京阪神緩行線

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京阪神緩行線
基本情報
日本の旗 日本
起点 京都駅
終点 西明石駅
経由路線 東海道本線山陽本線
運営者 西日本旅客鉄道
路線諸元
路線距離 98.7 km
軌間 1,067 mm (狭軌)
線路数 複線
電化方式 直流1500V 架空電車線方式
最高速度 120 km/h
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運行系統図
  • BSicon lBHF.svg:終日運転
  • BSicon lHST.svg:平日朝のみ運転
  • [ ]内は接続路線(JR線のみ記載)

KHSTa
草津駅 草津線
HST
南草津駅
HST
瀬田駅
HST
石山駅
HST
膳所駅
HST
大津駅
ABZg+r
湖西線
HST
山科駅
STR
東海道本線琵琶湖線
BHF
京都駅 東海道新幹線
STR
奈良線山陰本線嵯峨野線)]
STR
東海道本線(JR京都線
BHF
西大路駅
BHF
桂川駅
BHF
向日町駅
BHF
長岡京駅
BHF
山崎駅
BHF
島本駅
BHF
高槻駅
BHF
摂津富田駅
BHF
茨木駅
BHF
千里丘駅
BHF
岸辺駅
BHF
吹田駅
BHF
東淀川駅
BHF
新大阪駅 東海道新幹線 山陽新幹線
STR
東海道本線(JR京都線)
大阪駅 大阪環状線
STR
東海道本線(JR神戸線
BHF
塚本駅
ABZg+l
JR東西線
BHF
尼崎駅
ABZgr
福知山線(JR宝塚線)
BHF
立花駅
BHF
甲子園口駅
BHF
西宮駅
BHF
さくら夙川駅
BHF
芦屋駅
BHF
甲南山手駅
BHF
摂津本山駅
BHF
住吉駅
BHF
六甲道駅
BHF
灘駅
BHF
三ノ宮駅
BHF
元町駅
STR
東海道本線(JR神戸線)
BHF
神戸駅
STR
山陽本線(JR神戸線)
BHF
兵庫駅 和田岬線
BHF
新長田駅
BHF
鷹取駅
BHF
須磨海浜公園駅
BHF
須磨駅
BHF
塩屋駅
BHF
垂水駅
BHF
舞子駅
BHF
朝霧駅
BHF
明石駅
BHF
西明石駅 山陽新幹線
HST
大久保駅
HST
魚住駅
HST
土山駅
HST
東加古川駅
KHSTe
加古川駅 加古川線

京阪神緩行線(けいはんしんかんこうせん)は、西日本旅客鉄道(JR西日本)の京阪神地区アーバンネットワークのうち、東海道本線京都駅 - 神戸駅間と山陽本線神戸駅 - 西明石駅間 (98.7km) で運行される各駅停車日本国有鉄道(国鉄)時代の通称である。JR化後この区間はJR京都線およびJR神戸線と呼ばれるようになった(呼び方も参照)。

狭義の区間は上記のとおり京都駅 - 西明石駅間であるが、国鉄末期の1985年3月14日加古川駅草津駅への延長を皮切りに、2004年10月から2013年3月までは野洲駅 - 加古川間 (144.7km) が主な運転区間となっていた[1]。現在は草津駅 - 加古川駅間で運転されている[2]

本項では京都駅 - 西明石駅間を中心に記述し、関係する項目に関して、野洲駅 - 京都駅間・西明石駅 - 加古川駅間をはじめ、湖西線福知山線(JR宝塚線)・JR東西線などの直通運転区間も含めて記述する。

呼び方[編集]

京阪神緩行線という名称は路線名としては存在せず、運転系統として鉄道趣味誌などで用いられた通称である。普通電車(列車)または単に普通と呼ばれることが多い。これらも京阪神間(京都駅 - 西明石駅間)の普通電車を指すのに用いられた。特に戦前から1957年までは、現在の新快速快速に相当する列車を「急行電車」(略称急電)、各駅に停車する電車のことを緩行電車と呼び、運転上他の急行列車や中長距離普通列車と区別していた[3]。その後も東海道・山陽本線の普通電車として緩行電車、または京阪神緩行線などと国鉄時代に関係者や鉄道趣味者の間では別称も含めて広く使われていたが、国鉄分割民営化後は、JR西日本において「琵琶湖線」・「JR京都線」・「JR神戸線」などの愛称が定められたことをはじめ、国鉄末期からの運転区間の拡大や、JR東西線の開業に伴い、福知山線(JR宝塚線)やJR東西線などとの直通運転の開始によって定義があいまいになっている。

運行形態[編集]

基本的に東側は京都駅・高槻駅発着で、西側は須磨駅・西明石駅発着である。始発や最終を中心に大阪駅発着の列車も設定されており、朝6時台には甲子園口発の列車も設定されている。神戸始発の列車も西明石行き・京都行きの両方向に設定されている。1往復のみ吹田駅折り返しが設定されている。

朝ラッシュ時間帯はJR神戸線の西明石駅 → 大阪駅間で4分間隔、JR京都線は京都駅 → 高槻駅間で8分間隔、高槻駅 → 大阪駅間が4分間隔で運行されており、神戸駅・尼崎駅発着の列車も設定されている。

日中以降21時台までは1時間に8本運行されている。ただし、京都駅 - 高槻駅間(日中は設定なし)および須磨駅 - 西明石駅間では運行間隔が広がる。京都駅・高槻駅 - 大阪駅 - 須磨駅・西明石駅間の系統・(学研都市線松井山手駅長尾駅四条畷駅 - JR東西線)- 尼崎駅 - 西明石駅間の系統・高槻駅 - 大阪駅 - 尼崎駅 -(JR宝塚線・新三田駅)間の系統の3系統が15分おきに運転されており、尼崎駅では東西線・宝塚線直通系統を同一ホームでの乗り換えで接続させている。大阪発基準では7 - 8分間隔となっている。神戸線区間では1998年10月3日改正で西明石駅発着に統一されたが、2006年3月18日改正で日中時間帯の京都駅発着系統が須磨駅発着に変更された。

平日の朝夜は東側で琵琶湖線の草津行き、西側でJR神戸線の加古川駅列車が設定されている。1985年3月14日に朝夕ラッシュ時と日中の1時間に1本は加古川駅発着になったが、1991年3月16日に快速が加古川駅発着に延長されたのに伴い、朝以外は西明石駅発着に戻された。大久保駅南側の神戸製鋼工場跡地が大規模マンションとなったことから、平日朝時間帯に1本、大久保始発の列車(西明石駅から回送)が設定されている。このように京都駅 - 西明石駅間を中心とする直通運転のため、運転区間が100kmを越えるものも設定されている。

駅間距離が長く運転速度が高い一方で、新快速・快速との接続のため制約の多いダイヤなど条件が厳しく、207系321系の性能をフルに生かしたダイヤを組んでいる。

列車番号は西明石方面へが下り扱い(奇数)となる。列車番号の最後に付くアルファベットは"C"(土曜・休日は"B"、湖西線区間では曜日にかかわらず"M")で、列車番号から「C電」と呼ばれることもある。

電車は複々線の内側線(兵庫駅 - 西明石駅間は電車線)を走る。1986年10月31日までは吹田駅・甲子園口駅[4]を始発・終着とする列車や、1950年代前半までは朝夕ラッシュ時に鷹取駅 - 住吉駅を往復する神戸市内の区間運転電車があった[5]

阪神・淡路大震災被災後は西から西明石駅・須磨駅・神戸駅・灘駅、東からは甲子園口駅・芦屋駅・住吉駅とそれぞれ運転再開区間が拡大していった。

他線区との直通運転[編集]

アーバンネットワークの特徴として他線区との直通運転を柔軟に行っているが、前述のようにJR東西線を介して片町線(学研都市線)とは最長で木津駅、福知山線(JR宝塚線)とは最長で篠山口駅から、それぞれ直通運転を実施している。

ただし、学研都市線の木津発は朝5時台の西明石行き区間快速2本(土曜・休日は甲子園口行き1本)のみである。朝時間帯には京田辺駅・松井山手駅・長尾駅・放出駅・四条畷駅発着の系統(一部は京橋駅まで区間快速として運行)、日中が四条畷駅発着(一部は長尾駅・松井山手駅発着と同志社前発)、夕方は松井山手駅発着と四条畷発、深夜は四条畷行きと松井山手発が設定されている。JR宝塚線の篠山口発は夜19時台の高槻行き1本のみで、大半は新三田駅発着(朝1本のみ宝塚発)である。

使用車両[編集]

現在の車両[編集]

207系(体質改善車)
321系

321系の投入に伴って、201系が森ノ宮電車区(現・吹田総合車両所森ノ宮支所)と奈良電車区(現・吹田総合車両所奈良支所)に、205系が日根野電車区(現・吹田総合車両所日根野支所)に転出し、最高速度120km/h対応の207系・321系に統一された。その後、日根野電車区に転出していた205系が宮原総合運転所(現・網干総合車両所宮原支所)に配置され、2011年3月14日から2013年3月16日まで運用された[6]

過去の車両[編集]

