丹羽氏重

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丹羽氏重
時代 安土桃山時代
生誕 永禄12年(1569年
死没 天正12年4月9日1584年5月18日
別名 次郎助、次郎三郎
戒名 常英
主君 徳川家康
氏族 一色丹羽氏
父母 父:丹羽氏勝
兄弟 氏次氏重加藤忠景
岩崎城(2014年2月13日撮影)
「忠義碑」(2014年2月13日撮影)

丹羽 氏重(にわ うじしげ)は、安土桃山時代武将徳川氏家臣尾張国傍示本城主(現愛知県愛知郡東郷町春木市場屋敷に城跡石碑)[1][2]

生涯[編集]

氏重は小牧・長久手の戦い徳川家康に従軍、出陣した兄・丹羽氏次に代わって尾張岩崎城を守衛。痘瘡(天然痘)を患っていたが、豊臣秀吉軍・池田恒興らが率いる三河奇襲部隊が城の前を通過すると、「見過ごすは末代までの恥」、「敵の動きを小牧山は未だ知らないであろう。われらが敵を食い止め討死すれば、必ず小幡城には聞こえる。また、小牧にも知らせが届こう。ご恩を奉ずるのは今日の一戦にある」と城兵239人に討死覚悟で一戦を命じた。

池田隊は、小城の岩崎城に構わずに進軍するつもりだったが、岩崎城からの攻撃に応戦した。池田軍の攻城隊を三度に渡り撃退するなどよく戦ったが、新手として現れた森長可軍の銃撃に怯んだ隙に討ち取られた。享年16。

氏重の討死を知った榊原康政は「氏重殿以下、ご立派な最後。仇はこの一戦で必ず討ち果たしましょうぞ」と氏次に伝令を送った。康政の伝令に氏重の兄・氏次は、「康政殿のお心遣い痛み入ります。仇は必ず討ち果たします。」と応答したという(岩崎城の戦い)。この一戦は、秀吉軍の中入り部隊を足止めし、小牧・長久手の戦いの織田・徳川軍の勝利に貢献したとされる[3][4][5]

脚注[編集]

  1. ^ 昭和30年代・濃尾平野と周辺の中世城館”. 服部英雄(九州大学). 2015年5月30日閲覧。
  2. ^ 広報とうごう2016年1月号「まちかどア・ラ・カルト」岩崎城と傍示本城をつなぐ”. 東郷町. 2016年5月7日閲覧。
  3. ^ 岩崎城の戦い”. 岩崎城 歴史記念館. 2016年5月7日閲覧。
  4. ^ 長久手市/長久手古戦場物語”. 長久手市. 2016年5月7日閲覧。
  5. ^ 川村真二 『徳川四天王 : 家康に天下を取らせた男たち』 PHP研究所〈PHP文庫 ; か22-3〉、2014年ISBN 9784569761930