久隔帖
| 久隔帖 伝教大師筆尺牘〈弘仁四年十一月廿五日/〉 | |
|---|---|
| 寸法 | 縦:29.3cm 横:55.2cm[1][2] |
| 文字 | (#内容と来歴節に後述) |
| 製作 | 平安時代・弘仁4年11月25日(813年12月21日) |
| 所蔵 | 奈良国立博物館(奈良県奈良市登大路町50) |
| 識別 | 国宝指定番号:00009[3] 奈良国立博物館 機関管理番号:648-0[1] |
久隔帖(きゅうかくじょう)は、最澄が記した尺牘(漢文で記された手紙)。現存している唯一の、最澄自筆の作品であり、国宝に指定されている。最澄が空海のもとで修業に励んでいた弟子・泰範にあてた書状で、文中には弘仁4年11月25日(813年12月21日)の日付が記されている。書き出しが「久隔清音(久しくご無沙汰を)」から始まるために、「久隔帖」と呼ばれる[4]。国宝としての名称は、「伝教大師筆尺牘〈弘仁四年十一月廿五日/〉」(でんきょうだいしひつせきとく こうにんよねんじゅういちがつにじゅうごにち)である。その筆法は、王羲之の影響をうけていると指摘されている。現在は奈良国立博物館に所蔵。
内容と来歴
[編集]空海と最澄
[編集]延暦22年(803年)、最澄は天台法華の請益僧として遣唐使船に乗り込んだが、暴風雨により筑紫へ漂流した[5]。翌年の再度の渡航では、最澄だけでなく空海も留学僧として唐へ派遣された[5]。最澄が唐に到着すると、天台山に赴き、天台の教えを学んだ[6]。しかし、請益僧であった最澄は、遣唐使とともに帰国する必要があり、翌805年にわずか1年の滞在ののち唐を去った[7]。
一方留学僧であった空海は、密教を学び[8]、2年間で成果を得て806年に唐を発った[9]。
空海と最澄の交流についてのもっとも古い記録は、「延暦寺護国縁起」の記載であり、「大同4年(809年)に空海が最澄に名書を奉上した」ということである[10]。ただし、この記述や年号の真偽に関しては論議がある。
久隔帖
[編集]久隔清音、馳恋無極。傳承
安和、且慰下情。
大阿闍梨所示五八詩序中、有
一百廿禮仏并方圓圖并註義
等名。今、奉和詩、未知其礼
仏圖者。伏乞令聞 阿闍梨。
其所撰圖義並其大意等
告施。其和詩者怱難作、
著筆之文難改後代。惟示其
委曲、必造和詩、奉上 座下
謹附貞聡仏子奉状。和南。
弘仁四年十一月廿五日小法弟最澄状上
高雄範闍梨法前比頃、得法花梵本一巻。
為令覧 阿闍梨、以来月
九、十月許参上。若有和上
暇、必将参上。若無暇、更待
後暇。惟示指南。委曲尋申上。謹空。[注釈 1]—久しく清音を隔つ、馳恋極まりなし。伝うるに安和を承り、且(しば)し下情を慰(やす)む。大阿闍梨示すところの五八の詩の序の中に、一百二十礼仏ならびに方円の図、ならびに注義等の名あり。今、和詩を奉らんとするに、未だその礼仏図というものを知らず。伏して乞う、阿闍梨に聞せしめ、その撰するところの図義、ならびにその大意などを告げ施せ。その和詩は忽ちに作しがたく、著筆の文は後代に改めがたし。惟(おも)うにその委曲を示さば、必ず和詩を造り、座下に奉上せん。謹みて貞聡仏子に附して奉状す。和南。
弘仁四年十一月二十五日 小法弟最澄状上
この頃、法花の梵本一巻を得たり。阿闍梨に覧せしめんがために、来月九、十日許(ばかり)を以て参上せん。もし和上暇あらば、必ず将に参上せん。もし暇なくんば、更に待の暇を待たん。惟うに指南を示せ。委曲は尋(つ)いで申上せん。謹空[8]。、『久隔帖』[12][13]
高雄範闍梨法前
「伝教大師全集」には空海宛の25個の書状の記録が残っているが、そのうち伝存しているのは久隔帖のみである[14]。そのため、久隔帖は最澄の筆跡を知るための貴重な資料となっている[14]。久隔帖は最澄が、空海の元で修業に励んでいた自身の弟子の泰範にあてたものである[15]。文中には弘仁4年11月25日(813年12月21日)の日付が記されており、最澄47歳(数え年)の時の作品である[14]。
空海の目に直接触れることを意図して書かれたものであり、気満の揮毫であった[15][13]。当時40歳であった空海は自身の40歳を祝った「五十八詩」[注釈 2]である「中寿感興詩」を最澄に贈っている[15]。
黄葉索山野 蒼蒼豈始終 嗟余五八歳 長夜念円融
浮雲何処出 本是浄虚空 欲談一心趣 三曜朗天中
(黄葉は山野に索く、蒼々、豈に始終あらん、嗟(ああ)、余(わ)れ五八の歳、長夜に円融を念(おも)う、浮雲は何れの処より出ずる、本、是れ浄虚空、一心の趣を談ぜんと欲すれば、三曜天中に朗らかなり)—空海[17]
この詩は韻を踏んだものであり、詩を贈られた者は慣例として、その韻に和した詩を返礼として渡す必要があった[18]。久隔帖の内容は、五十八詩と同時に著した「一百二十礼仏」や「方円図」、「註義」の意味が分からず、返礼ができないために、その簡単な意味を教えてほしいと依頼し、さらに追伸として最澄が入手した「法花梵本」(法華経の梵本)を空海に見せたく、12月9日または10日に高雄山に登るため、都合を教えてほしいと言っている[15][14][19][11]。
こののち、最澄は返例として12月6日に和韻の詩を送ったようだが、こちらは現存していない[20][11]。一方で、追伸として記されていた申し出を空海は拒絶しており、空海と最澄の中に亀裂が入るきっかけとなったとされている[14][注釈 3]。そしてこの泰範が空海に帰依したことで、二人は絶縁することとなった[14]。
