乾谷

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日本 > 京都府 > 相楽郡 > 精華町 > 乾谷
乾谷
いぬいだに
日章旗 日本
地方 近畿地方
都道府県 京都府
自治体 精華町
世帯数
155[1]世帯
総人口
381
大字別人口世帯集計表、2016年7月1日)
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乾谷(いぬいだに)は、京都府相楽郡精華町の南西部の地名(大字)である。

概要[編集]

木津川に合流する山田川支流乾谷川流域の山地で、南を山田川が貫流し、土地は凹凸が激しい。

現在は山田川に沿って国道163号が通っているが、かつては「大坂道」と呼ばれる大阪伊賀を結ぶ街道であった。この街道について、司馬遼太郎が、小説「覇王の家」で、徳川家康本能寺の変を受けてこの街道を使って伊賀の国に出たと書いている[2]。そのため、地元では「徳川道」とも言われている。この街道におおむね沿って精華町山田・乾谷・柘榴の三集落が発達してきた。

主な遺跡には、大坂道の道標・乾谷大師堂・山田の代官福井家の屋敷などがある。また、乾谷集落西方山上には、戦国時代の山城跡[3]がある。

史跡[編集]

大坂道道標(所在地は精華町山田)

山田の代官屋敷 福井家[編集]

  • 江戸時代、精華町山田には侍身分である旗本の代官(地元の有力者)が領地管理者として活躍していた。
    • 福井家の代官屋敷には、大岡氏の領地であった山田村,祝園村、植田村、相楽村、吐師村の村民からの願書、村絵図が残っている。
    • 福井家は9代にわたって在地代官として務めていた。
  • 江戸との手紙でのやり取りを見ると、ほぼ在地代官の願い通りに事が運ばれたことが分かる[4]

江戸時代の道標[編集]

大師堂[編集]

空海こと弘法大師が亡くなったとき、大師の教えを信仰していた村民たちが大師堂を建て、中に 30 cm ぐらいの大師の尊像を祀った。その傍らにある井戸は大師に教わったとおりに掘ると清水が湧き出たといわれている。しかし寛政4年(1792年)、火事により大師堂だけでなく、村の大半も損傷してしまう。再建できないまま、長年がたち、大師屋敷の屋敷内に家を建て住む者もいたが、さまざまな災難が降り注いだ。こうしたことから大師の祟りではないか、と言う者も現れ1922年大正11年)4月21日に現在の姿である大師像が建てられた[8][9]

脚注[編集]

  1. ^ 2016年7月1日現在
  2. ^ 司馬遼太郎『司馬遼太郎全集34』文芸春秋、1983年、304頁
  3. ^ http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_00341/ru04_00341_0009/ru04_00341_0009_p0026.jpg
  4. ^ 水本邦彦「せいか歴史物語」、精華町、1997年3月、p57~59
  5. ^ 黒板勝美国史大系第38巻」国史体系刊行会、昭和4年10月25日、p47~48
  6. ^ [1]
  7. ^ 精華町史編纂委員会「精華町の史跡と民俗」、精華町、1988年3月31日、p5
  8. ^ 乾谷区「歴史講座①大師堂 失われつつある時代の記録」、平成17年9月28日
  9. ^ 精華町文化財愛護会「文化財愛護会だより(第29号)」、平成24年3月

参考文献[編集]

関連項目[編集]