205系0番台(体質改善車)
  • 42系1934年 - 1950年
  • 40系1943年 - 1976年
  • 52系(1943年 - 1950年)…期間は1942年の急電廃止後から阪和線転出時まで。
  • 51系1936年 - 1976年)
  • 70系1951年 - 1971年
  • 72系1944年 - 1976年)…この中には、旧63系、後のクモハ31、クモハ32の両形式およびクハ79形の4扉改造車(旧クハ85形)を含む。
  • 103系1969年 - 1994年3月28日、2005年)…福知山線から乗り入れの車両を除く。
  • 201系1983年2月 - 2007年3月17日)
    • 長年緩行線の主力として走り続けていたが、2005年12月から導入された321系により徐々に置き換えられ2007年3月17日で緩行線から完全に撤退し、大阪環状線大和路線に転属した。なお2003年以降は車両の更新が行われ、東日本の201系とは異なった印象となった。
  • 205系0番台1986年 - 2006年2月7日、2011年3月14日 - 2013年3月16日
    • 車体に水色の帯を巻いていた。在籍編成数は4本のみで見かける回数は少なかったもののこちらも321系の導入で201系より1年早い2006年2月で運用から撤退し阪和線に転属した。だが2011年3月に再度復帰し、帯も321系と同様の帯に塗り替えられ平日朝の京都 - 尼崎間の限定運用に就いていたが、2013年3月16日のダイヤ改正で再度撤退し阪和線にまた戻った。阪和線復帰後は帯がまた水色に戻された。なお緩行線での限定運用の時期に車両の更新が行われた。

行先表示の変遷[編集]

戦前の京阪神緩行線では、前面に行先表示板を掲示することはなかったが、42系、51系など戦前製の車両には、車体中央部の幕板に手動の行先表示幕があり[7]、右書きで“京都行”“神戸行”などと表示をしていた。

戦時中から戦後の混乱期にかけて、側面の行先表示幕は使われなくなり、ほとんどの車両では更新修繕などの機会にふさがれてしまった[8]。また、戦後の混乱期には、前面に直接チョークで行先を書き込んだりしていた。

その後、世相が落ち着いてきた1949年頃から、前面に行先表示板を掲出するようになった。当初は“京都”“西明石”と単に行先を書き記したものだけであったが、1950年以降、現在でもよく知られる、紺地のホーロー板に白枠で描いた図形の中に行先を表示し、図形の下にローマ字で行先を表示した行先表示板に順次取り換えられていった[9]。行先と図形の組み合わせは、西明石=四角、明石=ひし形[10]、神戸=分銅型、大阪=丸、高槻=五角、京都=三角となっており、行先の 文字が判別できなくても、図形を見れば行先が分かるようになっていた。また、区間運転の場合は、“吹田‐尼崎”などの区間表示式の行先表示板を掲示した。その後、1960年以降に転入してきた全金属製のクハ79形920番台など[11]、72系で前面行先表示器が設置されていた車両についてもこれを使用せず、行先表示板の掲示を継続した[12]

しかし、折り返し時における表示板の交換は煩雑かつ危険を伴うもの[13]であったことから、1963年以降、“京都‐西明石”などの区間表示式の行先表示板(下部にローマ字表記あり)に変更された[14][15]

ところが、1969年に103系が投入されると、前面行先表示器は手動式であったものの“大阪”“高槻”などの行先のみの表示のほか、“京都‐甲子園口”“高槻‐西明石”などの区間表示のコマも存在するなど、各行先のコマは準備されていたにもかかわらず、どの行先においても「普通」を表示し、これらの表示幕は使用されなかった。また51・72系といった旧型車も行先表示板の掲示を取りやめ[16]、京阪神緩行線から前面の行先表示が消えてしまった[17]

1974年に投入された量産冷房車では、自動式の行先表示器が前面・側面に設置されたことから行先表示を復活、1975年以降に登場した冷房改造車も含め、“大阪”“高槻”などの行先を表示した。ただし、自動式行先表示器を装備する編成でも緊急時などは「普通」表示で運行する場合があった[18][19]。非冷房編成は量産冷房車の登場以降も「普通」表示のままであり、旧型車は行先表示板の掲出が復活なされないままに運行を終了した。

201・205系では前面黒地に白字、側面は白地に黒字の表示であったが、201系体質改善工事施行車の登場前後から、側面表示幕も黒地に白字に改められた。また、205系1編成[20]が一時期LED表示の試作改造を実施されたほか、阪和線に転出していた205系が体質改善工事を施行されて一時期京阪神緩行線に戻ってきた際には、前面・側面の方向幕がLED表示に取り換えられた。現在の207・321系では行先表示と種別表示が分離されており、行先表示はLED、種別表示は幕で表示されている。


沿革[編集]

草創期(1934年 - 1938年)[編集]

京阪神緩行線の歴史は、1934年7月20日の吹田駅 - 須磨駅間の電化開業と同時に、それまで運転されていたC10形C11形などが牽引する京阪神間の区間運転列車を置き換える形で始まった。最初の電化区間が吹田駅 - 須磨駅間であったが、これは1926年の第52帝国議会で電化計画の協賛を受けた大津駅 - 明石駅間の一部であったことと、大阪・神戸両市内の高架工事完成後は、大阪駅・神戸駅での折り返しが困難になることから、周辺部からの集客を兼ねて同区間で電化を実施した。このとき、大阪駅 - 神戸駅間では「急行電車」(急電、現在の新快速・快速に相当)も運転、塚本駅 - 東灘信号場間は複々線になっていたことから、内側線(方向別複々線のうち内側の2線)に急行と客車列車、外側線に各駅停車と貨物列車を運行し、現在と異なる使用法であった。

須磨駅 - 明石駅間でも電化工事を実施していたが、完成が吹田駅 - 須磨駅間の電化開業に間に合わなかったことから、電車に接続する形でガソリンカーを運転していた。2か月後の9月20日には明石駅まで電化区間が延長され、各駅停車は吹田駅 - 明石駅間の運転となって、ガソリンカーを置きかえた。

電化と同時に宮原電車庫(現在の宮原総合運転所)に投入された42系電車は、各駅停車用としてはモハ43(モハ42)-クロハ59の2両編成を基本編成として日中15分間隔、ラッシュ時には上り側にクハ58-モハ43(モハ42)を増結した4両編成、さらにモハ42を増結した5両編成を10分間隔で運転した。各駅停車でありながら二等車を連結しているのは、関東の京浜線同様都市間輸送路線であったことと、まだマイカーが普及していない時代であったことから、電化以前から二等車の需要が高かったことがあげられる[21]。また、この地域では当時から女子の高等教育機関が多く、女学生の通学に二等車を使うことが多かったことも、二等車連結の理由にあげられている。

42系電車は当時の省電としては破格の車両であったが、並行するライバル私鉄の車両から比べると、三等車の背ずりが板張りであったりしたことが、やや遜色があったといえる。しかしながら、オーソドックスなデザインはきわめて好ましいものがあり、後々まで多くの鉄道愛好者から好かれる車両となった。

このように、短編成によるフリークエントサービスを行ったのは、電化以前からのサービス向上もさることながら、阪急電鉄阪神電鉄といったライバル私鉄を意識した面もある。電気運転の開始と同時に六甲道駅などの新駅を開業し、併せて粘り強くフリークエントサービスを実施したことが、沿線での都市化の推進と乗客の獲得に寄与し、その相乗効果でさらに乗客数が増加し、本数増発・車両増結につながっていくこととなった。各駅停車の増発・増結は、モハ42・43に余裕があったことからクハ58を増備することで対応し[22]、中でも、1936年に登場した、クハ58のラストナンバーであるクハ58025は、42系の側面に半流線型の前面を持つ、きわめてスマートな車両であった。

その後、1937年10月10日の吹田駅 - 京都駅間の電化を前に、同年8月10日に明石操車場の一角に明石電車区(現在の網干総合車両所明石支所)を開設、その後40年近くにわたって京阪神緩行線を走り続けることとなる、モハ51・クハ68・クロハ69の51系各形式を新製投入した。京都駅までの電化開業後、各駅停車の運転区間も京都駅 - 明石駅間に延長され、「流電」モハ52や半流43系を主体とした京都駅 - 神戸駅間の急電が現在の新快速・快速のルーツになったのと同様、現在まで続く京阪神緩行線の原型がここに確立したのである。また、同時期に神崎駅(現在の尼崎駅)・住吉駅・鷹取駅に折り返し線が設けられ、ラッシュ時の区間運転が開始された。

戦時下の試練(1938年 - 1949年)[編集]

戦時体制[編集]

京都駅まで電化開業したときには、すでに日中戦争が始まっていた。このころから、戦略物資を中心とした統制経済の拡大と奢侈の抑制が図られるようになっていたが、鉄道省もそれに呼応する形で、1938年11月1日から、省電区間、具体的には京浜線と京阪神緩行線での2等車の連結を廃止した[23]。この時点ではクロハ59・69の両形式は3等代用として使用されていたが、1940年からクロハ59形の3扉化改造(クハ68形に編入)を実施することになった[24]

また、この時期の変わった話題としては、当時の阪和電鉄が車両不足を補うために鉄道省に電車の貸し出しを申請、東京鉄道局からモハ34-クハ38の2両編成を借りたのはいいが、阪和自慢のモヨ100・モタ300等に比べるとあまりにもお粗末な内装に、乗客だけでなく会社側からも不満の声が上がり、慌ててこの2両編成を吹田駅 - 神崎駅間の小運転に投入するとともに、阪和にはモハ43-クハ58(またはクロハ59)の2両編成を貸し出すこととなった。この貸し出しは阪和が南海に合併され、後に国有化されるまで続くこととなる。

その後、日本は太平洋戦争に突入、1942年11月14日には急電を廃止し、これらの車両も緩行用に投入した。しかしながらモハ52は流線型で乗務員用のドアがなかったため、混雑の中で交替に手間がかかって乗務員に嫌われてしまい、編成の中間に付随車代用として組み込まれることとなる。また、このころ、輸送力増強として城東・西成線のモハ60、クハ55と本線のモハ51、クハ68をトレードして対応していたが、ついにはこのような小手先の対応ではどちらの需要もまかなうことができなくなってしまった。そこで、42系を4扉化して城東・西成線のモハ40系の台車と振り替えて城東・西成線に投入、代わりにモハ40系をモハ51として、ロングシートのまま京阪神緩行線に投入する、という計画が立てられた。