久隔帖のその後
[編集]久隔帖はもと東寺に蔵せられていたが、江戸時代に京都の青蓮院に伝来していたとされる[4][22]。松岡調が1883年(明治16年)8月24日に記したところによれば、讃岐の琴平山の麓に住んでいた浜田和平という者が、青蓮院より賜与されたということで所持していたものを「曩に金若干を以て贖ひ得」たといい[23]、同人が祀官を務める香川県多和神社の多和文庫に蔵せられた[22]。その後、大正年間に原富太郎の手にわたり、その次男たる原良三郎が所有していたところ、買上げにより国有(文化財保護委員会の管理下)となり、昭和36年(1961年)8月14日に奈良国立博物館の管理となった[4][24][22][25]。昭和11年(1936年)5月6日に重要文化財に指名されたのち[26][2]、昭和26年(1951年)6月9日に国宝へと指定された[3][27]。
鑑賞
[編集]王羲之の書法の影響を受けているとされている[15]。久隔帖が書かれた平安初期は、遣唐使を通じて唐の文化が流入していたため、日本でも唐風の書道が主流であった[28]。当時の唐(晩唐)は、虞世南や欧陽詢、褚遂良、顔真卿といった唐の4大家の書が主流であり、それらは王羲之の書を根底としていた[28]。この弘仁・貞観文化が栄えた弘仁・貞観時代に、特に優れた書道家であった嵯峨天皇・橘逸勢・空海の三人を「三筆」と呼ぶが、最澄もまた同時代の人物として優れた書を残している[28]。
空海を指し示す大阿闍梨の箇所で改行を行うなど、7歳年下の空海に対する最澄の礼がみてとれる[4]。
古谷稔は、空海の書と比較して、「軽妙な筆致の中に清澄な感性を備えている点で大きな価値が認められよう」と評している[15]。吉川蕉仙は、「気持ちを引き緊め謙虚な書きぶりからは、清澄、透明、寂寥といった彼の生きざま[注釈 4]がそのままに映し出され、何如、奉橘帖などを思わす羲之書法に忠実で一途な用筆が、余白の響きを更に高めたと言えよう」と評している[13]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b “最澄筆 尺牘(久隔帖)”. ColBase: 国立文化財機構所蔵品統合検索システム. 国立文化財機構. 2025年9月6日閲覧。
- ^ a b “国宝 最澄筆 尺牘(久隔帖)”. 奈良国立博物館. 奈良国立博物館. 2025年9月6日閲覧。
- ^ a b “伝教大師筆尺牘〈弘仁四年十一月廿五日/〉”. 国指定文化財等データベース. 文化庁. 2025年9月6日閲覧。
- ^ a b c d e 奈良国立博物館 1997 p,308
- ^ a b 高木 1999 p,219
- ^ 高木 1999 p,220,221
- ^ 高木 1999 p,222-225
- ^ a b 高木 1999 p,188
- ^ 高木 1999 p,230-239
- ^ 高木 1999 p,241
- ^ a b c 高木 1999 p,189
- ^ 古谷 1995 p,84-89
- ^ a b c d 吉川 2016 p,135
- ^ a b c d e f 杉浦 2019 p,93
- ^ a b c d e f 古谷 1995 p,92
- ^ 高木 2008 p,163
- ^ 高木 2008 p,92
- ^ 高木 2008 p,93
- ^ 高木 2008 p,163-165
- ^ 高木 2008 p,165
- ^ 高木 2008 p,164
- ^ a b c 春名好重編、『古筆大辞典』(277頁)、1979年(昭和54年)11月、淡交社
- ^ 松岡調、「伝教大師大師真蹟尺牘考」、『書苑』第5巻第7号所収(3から4頁)、1915年(大正4年)9月、法書会
- ^ 福家惣衛編、『香川県通史 古代 中世 近世編』(440頁)、1965年(昭和40年)9月、上田書店
- ^ 『日本書道大系2 平安(一)』(最澄久隔状資料解説)、1971年(昭和46年)4月、講談社
- ^ 昭和11年文部省告示第226号により国宝保存法(昭和4年法律第17号)第1条の国宝(いわゆる旧国宝)に指定、告示中の名称は「紙本墨書最澄書状(弘仁四年十一月廿五日泰範宛)」(『官報』、1936年(昭和11年)5月6日)
- ^ 昭和27年文化財保護委員会告示第2号(『官報』、1952年(昭和27年)1月12日)
- ^ a b c 杉浦 2019 p,83
参考文献
[編集]- 古谷稔『36 光明皇后 空海 最澄集』株式会社二玄社〈日本名筆選〉、1995年2月28日。ISBN 4-544-00746-1。
- 『奈良国立博物館の名宝 -一世紀の軌跡-』奈良国立博物館、1997年4月25日。
- 高木訷元『空海と最澄の手紙』株式会社法蔵館、1999年5月14日。ISBN 4-8318-8100-7。
- 『弘法大師墨蹟聚集 解説編』弘法大師墨蹟聚集刊行会、2008年11月21日。
- 高木訷元『風信帖 他 第四帙第十二帖』。
- 吉川蕉仙『王羲之書法の展開-王献之から良寛まで-』株式会社二玄社、2016年11月30日。ISBN 978-4-544-01399-3。
- 杉浦妙子『入門 日本書道史』芸術新聞社、2019年5月10日。ISBN 978-4-87586-555-1。