人的資源
人的資源(じんてきしげん、英: Human Resources、略称:HR)とは、組織、事業部門、産業、または経済の労働力を構成する人々の集合体である。組織経営やマクロ経済においては、人間が持つ能力、知識、意欲を生産活動や価値創造の源泉として捉えた概念である。人的資本(英: Human Capital)は、人的資源の狭義であり、これは個人が有する知識とスキルを示す。
概要
[編集]従来、経営資源の枠組みにおいて人的資源は、ヒト・モノ・カネ・情報という「4大経営資源」の一つとして扱われ、主に物理的な労働力や管理すべきコストとして位置づけられていた[1]。この段階での「ヒト」は、財の生産やサービスの提供における人間の労働を指し、設備や資金を稼働させるために不可欠な要素ではあるものの、あくまで枯渇する資源のように効率的な管理や消費の対象として扱われてきた[2]。
プロジェクトマネジメントの文脈では、人材とはプロジェクト計画で定義された活動を実行する責任を負う従業員を指す。欧米の企業は人的資源を活かすための専門的なセクションを「HR」という。「HR」という言葉は、日本語に翻訳される場合「組織の人事部門」と訳されることがあるが、業務内容や目的が一致していない場合がある[3][4]。
歴史
[編集]「人的資源 (human resource)」という言葉の起源は、経済学者ジョン・R・コモンズの1893年の著書『富の分配 (The Distribution of Wealth)』にまで遡る[5]。1910年代から1930年代にかけて、この表現は、「人間は単なる労働力ではなく、(人間の尊厳としての)価値がある」という考えを促進するために使用された。
しかし、戦後の1950年代に入ると意味合いが変化し、雇用者にとって目的を達成するための「手段」や「機能」として人間を捉える傾向が強まった[6]。学術的には、1958年に経済学者E・ワイト・バッキーが発表した報告書が、現代的な管理用語としての「人的資源」の確立点とされている[7]。この時期に形成された「人的資源パラダイム」では、人材は使用すれば減耗する「資源」であり、効率的に管理すべき「コスト(費用)」として扱われた。
1960年代に入ると、経済学者ゲーリー・ベッカー (Gary Becker) らによって「人的資本 (Human Capital)」という概念が提唱された。ベッカーは1964年の著書『人的資本 (Human Capital)』において、個人の知識やスキルを「資本(資産)」と定義し、教育・訓練・医療などの後天的な投資によってその価値を高められることを体系化した[8]。人的資源において人材は、使用すれば減耗し、「コスト」として管理される対象であったのに対し、人的資本では、人材は教育や経験によって価値が増大する「資産」として捉えられ、教育訓練費はコストではなく、将来の収益を生むための「投資」と見なされるようになった[2]。また、どの企業でも通用する一般的熟練と、特定の企業内でのみ価値を持つ「企業特殊的熟練を区別した点は、その後の雇用慣行や賃金分析に決定的な影響を与えた[8]。
この理論により、「人は単なるコストではなく、投資すべき資産である」という理論的裏付けがなされた[8]。しかし一方で、バッキーが示したような人間を機能的なリソース(生産要素の一つ)としてドライに扱う傾向も、経済学的アプローチの普及とともに学術・実務の両面で定着していった。
1980年代のアメリカでは、人的資本の概念を実践するために、従来の管理的な「人事労務管理 (Personnel Management)」から、経営戦略と連動した「人的資源管理 (Human Resource Management: HRM)」への転換が進んだ。1984年にミシガン大学のデボラ・アローらが提唱した「ミシガン・モデル」や、ハーバード大学のマイケル・ビアらが提唱した「ハーバード・モデル」により、人的資源の管理が組織の戦略的に行われるようになり、人的資源が資産の意味を持つようになっていった[9]。
1990年代以降、ジェイ・バーニー (Jay Barney ) らが提唱した戦略経営論「リソース・ベースド・ビュー(英語:Resource-Based View、省略:RBV)」において、「人的資本資源(Human Capital Resources)」へと再定義された。ここでは、ヒトは、競争優位を生み出す最も重要な「無形資産 (Intangible Resources)」へと位置づけが変化している[10]。
2010年代以降、企業の市場価値における無形資産(人材、ブランド、特許など)の割合が急増し、機関投資家によるESG投資が拡大した。これに伴い、人的資本に関する情報を定量化し、外部へ開示することを求める動きが世界的に加速している。
2018年、国際標準化機構 (ISO) は人的資本に関する情報開示の国際ガイドライン「ISO 30414」を発表した。これは人的資本の報告に関する初の国際規格であり、コンプライアンス、コスト、ダイバーシティ、リーダーシップ、組織文化、生産性など11の領域における測定指標(メトリクス)を定義している[11]。これにより、従来は見えにくい資産であった人的資本を定量化し、投資家との対話を促進することが期待されている[12]。
2020年8月、米国証券取引委員会 (SEC) が、上場企業に対する開示規制「レギュレーションS-K」を改定。 これにより、従来は従業員数だけの記載で済んでいた人的資源の項目において、「事業の理解に重要な人的資本の項目」が明確され、事実上開示が義務化された[12]。
2020年、日本では、「人材版伊藤レポート(経済産業省)」の公表を皮切りに、経営戦略と人的資本経営が強く推奨されるようになった。 さらに、2023年3月期決算より、上場企業が発行する有価証券報告書において、「人的資本」に関する情報(人材育成方針や社内環境整備方針、女性管理職比率などの指標)の記載が義務化され、人的資本情報の開示は企業の法的義務となっている[13]。
人的資源管理 (HRM)
[編集]人的資源管理 (Human Resource Management: HRM) は、1980年代以降に普及した概念であり、従業員を競争優位の源泉となる「資産」と見なし、戦略的に管理・育成するアプローチである[14][15]。人的資源管理の最大の特徴は「戦略的統合 (Strategic Integration)」にある。人事政策は経営戦略と密接に連動し、人事責任者は経営の意思決定に関与することが求められる[16]。また、管理の手法は規則による統制から、組織のビジョン共有によるコミットメントの獲得が推奨される[17]。
課題
[編集]人的資源という用語
[編集]人を資産や資源としてみなすことへの懸念の一つは、人が商品化され、客体化され、酷使されることである。「人的資源」という言葉の批判者は、人間は「商品」や「資源」ではなく、生産的な事業における創造的で社会的な存在であると主張する。対照的に、ISO 9001の2000年改訂版では、プロセス、その順序、相互作用を特定し、責任と権限を定義し伝達することが求められている[18][19]。一般に、フランスやドイツのような労働組合が強い国では、こうしたアプローチが採用され、推奨されている[20][21]。また、2001年に国際労働機関 (ILO) は、1975年の「人的資源の開発に関する勧告(第150号)」を見直し改定することを決定し、その結果「労働は商品ではない」という原則が打ち出された[22]。