この改造は乏しい物資をやりくりしながら積極的に実施され、第1号のモハ43028[25]-クハ55106[26]が1943年に登場した。その後、多くのモハ43、クハ58が4扉化改造されることとなり、形式もモハ64、クハ85と改められた[27]。そして、あのクハ58025も4扉化改造されてしまい、クハ85025を経て、最後はクハ79055となった。これらの改造と並行して、既存の車両の座席撤去、ロングシート化も推進され、1942年に横須賀線[28]の2等車として転出したクロハ69001, 002を除くクロハ69、クハ68の全車がクハ55に編入された。

これらの非常措置と併せて、1943 - 1944年にはモハ60を増備、1944年1月には6両化を実施して輸送力の強化を図り、直後の1944年4月1日には明石電車区の南側にあった川崎航空機明石工場[29]への通勤客の輸送手段を確保するため、明石電車区の構内に西明石駅を設置、定期券所持者のみの客扱いを開始した[30]。この西明石駅延長で京阪神緩行線の基本運転区間が確定した。

空襲被害[編集]

しかし、関係者の努力が通用したのもこの段階までだった。1945年に入ると、日本本土が激しい空襲に見舞われ、京阪神緩行線の沿線でも3月14日の大阪、3月17日の神戸両市の大空襲を皮切りに攻撃が行なわれるようになった。京阪神緩行線の電車の被災は、1945年3月17日の神戸大空襲の際に、神戸駅で停泊していた電車2両が全焼したのが始まりだった。その後は、沿線各地の空襲に巻き込まれて被災するようになり、7月7日の川崎航空機工場への空襲では、隣接する明石電車区も大被害を受け、「流電」モハ52系のラストナンバーであるモハ52006が全焼するなどの被害を受けた。8月6日には、住吉駅構内で半流モハ43のトップナンバーであるモハ43038ほか4両が被災した。戦災以外にも、物資不足によって故障車の補修もままならず、車両の稼働率は目に見えて低下していった。このような状況の中、8月15日の終戦を迎えたのである。

終戦直後[編集]

戦後初期のほうが、戦時下より混乱がひどかった。軍需工場への通勤はなくなったが、それに代わる多くの買出し者や、帰国した復員者に引揚者たちが電車に殺到した。しかし、肝心の電車は空襲による被災と故障車の増加で稼働率は大幅に低下しており、数少ない稼動車も修繕部品の不足から故障車の仲間入りする車両が増加した。このような中でも、連合軍専用のいわゆる「白帯車」指定は京阪神緩行線に対しても行なわれ、旧クロハ69、クロハ59出身車を中心に、クハ55が7両白帯車に指定された。

京都駅 - 高槻駅間と明石駅 - 西明石駅間では運転本数を削減して予備車を捻出、その間に故障車の修理を急いだほか、客車列車の不足を補うため、大阪駅 - 姫路駅間で、C51形牽引の42系の故障車ばかり集めた列車を運転した。このような混乱も1946 - 1947年の間に63系の投入などで状況は好転の兆しを見せ、戦時中に撤去された座席の整備や板張り窓の窓ガラス補修、室内灯の整備などが行なわれるようになった。このうち、座席整備では2扉車はクロスシートの復活を実施したが、3扉車と4扉車ではロングシートの整備を実施し、この時点では51系出自の旧クロスシート車もロングシート車として整備されることとなった。こうして京阪神緩行線は徐々に復興し、ラッシュ時の吹田駅 - 神崎駅間と住吉駅 - 鷹取駅間の区間運転が復活したほか、1949年4月には京都駅 - 大阪駅間に急電が復活、6月には神戸駅まで完全復活することでようやく急電・緩行あわせてダイヤ面では戦前の状態に復旧した。

戦後の黄金時代(1950 - 1959年)[編集]

車両の復興[編集]

ダイヤ面での復興が完成すると、次に車両面の復興が行われることになった。具体的には、戦前同様のクロスシートサービスの提供である。このために、東西を股にかけた大掛かりな車両の転配属が実施された。まずは急行電車に80系を投入、それまで使用していたモハ52や半流モハ43を阪和線に転出させただけでなく、残りの整備済みの42系[31]を横須賀線に転出させ、横須賀線に応援に入っていた63系を他線に振り向けた。同じ時期に、関西地区の63系の大半を関東地区に転出させており、これらの車両を元手に、戦前中央線に配属され、戦時中にモハ41型への編入改造を受けたモハ51001 - 51026のうち、戦災廃車の3両を除いた23両全車を京阪神緩行線に転入させた[32]。続いて、京阪神緩行線に残留していた戦時中の4扉改造車を城東・西成線に転出させ、代わりに51系出自の旧クロスシート車を中心に3扉車を京阪神緩行線に転属させた。

70系の投入以後[編集]

1951年の初めには、横須賀線と同時に京阪神緩行線にも70系が投入された。当初はモハ70だけの投入であり、横須賀線とはジャンパ栓が違うことから100番台に区分されたほか、塗色も他形式に合わせてぶどう色1色であった。こうして、京阪神緩行線所属車両の大半が3扉車となったことから、1951年から1952年にかけて宮原電車区・明石電車区所属の3扉車について、一部の車両を除いて70系と同様のクロスシートの整備、復活が行なわれた。整備に際し、モハ51001 - 51026については、ギア比を変更して、元からの大鉄所属車と性能を合わせている。その後、1953年の形式称号改正の際にはこれらのクロスシート車はすべて51系に編入されたが、モハ54やクハ68のように、オリジナルの車両より他形式からの改造車のほうが多いといった形式も発生している。

また、1951年11月に白帯車の運行が廃止されると、旧白帯車の運転台側を2等室として仮整備して運行する一方、関東に転出していたクロハ69001、002を明石に呼び帰し、併せて旧クロハ69のクハ55ともども、戦前並みに復元する工事を実施した。この復元工事では単に復元するだけでなく、内装を当時の花形であった特別二等車に合わせてローズグレーの塗りつぶし[33]にしたほか、シートはさすがに戦前同様固定クロスとロングのセミクロスシートであったものの、モケット地もエンジ色[34]として、室内灯のカバーも特別二等車と同じ物を取り付け、後に蛍光灯が実用化されると真っ先に導入されるなど、当時の担当者が「電車の特ロ(特別二等車の略称)」と自負するくらいの凝った内装である。当時新製中だったサロ85サロ75と比べても遜色ないほどになった。

これらの工事が終了した1953年ごろには、車両面での復興もなしとげただけでなく、多くの面で戦前のレベルを超えたものになっていた。戦前とは違い、3扉クロスシート車で揃えられた編成は(ごく一部に72系やクハ55を組み込んだ編成があったにしても)他線では見られない魅力をもつものであり、「西の京阪神緩行線、東の横須賀線」として多くの鉄道愛好者にもてはやされた。その中でも白眉とでも言うべきクロハ69組み込み編成は、西明石側からクハ68(後にクハ76)+モハ70+モハ70+クロハ69の4両で編成され、ラッシュ時には京都側に2両を増結し、6両編成で運行された。また、クロハを組み込まない編成は3 - 4両で組成された。その後も70系の増備は続き、1954年末からはクハ76も登場、ぶどう色一色で登場したため、「茶坊主」の愛称が付いた。クハ76の配備両数は少なかったことから、基本編成の両端がクハ76という編成はなかったが、基本編成と付属編成の両端の車両がクハ76であったときは、意外な編成美を見せたものである。70系は1957年まで増備され、全金属車の300番台こそ入らなかったものの、合計65両が京阪神緩行線に新製投入され、投入当時のコンセプトどおりの活躍を見せた。また、1956年3月には高槻電車区が開設され、宮原電車区所属の各駅停車用車両が転属している。

運転体系の変化[編集]

1957年9月25日のダイヤ改正では、急行(急電)も含めて運転面での大きな変化が見られた。茨木駅 - 大阪駅間の旅客線の複々線化に伴い、従来の各駅停車が外側線、急行が内側線の運行形態から、内側線を電車線(大阪鉄道管理局管理)、外側線を列車線(本社管理)として走行線路を各駅停車・急行ともに統一し、芦屋駅・高槻駅に停車することによって相互接続運転を開始した。同時に急行(急電)が快速に名称変更されている。このときに、ラッシュ時の各駅停車の一部が7両化されたほか、区間運転がいったん廃止された。これ以外では、電化のたびに運転区間が拡大する快速と違って各駅停車には大きな変化はなく、車両形式図集に「大阪形電車」と記された51系と戦後生まれの70系が主役となって、1955年ごろを中心に、京阪神緩行線の黄金時代を迎えることとなったのである。

輸送力増強の影での苦難(1960 - 1967年)[編集]

通勤路線への変貌[編集]

