二子塚古墳 (大阪府太子町)

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二子塚古墳
Futagozuka Kofun (Taishi, Osaka), zenkei-1-2.jpg
墳丘全景(左に西墳丘、右に東墳丘)
所属 磯長谷古墳群
所在地 大阪府南河内郡太子町大字山田
位置 北緯34度30分38.96秒
東経135度39分5.65秒
座標: 北緯34度30分38.96秒 東経135度39分5.65秒
形状 双方墳
規模 東西66m×南北26m
埋葬施設 横穴式石室2基
(内部に家形石棺各1基)
出土品 土器片・鉄釘
築造時期 7世紀後半
被葬者 (一説)第33代推古天皇竹田皇子
史跡 国の史跡「二子塚古墳」
地図
二子塚古墳の位置(大阪府内)
二子塚古墳
二子塚古墳
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二子塚古墳(ふたごづかこふん)は、大阪府南河内郡太子町山田にある古墳。形状は双方墳。磯長谷古墳群を構成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている。

概要[編集]

二子塚古墳から望む
山田高塚古墳
推古天皇竹田皇子合葬陵墓)

大阪府南東部、二上山山麓の磯長谷において、金剛山地から伸びる台地状丘陵上に築造された古墳である。これまでに盗掘に遭い[1]、墳丘も中央部が大きく土取りがなされているほか[2]、戦後に墳丘上・石室内の調査が[1]2016-2017年度(平成28-29年度)に墳丘の発掘調査が実施されている[3]

墳形は双方形という特異なもので、北東-南西方向に一辺約25メートルの方墳2基が並列して連接される[3][4]。墳丘は3段築成[3]。各方墳(東墳丘・西墳丘)は1辺25メートルで、墳丘全長は東西約66メートルを測る[3]。墳丘表面で葺石埴輪は認められないものの[1]敷石が認められ[3]、墳丘周囲には周溝の掘削が認められる[3]。主体部の埋葬施設は2基の横穴式石室で、東西各墳丘にほぼ同形同大の石室として構築されて南西方に開口し、石室内面には漆喰が塗抹される[1][5][3][6]。各石室内部にはこれもほぼ同形同大の家形石棺が各1基据えられ、その蓋石は縄掛突起が退化しカマボコ形をなす[1][5][3][6]。遺物のほとんどは失われており、羽釜形土器(一説に後世の骨壷)・小皿形土器・鉄釘の出土のみが知られる[5]

この二子塚古墳は、古墳時代終末期・飛鳥時代7世紀後半頃[7](または7世紀中頃[5]/7世紀前半頃[8])の築造と推定される。双方墳という特異な形式は、合葬が一般化する終末期当時の風習を受けて生み出されたと推測される[1][5]。被葬者は明らかでないが、第33代推古天皇628年崩御)・竹田皇子(薨去年不詳)の真の合葬陵墓とする伝承がある[1][5][8][6]。現合葬陵墓である山田高塚古墳(二子塚古墳西方約200メートル)とは似た様相であり、考古学的にはいずれが真陵墓であるか明らかでないものの、両古墳が当時の天皇陵クラスの古墳であることは確かとされる[5]

古墳域は1956年昭和31年)に国の史跡に指定されている[4]

来歴[編集]

  • 江戸時代の『河内名所図会』に「二子塚古墳」として記載[9]
  • 1915年大正4年)、石室・石棺の発見。発見時には既に盗掘済[1]
  • 戦後、墳丘上・石室内に関する調査(1958年昭和33年)に『河内二子塚調査概報』として刊行)[1]
  • 1956年(昭和31年)11月28日、国の史跡に指定[4]
  • 2016-2017年度(平成28-29年度)、発掘調査(太子町教育委員会)[3][9]

構造[編集]

西墳丘(東墳丘から望む)
東墳丘(西墳丘から望む)

古墳の規模は次の通り[3]

  • 墳丘長:東西約66メートル、南北約26メートル
  • 東墳丘
    • 長さ:一辺約25メートル
    • 高さ:約4.8メートル
  • 西墳丘
    • 長さ:一辺約25メートル
    • 高さ:約6メートル

墳丘は3段築成で、石室上の墳丘は版築状の盛土であるほか、墳丘3段目は急斜面で立ち上がるという終末期特有の様相を示す[3]。東西墳丘の築造に関しては、東墳丘の築造後に西墳丘が築造されたとする説がある[5][1]。また東西墳丘間の中央部には高まり(南北軸の長方形壇か)を伴う[9]

埋葬施設[編集]

主体部の埋葬施設は横穴式石室2基で、東墳丘・西墳丘に各1基が構築され、いずれも南西方向に開口する[3]。それぞれの規模は次の通り[3]

東墳丘石室
玄室:長さ4.95メートル、高さ1.65メートル、幅1.7メートル
羨道:長さ0.5メートル、高さ1.65メートル、幅1.4メートル
西墳丘石室
玄室:長さ4.4メートル、高さ1.65メートル、幅1.55メートル
羨道:長さ1.5メートル、高さ1.65メートル、幅1.3メートル

東石室・西石室とも、側石には切石に近い程度の加工を施した石が用いられ、それを2・3段に積んで隙間に礫石が充填されたうえで、隙間・面上に漆喰が塗抹される[3]。羨道は極めて短く、人頭大の礫石を積んで閉塞される[5][3]。横穴式石室の小型化や石室内面の漆喰塗抹は古墳時代終末期の様相とされる[3]

東西の各玄室内には二上山凝灰岩製の刳抜式家形石棺が各1基据えられている[3]。石棺の規模は次の通り[3]

東石室石棺
蓋外法:長さ約2.38メートル、幅約1.13メートル、高さ約0.52メートル
身外法:長さ約2.25メートル、幅約1.02メートル、高さ約0.7メートル
総高:約1.21メートル
西石室石棺
蓋外法:長さ約2.37メートル、幅約1.16メートル、高さ約0.52メートル
身外法:長さ約2.21メートル、幅約1.02メートル、高さ約0.67メートル
総高:約1.20メートル

石棺2基とも、蓋石の縄掛突起は退化して欠き、また蓋石形状も退化してカマボコ形をなす[1][3]。棺身にはいずれも小口側に盗掘孔があり、棺内部で遺物は検出されていない[3]

文化財[編集]

国の史跡[編集]

  • 二子塚古墳 - 1956年(昭和31年)11月28日指定[4]

脚注[編集]

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参考文献[編集]

  • 史跡説明板
  • 地方自治体発行
  • 事典類
    • 「二子塚古墳」『日本歴史地名大系 28 大阪府の地名』平凡社、1986年。ISBN 458249028X
    • 玉井功「二子塚古墳」『日本古墳大辞典東京堂出版、1989年。ISBN 4490102607
    • 二子塚古墳〈大阪府〉」『国指定史跡ガイド』講談社 - リンクは朝日新聞社「コトバンク」。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]