二宮長範

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二宮長範
時代 安土桃山時代-江戸時代初期
生誕 不明
死没 1615年慶長20年5月7日
別名 通称:与三右衛門 官名:采女
主君 織田信雄小早川秀秋豊臣秀頼
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二宮 長範(にのみや ながのり)は安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。別名に市瀬与右衛門

経歴[編集]

はじめ織田信雄に仕える。信雄に仕えていた頃の詳細は不明だが、とある合戦にて敵を討つ功を挙げている。のちに小早川秀秋に使番として仕え、関ヶ原の戦いのときの働きにより秀秋から褒賞された。1602年慶長7年)に秀秋が亡くなると牢人の身となったが、やがて大坂の陣が起こると大坂に入城し、大野治房の組に所属した。12月17日、本町橋の夜討ちに参加。出撃の際に本来であれば塙直之の配下、大野治房の配下、長岡是季の配下の順で橋を渡るはずだったが、長範は功を焦って抜け駆けをし、最初に橋を渡って長谷川小右衛門なる者と槍を合わせている。夏の陣における天王寺・岡山の戦いにて御宿政友中瀬定純らと共に岡山方面に布陣(『大坂御陣覚書』)し、同合戦にて討死した。