1950年代も後半に入ると、都市中心部を走る路線だけでなく、京阪神緩行線や横須賀線のような、当時としては中距離路線[35]においても混雑緩和と輸送力の増強が求められるようになった。中でも、横須賀線の輸送力増強は緊急の課題であったが、直流用の新性能近郊型電車の導入までにはまだ時間がかかることから、京阪神緩行線の70系を転属させて投入することにした。つまり、中央線快速・山手線の新性能化や、大阪環状線西側の開業用に101系を投入、そこで捻出された40系72系を京阪神緩行線に転属させることによって70系を捻出して転属させたのである。このような形で、1960 - 62年にかけて明石・高槻の両区から70系の大半が大船に転属したほか、阪和線快速の輸送力増強も同じ手法で実施したことによって、鳳電車区(現在の日根野電車区鳳派出所)にも70系の一部が転出した。また、この手法は動力近代化による新規電化区間の開業時においても使われ、1960年10月岡山地区の電化[36]に伴い、51系の一部が岡山電車区に転出したほか、1962年5月の信越本線の新潟駅までの電化の時に70系とクハ68が転出している。さらに、京阪神緩行線の輸送力増強もこれらの転入車でまかなわれることになった。ただ、この時期に中央線快速や大阪環状線から転入した72系は、比較的後期の新製車や920番台の全金属車が多く含まれていたほか、後に可部線で活躍するクモハ73001のような全金属改造車もあったことから、後に転属してきた72系の車両に比べるとまだレベルが高かった。

51, 70系の転出と72系の大量投入によって、3扉セミクロスシート車主体の京阪神緩行線の編成は大きく崩れることとなったが、ラッシュ時は300%を超える混雑率になることから、4扉ロングシートへの移行が行われた。それでもなお輸送力の不足は否めず1961年から快速にサロ85の連結が開始されたことから、1962年10月にはクロハの連結を廃止しロングシート改造を施しクハ55150番台に格下げを行い少しでも多くの定員を確保した。

確かに、京阪神緩行線の沿線人口は増加し、ラッシュ時の混雑は激化していたが、昼間時はさほど混雑していなかった。このような線区への72系の投入は明らかなサービスダウンだが、51・70系が使い勝手がいい車両であったことと、72系を転用できる路線が限られていたことから、結果として京阪神緩行線が貧乏くじを引く結果となった。しかも、輸送力増強用に関東から転入してくる72系は、可部線で活躍するクハ79004のような戦時中に製造された鋼体化改造車や旧63系の改造車が大量に含まれていたほか、それまでの整備が雑であったことから、どんどん車両のレベルが低下していった。しかし、これらの車両を活用して1963年には大半の列車が7両で運行[37]されるようになったほか、吹田駅 - 尼崎駅間を往復する区間運転が復活、1964年10月1日には甲子園口駅の配線改良[38]に伴い、往復運転の折り返し駅が甲子園口駅に変更された。また、1965年3月には鷹取駅 - 西明石駅間の複々線化が完成したが、それに先立つ1961年6月に西明石駅の現在地への移転を実施した。翌1966年には京都駅 - 向日町駅間の貨客分離に伴って旅客列車用線路の複々線化が完成したことにより、電車線が完全複々線化された。

ライバルとの競争[編集]

72系の投入を巡っては、国鉄本社と大阪鉄道管理局(大阪局・大鉄局)とのあいだでの認識の違いがあった。国鉄本社とすれば、京阪神緩行線と首都圏の京浜東北線が同じような線区と判断したとされるが、実際のところは大きな違いがあった。まず、京浜東北線は田端駅 - 大井町駅間で東京都心を縦貫するが、京阪神緩行線で似ている区間を挙げるとすると、神戸市内を縦断する六甲道駅 - 鷹取駅間くらいである。また、大宮駅 - 桜木町駅間では当時から都市化が進んでいたが、京阪神緩行線の場合は、京都駅を出て次の西大路駅で当時の京都市電西大路線を過ぎると、高槻駅の手前まで駅周辺を除くと点在する工場と田園地帯が続き、その後も淀川を渡るまで工場と田園地帯と住宅地がまだらに続いていた(当時新大阪駅はまだ開業していなかった)。このことは、京阪間より都市化が進んでいた阪神間においても同様で、沿線には田畑が多く残っていたほか、須磨以西の宅地開発も進んでいたが、それらと比較してもまだ郊外であった。

このような路線の違いがあったことから、京浜東北線では戦前からロングシート車主体の運行であり、京阪神緩行線は京阪神3都市と高槻・茨木・吹田・尼崎・西宮・芦屋・明石といった中規模の都市を結んでいたため、51・70系といった3扉セミクロスシート車が投入された。

このように性格の違う両線区であったが、それ以上に違いがあった。ライバルの存在である。

京浜東北線には、品川駅 - 横浜駅間で京急本線と並行する。しかし京急の優等列車の相手は横須賀線東海道線が務めることになるため、京浜東北線としては必然的に普通と対抗する方法となり、当時は旧型車主体で駅間距離が短く、速度も低い京急の普通はライバルにはなりにくかった。

しかし、京阪神緩行線には、阪急京都線神戸線阪神本線山陽電鉄本線とほぼ全区間に渡って並行路線が存在し、しかも、京阪神緩行線の駅間距離が長いことから、普通だけでなく急行クラスの優等列車とも勝負を余儀なくされた。また、急行だけでなく普通の速度も比較的高いのに加えて、車両の面でも手強いライバル揃いであった。

  • 阪急ではP-6(100系)920系などの戦前生まれの車両のほか、710810系などの戦後初期の車両から10101300系といった初期の高性能車に初代ローレル賞受賞車の神戸線2000京都線2300系が主力として運用されていた。
  • 急速に車両の大型化を進める阪神では、3011形特急車を筆頭に3301・3501形7801形といった赤胴車が優等列車に充当され、駅間距離の短い普通にはジェットカー(5001形5101・5201形ほか)が続々と投入され、たちまち旧型車を置き換えた。
  • 山陽も820・850系といった元特急車のほか、2扉の特急車と3扉の通勤車が投入された2000系、一部木造車が残っていた100系を更新した250系270系、流線型の200系小型車を更新した300系、広軌63系として有名な700系を更新した2700系と700系全金属改造車、そして現在も運用される3000系といったように、各社とも戦前の名車から戦後の新車、更新車が勢揃いしていた。

京阪神緩行線もセミクロスシートの51・70系であれば互角の勝負を挑めるが、中古の63系上がりの72系では、整備の行き届いた広軌63系の山電700系にも及ばず、72系920番台全金属車や全金属改造車でやっと阪神7801形と肩を並べる程度で、ライバル各線区の車両とは接客レベルに雲泥の差が生じてしまった。線区の特性を無視した72系の大量投入によって、京阪神緩行線は魅力だけでなく競争力も急速に失っていった。さらに拍車をかけるように1962年には阪急神戸線・阪神本線と山電を結ぶ神戸高速鉄道が着工され、建設が進められていた。

しかし大鉄局としても手をこまねいていた訳ではなく、新潟地区への70系投入についても当初はクモハ54の投入を検討したり[39]、1964 - 1965年にかけて、横須賀線の113系化の進展に伴って捻出された70系[40]を20両前後明石に転入させる[41]など、何とかして「3扉クロスシートの京阪神緩行線」を維持しようとしたが、ラッシュ時には300%近い乗車率に達していたことから超満員の乗客でドアガラスが破損するなど、もはや3扉クロスシート車主体でラッシュ輸送に対応することが困難な情勢になっていた。こうしたことから翌年の中央西線瑞浪駅までの電化で70系をほとんどすべてを大垣に転出させた一方で[42]、代わりに京浜東北線から大量の中古72系を受け入れて、昼間時の着席サービスを犠牲にすることで[43]ラッシュ時の輸送力増強を図った[44]。それでも51系は100両近く残留し、1968年10月1日の「ヨン・サン・トオ」ダイヤ改正前後でも51系が60両、モハ70が3両残存していたことから、基本編成、付属編成のどちらかにこれらの形式を1 - 2両組み込むことでクロスシートサービスの維持を図っていた。なお、快速においても従来の80系ではラッシュ時に対応が困難になってきたことや、競合する各私鉄が1960年代前半に特急用の新車[45]を投入したことから、1964年から113系近郊形電車が快速に投入されている。

1970年代は103系の時代(1968 - 1982年)[編集]

新形通勤電車構想[編集]

1960年代の運転形態は、内側線を近距離快速電車と普通電車が、外側線を貨物・特急・急行などに混じって中距離快速電車(列車)が運転されていた。ラッシュ時は1時間あたり内側線の快速が4本、普通電車が8本の構成(これ以外に尼崎駅 - 吹田駅間の小運転系統が4本)であったが、毎年増え続ける通勤輸送対策のため、1時間あたりの本数を近距離快速電車で6本、普通電車で12本に増強する方針を立てた。外側線の中距離快速の増発は貨物や特急・急行列車などの列車密度の関係と、芦屋駅や高槻駅には外側線にホームがないという構造上の問題があったためである。内側線では普通電車は快速電車の待避待ちが発生するが、10分という快速電車の運転間隔で2本の普通電車が合間を縫って次の待避駅まで後続の快速電車から逃げ切るには、低性能な緩行用旧型国電では無理で高加速・高速・高減速性能により快速電車とほぼ平行ダイヤが組めるようなが車両が必要になる。その条件を満たす性能として大鉄では4扉ロングシート、歯車比が1:4.82程度、250%乗車時での均衡速度は103km/h程度、平均加速度は1.3km/h/sという車両を要求した[46]

昭和30年代後半におけるラッシュ輸送は飽和状態で、昭和38年11月時の朝ラッシュ時30分あたりの混雑率は、東淀川駅→大阪駅間で普通電車が303%、快速電車が294%、塚本駅→大阪駅間で普通電車が282%、快速電車が333%となっており、昭和39年度電車転属要求会議において大阪緩行新形式電車取替用として318両の要求をしている[47]。しかし、当時のラッシュ時の近距離快速電車の編成は15分間隔で6両 - 10両であり、国鉄本社は快速増発のために新形式が必要というのであれば、むしろ増発せずに増結すれば良いとの意見などもあり[48]、大鉄の高性能電車については今後の課題として体良く却下されている。