マクロ経済における人的資源の不均衡
[編集]発展途上国の政府は、移民や「ゲストワーカー」を奨励する先進国に対し、本来は発展途上国の一部であり経済成長を促進するために必要な人的資本を流用しているとみなすことが多い。国際連合は発展途上国の視点をより一般的に支持するようになり[23]、人的資本を失った発展途上国が、貿易、専門職、芸術における新しい人材を訓練し続ける能力を失わないように、多額の相殺的な「対外援助」拠出を要請している[23]。一部の企業や会社は、この汚名を払拭するために、「ピープル・オペレーションズ」や「カルチャー部門」などの他の用語を使用してこの部門の名前を変更することを選択している[24]。
関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ Samuelson, P.A. and W.D. Nordhaus. 2004. Economics, 18th ed. McGraw-Hill/Irwin, Boston, MA. ISBN 0-07-287205-5.
- ^ a b “Understanding Human Capital Theory: Importance and Application”. Investopedia. 2026年1月23日閲覧。
- ^ 平野, 光俊 (2010-03). “戦略的パートナーとしての日本の人事部―その役割の本質と課題―”. 神戸大学経営学研究科 Discussion paper 2010・20.
- ^ “海外と日本の管理部門の違い(人事部編)”. Manegy[マネジー]. 2026年1月23日閲覧。
- ^ Commons, John R. (1893) (英語). The Distribution of Wealth. New York: Macmillan
- ^ Kaufman, Bruce E. (2008) (英語). Managing the Human Factor: The Early Years of Human Resource Management in American Industry. Ithaca, New York: Cornell University Press. ISBN 978-0801442278
- ^ Bakke, E. Wight (1958) (英語). The Human Resources Function. New Haven: Yale Labor and Management Center
- ^ a b c “GARY BECKER ON HUMAN CAPITAL”. Journal of Demographic Economics (Cambridge Core) 2026年1月23日閲覧。.
- ^ “Client Challenge”. www.scribd.com. 2026年1月23日閲覧。
- ^ Hooley, Graham; Broderick, Amanda; Möller, Kristian (January 1998). “Competitive positioning and the resource-based view of the firm”. Journal of Strategic Marketing 6 (2): 97–116. doi:10.1080/09652549800000003.
- ^ “Overview of ISO 30414 Human Capital Reporting Standards”. The Conference Board. 2026年1月23日閲覧。
- ^ a b “The 11 Core Areas HCM Metrics & ISO 30414:2018”. 2026年1月23日閲覧。
- ^ 人的資本経営の実現に向けた検討会 (May 2022). 人材版伊藤レポート2.0 (PDF) (Report). 経済産業省. 2026年1月23日閲覧.
- ^ Strategic HRM and HRM Strategic Integration, SAGE Publications India Pvt Ltd, (2009), pp. 29–71, doi:10.4135/9788132108269.n2 2026年1月22日閲覧。
- ^ 坪谷邦生『図解 人材マネジメント入門 人事の基礎をゼロからおさえておきたい人のための「理論と実践」100のツボ』ディスカヴァー・トゥエンティワン、2020年、3頁。
- ^ Strategic Human Resource Management in Japan (Report). The Association for Overseas Technical Cooperation and Sustainable Partnerships. 2026年1月23日閲覧.
- ^ “HOW FAR DOES HRM DIFFER FROM PM”. 2026年1月23日閲覧。
- ^ “ISO 9001:2000 Quality management systems — Requirements” (英語). International Organization for Standardization. 2026年1月23日閲覧。
- ^ “ISO 9001 Translated into Plain English” (英語). Praxiom Research Group Limited. 2026年1月23日閲覧。
- ^ Eurofound (2020). Industrial relations and social dialogue (Report) (英語). 2026年1月23日閲覧.
- ^ Silvia, Stephen J. (2013). “Holding the Shop Together: German Industrial Relations in the Postwar Era” (英語). Cornell University Press (Cornell University Press).
- ^ “R195 - Human Resources Development Recommendation, 2004 (No. 195)” (英語). International Labour Organization. 2026年1月23日閲覧。
- ^ a b “General Assembly Resolutions on Migration” (英語). United Nations. 2026年1月23日閲覧。
- ^ “Why HR is now called People Operations” (英語). HR Magazine. (2021年5月15日) 2026年1月23日閲覧。