保田城下の今宮家邸に移されて謹慎、元禄8年(1695年)に赦免される。なお、久保田城下の今宮邸謹慎中に七子の義透が誕生する。享保4年(1719年)に74歳の高齢ながら藩主佐竹義峯に柳生心影流剣術と新天流槍術を上覧。享保12年(1727年)死去。

人物[編集]

生来勇猛剛毅な人となりで、延宝7年(1679年)に玉川対岸の押切でかかった相撲興行で飛び入り参加して大関相撲を投げ飛ばした逸話がある。また「北家義明日記」によれば、久保田城下移住の際に美々しく仰々しく飾りたてた行列で久保田城下に移ったとしている。

参考文献[編集]

  • 三浦賢童編「秋田武鑑 全」(無明堂出版、1981年、原著者は「久保田家中分限帳」の著者)
  • 家臣人名事典編集会「三百藩家臣人名事典1」(新人物往来社、1987年)