さらに1964年(昭和39年)10月1日改正からは快速電車に113系新性能電車が投入されはじめると、旧型国電による普通電車との性能差は開く一方となる。この頃大鉄局の考え方にも柔軟性が出てくる。線路使用状況の変化によっては各駅停車用に特化した高性能通勤型電車ではなく103系のような在来型も適するという意見がそれである[49]。これは、外側線に快速を増発できるようになれば輸送力増強の目的は達せられ、普通電車用に特化した高性能通勤型電車を求めなくても良いということで、1966年10月からは芦屋駅・高槻駅が外側線からホームに入れる駅構造に変更になって内側線の快速の一部を外側線走行に変更し増発[50]しており、大鉄局が求める高性能通勤型電車の必要性はこの段階で薄れてきたと言える。その結果、1970年の万博輸送を前にした車両増備要求調書に大鉄局は淡々と103系の要求を書き入れている[51]

103系電車の構想時には、常磐線や京阪神緩行線は新形通勤電車の投入想定線区には入っていたが、103系自体の設計では対象外とされ(詳細は国鉄103系電車#新形通勤電車の要件参照)実際に投入するに際しては何らかの手直し等が必要と認識されていた。103系は首都圏の通勤路線事情(駅間距離・表定速度・電力事情等)に適した設計で、60 - 80km/h程度でノッチオフすることが前提であり、高速運転への配慮が必要な京阪神緩行には線区特性上適しているとはいえなかった。ただし、設計段階で週末の臨時電車として使う事を想定しており高速性能を高めるために界磁を35%まで弱める設計としていたので、最高速度が95km/hに制限される既存の通勤用旧型国電に比べて高速性能は向上している[52]

また、昭和40年度から2km台の駅間距離のある京浜東北線での運用開始に際し、103系のギア比を少し高速よりにセッティングすることや、MT54による通勤電車の可能性を模索したものの、結局現状の103系と大きな違いは認められず、逆に103系の優位性が確認できたことから、駅間距離が2kmを超えるような線区でも特に手直しなく103系が使えるとされた[53]。その後昭和41年度より京浜東北線よりも駅間距離が長い常磐線に投入されることになるが、ちょうどメンテナンスフリーのディスクブレーキ付台車が完成したこともあり、付随車・制御車の台車をディスクブレーキ付きにはしたものの、先に京浜東北線投入時の研究結果があったために、性能に抜本的な変更をする必要は無かった。

103系投入[編集]

103系

1968年(昭和43年)4月7日にはライバルの神戸高速鉄道が開通した。対抗策として快速の113系統一が1967年に完了しており、1968年10月1日の「ヨン・サン・トオ」ダイヤ改正で従来の快速20分、普通10分間隔基準のダイヤから、現在と同様の15分間隔のダイヤとなった。

この段階で、快速と各駅停車の間に性能、サービスの両面から大きな差が開いたことから、各駅停車への新車投入が急がれることとなった。関西支社・大鉄局双方とも本社に対して以前から各駅停車への新車の早期投入を要請していたが、爆発的な通勤需要の伸びを見せる東京圏を優先した結果、京阪神緩行線は待たされ続け、新形式の導入を待っていたら1970年大阪万博開催に間に合わない状況になり、それ以前に新車を投入したいという大鉄局の思いが103系の導入につながった。実際、103系もこのころには常磐線(現在の常磐快速線)や阪和線快速といった駅間距離も長く高速性能を要求される線区にも投入されていたことから、京阪神緩行線に導入しても充分対応できると判断された[54]のである。

こうして、1969年8月8日から明石電車区に103系の新製投入が始まり、翌年2月までに15編成105両が勢揃いして万博輸送に当たることとなった。新形電車なので、旧形電車の最高速度90km/hを上回る最高速度95km/hにて運転することができ、電気ブレーキの使用と相まって駅間運転時分の短縮が図れた。

万博終了後の1970年10月1日ダイヤ改正で新快速が登場したが、既存のダイヤの間に新快速を増発したため、芦屋駅・新大阪駅・高槻駅で各駅停車が新快速・快速を連続待避するダイヤとなった。なお、103系投入によって51系が飯田線身延線赤穂線などに転属したほか、72系が首都圏の周辺線区や阪和線などに転属し、そして1971年の初頭には最後まで残ったモハ70が3両、仙石線に転属して、51系より先に70系が京阪神緩行線から姿を消した。

1972年2 - 3月にかけて、ヘッドライトのシールドビーム2灯化と側窓のユニットサッシ化が図られた1次改良車を15編成+予備4連×1本(計109両)を新製し、明石に投入した。この一次改良車は京阪神緩行線のほかは常磐快速線(松戸)に投入された。

この1次改良車の投入によって昼間時の103系化が達成されたことから、山陽新幹線の新大阪駅 - 岡山駅間開業による1972年(昭和47年)3月15日のダイヤ改正(「ヨン・ナナ・サン」)で新快速が1時間あたり4本に増発されたのと同時に、京阪神緩行線のダイヤは大きく変更された。

朝時間帯は神戸市内利用客の便宜を図るために3分間隔に増発された。特急以上の速度で15分間隔で走る新快速[55]から逃げ切るには線区最高速度90km/hの旧型車両では不可能で、日中の103系への統一がなされたことでようやく実現[56]したのであるが、それでも新快速運転中の京都駅 - 西明石駅間の直通運転はできなくなった。そこで、日中の運転を京都駅 - 甲子園口駅間と吹田駅 - 西明石駅間の2系統に分割[57]したほか、高槻駅・芦屋駅では新快速・快速を連続待避し、須磨駅では新快速を待避するダイヤとした。このダイヤ体制はその後、1985年(昭和60年)3月13日まで13年続いた。

ただし、実用限界の95km/h以上の最高速度を要求された103系は、電気ブレーキ時の衝動などのトラブルが相次ぐことになるが、それらも問題点が順次明らかにされて解決されていった。しかし各駅停車の区間を2系統に分割したとはいえ、内側線は外側線と同じ閉塞構成であり、貨物列車のブレーキ力を想定した信号配置であったことから、すぐに後続の列車に制限信号を与える結果となった。15分サイクルに新快速・快速・各駅停車2本が走るということは平均3分45秒間隔で電車が走ることになるが、その運転間隔をスムーズに運転するだけの閉塞構成でなかった点もあり、新快速の大阪駅 - 三ノ宮駅間では改正前の23分20秒から10秒増え、23分30秒運転となっていた。

冷房化と増備[編集]

この時期になると、国鉄・私鉄を問わず、通勤電車にも冷房車が導入されるようになっていた。急行「鷲羽」・「とも」の153系を充当した新快速は別として、1970年からは快速の113系の冷房改造も始まっていた。また、競合する各私鉄も1970年には阪急5200系・阪神7001形、1972年には山陽3050系と相次いで冷房付きの通勤形電車を登場させていた。そんな中で各駅停車の冷房化が行われることとなり、山手線・中央線快速・大阪環状線に続く4番手として、1974年1 - 3月に京阪神緩行線に冷房車が11編成77両投入されることとなった。これが高槻電車区への103系初配属である。このときから従来のように編成単位で投入するのではなく、東京向けのATC準備工事対応の高運転台制御車と京阪神緩行線向け中間車を新製、東京地区で制御車を差し替えて京阪神緩行線に投入するという手法を取るようになった。ただ、このクハ103形は前年に新製され、山手線と中央線快速に投入された量産冷房車で、ほぼ新車に近い車両であった。また、このとき導入された冷房車編成の戸袋窓には「冷房車」の文字とペンギンのイラストが入ったステッカーが貼り付けられ、冷房車であることをPRした。

以上のように、3次にわたって103系を291両(41編成+予備4両1編成)投入したが、1975年になっても明石電車区・高槻電車区には100両の51系・72系が在籍していた。これらを置き換えるため、同年の4 - 9月にかけてさらに103系を投入し、9月には新性能化を完了した

この際には新製と山手線からの転属で103系を明石電車区に35両(中間車5両×7本)、高槻電車区に23両(中間車5両×4本+予備電動車1ユニット+予備付随車1両)を投入し、これに山手線ATC化準備工事制御車と差し替えた制御車22両が転入し、103系7連×11本とバラ予備M'M1ユニット+T1両(計80両)を編成して、京阪神緩行線の103系化を達成した。この結果同線の103系は52編成+予備4両1編成+バラ予備電動車1ユニット+付随車1両の計371両となった。このとき振り替えられたクハ103形は、初期の非冷房車ばかりで、このままでは中間車の冷房が使用できないことから、吹田、鷹取の両工場で冷房改造を施工すると同時に、間に合わない車両については乗務員室内に冷房制御スイッチだけ取り付けたり、冷房車編成の制御車を1両差し替えるなどして夏季を乗り切り、9月の新性能化後も、制御車冷房改造の予備車捻出のため、翌年2月末まで暫定運用を組んで対応した。

こうして、立ち消えになってしまった新系列車両計画ともども旧型車は全車営業運転を終了したが、最後まで残った旧型車の中にはクモハ51形が4両残っており[58]、このほか、旧クロハ69のクハ55150番台も阪和線に転出した1両を除き全車最終取り替えで営業運転を終了した。

103系への統一後の京阪神緩行線は、1976年8月に高槻電車区予備車の付随車1両を森ノ宮電車区に転配された京浜東北線の制御車(入線時に冷房改造済み)に差し替え、1978年10月2日のダイヤ改正の際に、新造車と大阪環状線の予備付随車および山手線から転配された制御車に明石の予備車を活用して7両編成×2本+予備4両(計18両)を編成、通勤時の輸送力増強を図った。また、このころから1次改良車の冷房改造を実施、1981年にかけて6本42両の改造を実施した。

分割民営化前後(1983 - 1994年)[編集]

201系の投入[編集]

201系

103系統一後、車種の入れ替えがなかった京阪神緩行線に、13年ぶりの新車として関西初のスカイブルーの201系1982年12月に高槻に新製配置され、翌1983年1月21日には訓練運転を開始して2月21日から営業運転を開始、3月までに10編成が投入された。201系の投入は1981年中央線快速(試作車は1979年登場)、1982年の中央・総武線各駅停車に次いで3路線目だった。

103系のときと違い、素早い新車投入であったが、これには片町線・関西本線の101系の早期置き換えと、他線に比べて低い両線の冷房化率の向上という背景があった。関西本線の101系は、前年8月の台風10号王寺駅構内の留置線が冠水したことにより101系が大量に廃車されたため、首都圏から廃車予定車の101系をかき集めて運行していたことから、これらの置き換えは緊急の課題となっていたものである。

この中での201系の投入は、上記2点だけでなく、京阪神緩行線の特性に必ずしも合致していない103系を転出させることでスピードアップを図るという、一石三鳥の効果を狙ったものだった。実際、201系は優れた高速性能や乗り心地をもち[59]、また、乗客からも一目で新車とわかるブラックフェイスと明るい内装は好評を持って迎えられただけでなく、並行私鉄と比べても遜色のない車両であったことから、新快速の117系同様、防戦一方の国鉄のカウンターアタックのシンボルとなった[60]

201系の第2次投入は1983年6月から9月にかけて実施され、6編成が明石電車区に配属されて103系を捻出し、片町・関西本線の101系を置き換えた[61]

201系の投入ピッチは早く、1983年の12月から1984年3月にかけて第3次投入分として7編成が明石に配属され、同年11月からは、窓の2段上昇化やナンバーの転写表記化など、より一層のコストダウンを図った「軽装車」を9編成投入、高槻電車区・明石電車区合わせて32本・224両の201系が出揃った。これによって関西本線各駅停車の103系への統一、片町線電化区間の非冷房101系の置き換えと余剰T車を活用した7両統一を実施した。

この時点で201系の割合が過半数に達したことから、1985年3月14日のダイヤ改正で201系の性能を生かしたダイヤを組むことになった。朝夕ラッシュ時には運転区間を加古川駅・草津駅まで延長した。日中時間帯は1時間あたり1本が加古川駅まで延長されるとともに分割運行が解消[62]され、高槻駅 - 大阪駅 - 西明石駅・加古川駅間の直通運転と吹田駅 - 大阪駅 - 甲子園口駅間を往復する区間運転に再編されたが、京都駅 - 高槻駅間は快速を各駅に停車させて、この区間の緩行電車(各駅停車)の運転を廃止した。現行のダイヤでもわかるように、201系であれば加古川駅 - 京都駅間を直通運行しても性能上問題はないが、そうするだけの編成数はなく、当時の状況では車両の増備もままならなかったことから、既存の車両だけで対応するには区間短縮もやむを得なかった。国鉄末期の合理化の波はこれにとどまらず、1986年3月3日のダイヤ改正の際に、1線区1電車区の方針によって高槻配置の201系全編成が明石電車区に転属し、運用の合理化を図った。

205系の投入以後[編集]

1986年8月に、関西初の205系がスカイブルーの帯を締めて明石電車区に4本配属され、103系を阪和線と武蔵野線に転属させた。11月1日の国鉄最後のダイヤ改正で201系と組んで各駅停車の増発を行った。新快速が外側線(列車線)を走るようになったことから、余裕のできた内側線の増発分として、吹田駅 - 甲子園口駅間の区間運行の運転区間を高槻駅 - 神戸駅間に延長し、この区間の1時間あたりの本数が8本に増発された。また、芦屋駅・須磨駅での新快速の待避がなくなったことから所要時間も短縮され、現在に至るダイヤの基礎を形成した。1987年3月31日に国鉄が分割民営化されて翌4月1日からJR各社がスタートしたが、この時期の動きとしては、1987年から1988年にかけて103系の冷房改造を2本実施した程度である。また、1988年3月13日に夕方時間帯の運行サイクルを等間隔に変更し、この時間帯に残っていた甲子園口駅折り返し列車を廃止した。

1989年以降、103系の動きが慌しくなってくる。残留していた非冷房車の編成(全編成が1969年投入の最古参車)のうち、3本を4両化して福知山線に投入して同線の輸送力増強を実施、1本を冷房改造のうえ4両編成+3両編成の分割編成に改造して淀川に転出させた。保留車として残存した非冷房の中間車を除くと、この時点で編成単位で残った非冷房車は1編成だけとなり、実質的に冷房化率100%となった[63]

1991年3月16日のダイヤ改正では、日中時間帯の快速が西明石駅 - 加古川駅間で1時間あたり4本に増発され、各駅停車の加古川駅乗り入れは朝ラッシュ時の2本のみに削減された。同年秋には片町線(学研都市線)の207系量産車投入に伴う103系捻出車が転入、非冷房編成を置き換えて、各駅停車用車両の冷房化率は名実ともに100%となった[64]。103系の淘汰はさらに続き[65]、1994年3月には207系1000番台を基本6両編成+付属2両編成の8両編成14本112両を高槻電車区(現在の吹田工場高槻派出所)に投入、103系を完全に置き換えて、1969年以来25年の長きにわたった(1983年の201系投入後は脇役に転じたが)各駅停車用としての103系の運転は終了した[66]。207系の投入によって、各駅停車初の8両運行が始まったほか、6両運行も復活し、6両の場合には駅の時刻表に丸数字で掲示されていた。同年9月4日のダイヤ改正では、週休2日制の拡大により、各駅停車でも土曜ダイヤ・休日ダイヤが土曜・休日ダイヤに統合された。

アーバンネットワークの中枢として(1995年 - 2004年)[編集]

阪神・淡路大震災とその後の復興[編集]

阪神・淡路大震災による開通状況

1995年1月17日に発生した兵庫県南部地震阪神・淡路大震災)では、京阪神緩行線は震源(朝霧駅沖の明石海峡)から武庫川(甲子園口駅 - 立花駅間)まで激甚被災地を貫いて走っていたことから、神戸市内を中心に強烈なダメージを受けた。発生時刻が早朝であったことから、車両の面では大きな被害を受けなかったが、鷹取駅東方で地震に遭った201系が1編成、駅の南東側で発生した大火災に奇跡的に巻き込まれずに高架線上に残っている姿は、繰り返し新聞やテレビで流された。大阪駅側では18日に尼崎駅まで復旧し、19日には甲子園口駅、25日には芦屋駅まで復旧区間が延びたが、西明石駅側の復旧は遅れ、23日に須磨駅まで復旧、新長田駅崩壊のため列車線や和田岬回送線を活用して、30日にようやく神戸駅まで復旧した。翌々日に高速神戸駅 - 阪神三宮駅間が復旧した神戸高速鉄道・阪神本線と併せて、発生以来約2週間ぶりに加古川・姫路方面から乗り換えをはさみながらも三宮まで鉄道で行くことができるようになった。復旧工事は突貫で実施され、2月8日には芦屋駅 - 住吉駅間が、2月20日には神戸駅 - 灘駅間が復旧、残るは高架橋が崩壊した六甲道駅周辺を含む住吉駅 - 灘駅間のみとなった。西明石駅 - 灘駅間の復旧に伴い、輸送力増強のために201系の一部編成を8両化し、T車を抜いた編成2本を連結して12両編成で運行した。この12両編成は、各駅停車のみが停車する朝霧駅・舞子駅・塩屋駅・鷹取駅の上り三ノ宮方面のホームのみを延長したため、下り西明石行きは快速として運行された。このほかにも広島運転所日根野電車区から103系をかき集めて西明石駅 - 灘駅間に投入して車両不足を補った。その間にも新長田駅周辺の復旧工事を実施、3月10日に同駅がようやく営業を再開、4月1日には住吉駅 - 灘駅間が復旧し全線で運行を再開した。復旧後に201系を元の7両編成に戻したほか、103系も福知山線に転用するなど、インフラ面も含めて復旧後も復元に向けた整備が続いたのである。9月1日のダイヤ改正で、新幹線利用客の利便性向上のため朝時間帯のJR宝塚線乗り入れ列車を新大阪行きと吹田発に延長した。

1996年3月16日の改正で、21時台も8本で運行されるようになった。震災から1年半経過し、神戸市内も徐々に復興の兆しが見え始め、新長田駅復旧に伴い神戸市営地下鉄の利用者が増えたことなどから、同年7月20日の改正で、日中の神戸駅発着の系統が須磨駅発着に延長された。ちょうど夏の海水浴シーズンであったことから、海水浴客には大いに喜ばれた。

JR東西線開業後[編集]

1997年3月8日JR東西線開業に向けて、207系の編成の大規模な組み換えが淀川電車区・宮原運転所所属の車両も含めて実施された。松井山手駅における増解結に配慮して、西明石・新三田側に付属3両編成+基本4両編成の7両編成に変更され、編成両数は再び7両編成に統一された。そして、JR東西線開業で各駅停車のダイヤは大きく変更されることとなった。朝ラッシュ時は高槻駅 → 大阪駅間でも4分等間隔に増発された。日中時間帯は高槻駅 - 須磨駅・西明石駅間の直通運用を再編し、西明石駅 - 松井山手駅間のJR東西線直通とそれに接続する尼崎駅 - 高槻駅間の区間運行・須磨駅 - 高槻駅間の運行に変更された。

同年9月1日のダイヤ改正では、京都駅ビルの完成に合わせて12年半ぶりに日中の京都駅発着の系統が復活し[67]、加古川発の列車も5本に増発された(送り込みは西明石駅 → 加古川駅間のみの運行もあった)。同時に尼崎駅の構内改良が完了し、同一ホームでの乗り換えパターンが完成した[68]。福知山線(JR宝塚線)の普通と尼崎駅 - 高槻駅間の区間運転が一体化して(大阪駅 - 尼崎駅間の「普通」の重複が解消)、日中は尼崎駅で半数が入れ替わるダイヤになり、運用も京都駅 → 須磨駅 → 高槻駅 → 新三田駅 → 京都駅間の順序になった。直通運行が常態化することで福知山線の103系をカナリアイエローに塗り分ける必要性がなくなり、また尼崎駅から先での誤乗防止のため1998 - 2001年にかけて宮原総合運転所所属の103系を201系に合わせてスカイブルーに塗り替えている。103系の京都駅までの乗り入れ(その後草津駅まで)が復活したが、朝ラッシュ時のみの運行で、尼崎駅 - 西明石駅間には乗り入れていない。

1998年10月3日のダイヤ改正では、明石海峡大橋の開通と垂水駅・明石駅周辺の再開発の進行に伴い、日中の須磨駅発着系統が西明石駅発着に延長・統一されて1時間あたりの本数が8本に増発されたほか、毎日午前中に大久保駅折り返し列車が設定された。また、JR宝塚線方面からの新大阪行きと吹田発のJR宝塚線直通はすべて高槻駅発着に変更された[69]。この時の運用は西明石駅 → 高槻駅 → 新三田駅 → 京都駅 → 西明石駅間の順序で、この運用が2002年10月5日のダイヤ改正で京都駅 - 西明石駅間とJR宝塚線直通の高槻駅 - 新三田駅間に再編されるまで続くこととなる。

2003年12月1日の改正ではJR神戸線区間の朝時間帯の本数が微減し、4分等間隔になった。2004年10月16日に野洲駅発着が朝時間帯に設定され、近江今津駅夜間滞泊する列車が設定されたが、大久保駅折り返しは削減された。

福知山線脱線事故以降(2005年 -)[編集]

2005年4月25日、福知山線尼崎駅 - 塚口駅間でJR福知山線脱線事故が発生した。

この事故や207系の帯色変更の影響により、同年8月1日から一部の列車が103系で運用されるようになり、これは321系の運転が始まる前日の11月30日まで行われた。12月1日から321系の運用が始まり、201・205系の置き換えが行われることになったが、2006年2月7日までに205系は全編成28両が阪和線(日根野電車区)に転出した。201系は大阪環状線桜島線(JRゆめ咲線)用として森ノ宮電車区に8両16編成の128両が転属し、6両16編成の96両が大和路線用として奈良電車区に転出した。その結果、2007年3月18日の改正からは207系と321系のみで運行されるようになった。なお205系は、2011年3月12日より朝の尼崎駅 - 大阪駅 - 高槻駅・京都駅間での運用が復活したが、2013年3月16日の改正で再び姿を消している[70]

2006年3月18日のダイヤ改正では、脱線事故を受けたいわゆる“ゆとりダイヤ”の導入で日中の西明石駅発着系統の半数が須磨駅発着に変更され、近江今津駅での夜間滞泊と大久保駅発着列車も廃止された。これによって日中の須磨駅 - 西明石駅間は1時間あたりの本数が8本から4本に削減された。2008年3月15日の改正では須磨駅発着の系統の半数が西明石駅発着に延長されて一度は1時間あたり6本に増発されたが、2010年3月13日の改正で再び1時間あたりの本数が4本に戻された。

JR京都線・琵琶湖線・湖西線でも、2010年3月改正で高槻駅 - 京都駅間が日中1時間あたり4本から2本に削減、2011年3月12日からは、朝の1往復が吹田駅折り返しに変更された。2013年3月16日改正では日中の京都駅発着列車が土休日11時台・12時台にそれぞれ4本に増発されたが、平日の11時台から14時台および土休日の13時台と14時台の列車が廃止される[70]。また野洲駅発着列車が同改正で廃止された[2]。2016年3月26日改正では湖西線との直通[71]が終了するが、逆に野洲駅発着列車が京都発最終[72]の琵琶湖線内のみの列車として復活[73]するなど、福知山線脱線事故後は車両余裕の拡大と輸送力の適正化によって運行規模が縮小傾向となっている。

一方で新駅の開業が相次ぎ、2007年3月18日にはさくら夙川駅が、2008年3月15日には島本駅須磨海浜公園駅が、10月18日には桂川駅が、2016年3月26日には摩耶駅がそれぞれ開業した。

脚注[編集]

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  1. ^ 『JR時刻表』2012年3月号、交通新聞社
  2. ^ a b 『JR時刻表』2013年3月号、交通新聞社
  3. ^ 例として1949年9月15日改正の宮原区電車運用表が鉄道史料103号に採録されている
  4. ^ 1964年9月30日までは尼崎駅での折り返し
  5. ^ 『京阪神からの旅行に便利な交通公社の時刻表』(日本交通公社関西支社編)1957年1月号に掲載された1956年11月19日改正の神戸駅時刻表によると、朝夕に約20分間隔で住吉行・鷹取行の列車が設定されている。1957年11月号(1957年10月1日改正時刻)では消滅している。
  6. ^ 205系が東海道・山陽緩行線で運用開始 - 『鉄道ファン交友社 railf.jp鉄道ニュース 2011年3月14日
  7. ^ 51系の場合は、中央扉の前位(神戸寄り)に設置。
  8. ^ ごくまれにではあるが、更新修繕後も行先表示幕窓を残した車両があった。
  9. ^ 『関西国電50年』には、1950年8月に尼崎駅で撮影されたクハ55107(元サロハ46形改造のクロハ59形を戦時中に3扉改造したもので、クロスシート改造後はクハ68107。掲載当時は連合軍専用車から変更された2等車として運用中)の写真が掲載されており、年代としては早期の部類に属する。
  10. ^ 明石行そのものの運行本数が少なかったことから、現存する写真がきわめて少なく、入手・閲覧が容易なものは『鉄道ピクトリアル』2011年6月増刊号(P95)掲載のものが現時点で唯一のものであるといえる。しかもこの写真は、営業運行中のモハ32(モハ42の4扉改造車)を写した、二重の意味で貴重なものである。
  11. ^ 1969年に転入した全金属改造車のクモハ73900,902やクモハ73形鋼体改造車のうち、前面行先表示器を設置したもの。
  12. ^ 京阪神緩行線に限らず、関西国電では大阪環状(城東・西成)、片町、阪和の各線においても72系前面行先表示器設置車両の表示器を使用せず、行先表示板の掲示を継続している。
  13. ^ 『鉄道ピクトリアル』2003年5月号に、京都駅における行先表示板交換の写真が掲載されているが、片足をプラットホームに預け、もう片足を連結器の上に乗せて、重いホーロー板の表示板を交換していることから、かなり危険な作業であることがうかがえる。
  14. ^ 新旧表示板の切り替え時期については、1963年中に新旧両タイプの行先表示板を掲示している写真が残されていることから、具体的な切り替え時期については不明。
  15. ^ 51系が転出した岡山地区においても、同じデザインの行先表示板が使用されている。
  16. ^ この時期においても72系前面行先表示器設置車両の表示器は使用されていない。
  17. ^ この時期101・103系といった新性能車と旧型車が混在していた片町、阪和の各線では、101・103系は前面行先表示器を使用し、旧型車は行先表示板を掲出していた。
  18. ^ 201系や205系を含む。
  19. ^ なお、103系の「普通」表示は、紺地に白字と白地に黒字の2種類があった。
  20. ^ クハ205-35の編成。
  21. ^ この地域で二等車の需要が高かったことを示すものとして、『レイル』53号掲載の「戦前の鉄道の思い出雑記 その1」内に、「(前略)その客層は土地がら、比較的豊かな人たちであったように思う。その豊かな一例として、この通勤列車でも二等車を一輌半連結していて、(後略)」という一文があり、神戸市西部の住宅地に住んでいた富裕層向けに二等車を連結していたことが記されている。また、京浜線での二等車連結の事情については、『鉄道ピクトリアル』1992年7月号に記述がある。
  22. ^ このころには三等車の背ずりも布張りに変更
  23. ^ このときは横須賀線と京阪神間の急電は除外された。
  24. ^ ただし、急行編成は除く
  25. ^ 後にモハ64028を経て最終はクモハ31002
  26. ^ 元クロハ59022の改造で、とりあえずクハ55の連番として出場。クハ85026を経て最終はクハ79056
  27. ^ モハ42の4扉改造車はモハ42のままモハ32(2代目)に改番
  28. ^ 後には宮様の戦車学校通学に伴い中央・総武緩行線に転属
  29. ^ 現在の川崎重工明石工場、現在はオートバイの工場・当時は陸軍の戦闘機「飛燕」などを製造していた
  30. ^ 1946年2月1日から一般客の取扱いも開始
  31. ^ 流電や半流モハ43のサハも含む
  32. ^ 63系をトレードした城東西成線には、サロハ66改造のサハ78や、クハ47改造のクハ85が転入している。
  33. ^ 通常はニス塗り
  34. ^ 当時の普通二等車は青色
  35. ^ ただしこのころの横須賀線は通勤路線との位置付けであって、セミクロス車が走るからといっても近郊路線ではない。
  36. ^ 上郡駅 - 倉敷駅岡山駅 - 宇野駅
  37. ^ 日中時間帯を中心に4両運行が残っていたため、全列車の7両統一は1972年3月15日
  38. ^ 阪神武庫川線への貨物線跡地を転用
  39. ^ 結局モーターの耐寒耐雪改造の関係でモハ70となる
  40. ^ 流電用サハ48の3扉改造のサハ58も含む
  41. ^ この中には、一度京阪神緩行線から転出した車両や京阪神緩行線唯一の70系300番台全金属車であるクハ76305が含まれていた
  42. ^ サハ58は岡山に転出
  43. ^ 日中の着席サービスとラッシュ時の混雑緩和のどちらを優先順位とするかの問題であるが、1960年代は輸送人員の多い(つまり関連する乗客の多い)ラッシュ輸送の改善を第一にすることを優先して進めていた。なお昭和37年度鉄道統計年報によると年間200万人以上の定期通過人員を有する駅は茨木駅 - 垂水駅間の各駅であった。
  44. ^ 鉄道ピクトリアル1964年4月号に昭和38年11月現在の混雑率が掲載されており、快速・緩行ともに300%前後の数値となっているほか、同号には塚本駅に停車中の4扉通勤車の乗降シーンの写真もあり、ドアからはみ出した乗客の姿から4扉でも乗車するのが困難な状況を物語っている。その状況では3扉セミクロスシート車が通勤輸送に適さないことは明確であり、4扉ロングシート化はラッシュ改善に早急に求められていた。
  45. ^ 阪急2800系京阪1900系など
  46. ^ 木村博(国鉄大鉄運転部電車課長)「大阪付近電車輸送の将来」『電車』1960年2月号、交友社、1960年、pp.14-16。
  47. ^ 「昭和39年度電車配属希望打ち合わせ会議が行われた」『電車』1963年9月号、1963年、p.19。
  48. ^ 久保田博(国鉄仙鉄運転部長、元本社工作局) 「国鉄通勤形電車の最近の動き」『鉄道ピクトリアル』1964年4月号、電気車研究会、1964年、pp.35-37。
  49. ^ 寺島和年(国鉄前大鉄運転部電車課長) 「大阪国電の現状とその将来について」『鉄道ピクトリアル』1964年4月号、電気車研究会、1964年、pp.25-27。
  50. ^ 関西国電略年史編集委員会(大阪鉄道管理局運転部電車課監修)『関西国電略年史』1982年9月、PP.85-86。
  51. ^ 大熊孝夫(国鉄運転局車務課)「究極の標準形通勤電車」『鉄道ファン』2006年5月号、交友社、2006年、p.28。
  52. ^ 『電車・気動車加速力曲線』1966年、国鉄運転局
  53. ^ 小林喜幹(国鉄運転局客貨車課)「京浜東北線にはどのような性能の車両がよいか」『電車』1965年6月号、交友社、1965年、pp.13-19。
  54. ^ 実際の運行計画を立てるに当たっては、消費電力量なども要素として重要であり、車両設計事務所の川添氏は鉄道友の会会誌にて京阪神緩行線などは113系のような車両が適していると思われるが消費電力量を計算すると103系の方がメリットがある点に触れている。速度を高めるには力行時間が長くなるため相応の電力を消費しなければならないので、むやみやたらと高速で走れば良いという物でもなく、到達時間と消費電力量などバランスの取れた運行計画を立てることになるが、その運行計画上103系は駅間距離4kmなどであっても他系列よりも運転時分や消費電力量では有利であった。(参考:RAILFAN1986年1月号・電気車の科学1975年1月号)。
  55. ^ 1972年3月改正で草津駅 - 高槻駅間は95km/hから110km/hに、高槻駅 - 神戸駅間は95km/hから100km/hに最高速度が引き上げられている
  56. ^ 改正により京都駅 - 神戸駅は90km/hから95km/hに引き上げられたが、103系の投入により京都駅 - 神戸駅は95km/hから100km/hに引き上げられた
  57. ^ 吹田駅 - 甲子園口駅間では6本が8本に増発された。
  58. ^ 中でもクモハ51010は中央線投入組の生き残りで、新造時のままのガーランドベンチレーター装備車であったほか、残りの3両 (51028, 51038, 51056) はモハ51形として新製されて以来、京阪神緩行線の生え抜きであった。
  59. ^ 高速域から回生ブレーキを使えるというやや無理な要望が盛り込まれた車両であったが、搭載されたMT60型モーターが150kWと高出力であり、電機子チョッパ制御装置も将来近郊用に使用することを想定して開発されたものであったために、総体として高い高速性能を持っていたほか、台車も空気ばねでシュリーレンタイプのDT46系台車を装備して、103系のDT33系台車に比べて乗り心地(特に高速域)も良く、図らずして京阪神緩行線の特色に見事にフィットした車両となった。
  60. ^ このとき置き換えられた103系は、スカイブルーのまま片町線・関西本線に投入されたほか、余ったT車は阪和線に投入されて快速の8両化に充当された。また、一部の編成は運用ごと明石電車区に転属して、高槻電車区の配置は201系のみとなった。
  61. ^ このときの103系捻出車は冷房車だけでなく1次改良車の非冷房車も含まれており、冷房改造して転出した編成と非冷房のまま転出した編成があった。また、余剰のT車は浦和電車区・松戸電車区など首都圏の電車区に移籍している。
  62. ^ ただし、その代償として新快速の大阪駅 - 三ノ宮駅間の運転時分は2 - 3分遅くなっている。分割運行のボトルネックになる部分は大阪駅 - 芦屋駅間であり、この区間は103系電車が有利とされる駅間平均距離3 - 4kmの区間である。
  63. ^ この非冷房編成は翌年に阪和線ATS-P化のために日根野配属の非冷房車とトレードされることになったが、このとき転入した編成は各駅停車用車両初の全車中古編成で、M'M2ユニットとT、西明石側のTcは山手線からの流れ組、京都側のTcはクハ101改造のクハ103-2052という中古車揃いだった。
  64. ^ 営業運行を外された非冷房編成はしばらく訓練車として使用されたが、後にM'M2ユニットはWAU102冷房改造と延命NB工事を実施、TとTcは廃車された。
  65. ^ 1993年には207系が投入された福知山線から高運転台Tcの編成が転入、中間車を差し替えて先頭車とM'Mユニットは広島に転属して、各駅停車用としての103系の最後の活躍に花を添えた。
  66. ^ このとき捻出された103系は、岡山電車区・広島運転所・奈良電車区に転出、古い非冷房の113・115系を置き換えた。
  67. ^ 高槻駅 - 京都駅間の各駅では、この区間で各駅に停車する快速とあわせて、実質的に本数が増えた。
  68. ^ アーバンネットワーク秋のダイヤ改正についてインターネットアーカイブ)- 西日本旅客鉄道 1997年7月18日
  69. ^ 平成10年秋 ダイヤ改正について(アーバンネットワーク) (インターネット・アーカイブ) - 西日本旅客鉄道プレスリリース 1999年7月31日
  70. ^ a b 平成25年春ダイヤ改正について (PDF) - 西日本旅客鉄道近畿統括本部プレスリリース、2012年12月21日付、2012年12月24日閲覧。
  71. ^ 夕方と夜間の西明石発近江舞子行き、朝ラッシュ時の堅田発西明石行き。その間合いで夜間から深夜に掛けての湖西線内の一部列車に京阪神緩行線車両の運用が存在していた(そのうちの一部は湖西線内を回送で運転)。
  72. ^ 0時34分発。JR西日本の京都 - 南草津駅間の駅設置の時刻表ではこの列車と朝ラッシュ時のピーク時に運転される草津直通の緩行線列車(この列車は草津到着後野洲に回送し、夕方ラッシュ時開始直前に野洲から京都まで回送され京都から緩行線の営業列車となる)の各1本、草津 - 守山駅間の駅設置の時刻表ではこの列車のみ女性専用車がある旨が記載されている。
  73. ^ 復路は翌日早朝に野洲から京都まで回送で運転。

参考文献[編集]

  • 鉄道ピクトリアル電気車研究会
    • 1995年3月号 No.603 特集「103系電車研究」
    • 1998年12月号 No.662 特集「JR西日本アーバンネットワーク」
    • 2002年2月号 No.713 特集「モハ70系電車」
    • 2003年4月号 No.730 特集「戦前製旧型国電 20m3扉車」
    • 2006年4月号 No.774 特集「201・203系電車」
    • 2007年3月号 No.786 特集「京浜東北・根岸線」
  • 鉄道ファン交友社
    • 2005年2月号 No.526 特集「201系四半世紀の歩み」
    • 2006年5月号 No.541 特集「究極の標準型通勤電車103系」
  • 鉄道ジャーナル』鉄道ジャーナル社
    • 2002年9月号 No.431 特集「京阪神都市圏の鉄道2002」
    • 2005年1月号 No.459 特集「湘南新宿ラインVSアーバンネットワーク」
    • 2005年2月号 No.460 特集「アーバンネットワークの実力」
  • 『関西の鉄道』関西鉄道研究会 1986新緑号 No.15 京阪神国電特集
  • 『関西国電50年』1982年 鉄道史史料保存会
  • 『関西国電略年誌』1982年 鉄道史史料保存会
  • 『大阪の国電』1984年1月 ジェー・アール・アール刊
  • 『旧型国電車両台帳』 ジェー・アール・アール刊

関連項目[編集]