コンテンツにスキップ

中谷準志

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中谷 準志
阪急ブレーブス時代(1950年撮影)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 和歌山県和歌山市
生年月日 1918年4月19日
没年月日 (1970-02-27) 1970年2月27日(51歳没)
身長
体重
177 cm
68 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
プロ入り 1938年
初出場 1938年9月30日
最終出場 1957年10月13日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

中谷 準志(なかたに じゅんじ、1918年4月19日 - 1970年2月27日)は、和歌山県和歌山市三木町出身[1]プロ野球選手三塁手)。

1938年から1952年まで中谷 順次(なかたに じゅんじ)、1953年中谷 演男(なかたに のぶお)の登録名でプレー。

経歴

[編集]

プロ入り前

和歌山市三木町堀詰で材木商を営んでいた両親の間から、5人兄弟の三男として生まれる。家業の材木屋はかなり大きな規模であり、千葉茂は「材木商のボンボン」と称している[2]。幼少の頃より病弱であり、それを見兼ねた兄の勧めで野球を始めたことで野球に興味を持ち、小学5年生の時には野球部に入部した[1]。なお中谷が通った廣瀬小学校は小川正太郎山下好一岡泰三(のち鐘化監督)らを輩出するなど野球熱が高い学校だった[1]

1931年の小学校卒業後は和歌山商業からの勧誘があったが、硬球でのプレーには自信がなかったため和歌山高等小学校に進学[1]。同級生には小林悟楼がいる。同年の全国高等小学校野球大会では福島小学校(大阪市)を破り、初優勝を成し遂げた。

高等小学校の卒業後、海南中学和歌山商から誘いがあり、「和歌山市内にあること、商業の勉強をすれば家業の役に立つこと、過去に勧誘があったこと」などから和歌山商への進学を決める[1]1936年野球部監督に川村善久(のち松竹2軍監督)が就任すると、和歌山高小からの同期である小林とともにWエースを形成。県大会初戦で木村勉伊勢川真澄を擁する粉河中学を破り、2回戦では安井亀和筒井敬三らの海南中学を延長再試合の末辛勝すると、決勝でも海草中学に勝利し、奈良代表の郡山中学にも勝利し初の甲子園出場を果たす。これに喜んだ校長は出場記念ということで、当時の人気芸人だったエンタツアチャコを呼んだという[1]。甲子園では初戦こそ福井商に勝利するが、2回戦で野村武史加藤三郎のバッテリーを擁してこの大会優勝を果たした岐阜商に大敗。翌年の選抜にも選出されたが、初戦で村松長太郎を擁して優勝した浪華商に惨敗した。最上級生となった1937年は嶋清一海草中学に敗れ、甲子園出場はならなかった。

和歌山商業学校卒業後は、都市対抗優勝のため各地の有望選手を探していた田村駒商店(現・田村駒)から勧誘があったことから同社に入社した。

プロ入り

1938年秋に酒沢政夫とともに田村駒治郎社長に呼び出され、「お前たちは徴兵検査に合格したのでそろそろ入営しなければならない。死ぬ前に一生の想い出としてプロで最後の野球を楽しんでいったらどうだ?」と言われ、田村駒に籍をおいたまま、出向社員のかたちで田村がオーナーを務めていたライオン軍に参加[1]

在籍2か月で応召され、歩兵第61連隊に配属。長沙作戦フィリピン島攻略戦に従軍し1942年7月に3年半ぶりに日本に復帰[3]。1943年にはリーグ5位の打率.248を記録した。1944年は病気のため阪大に入院し、復調した9月に再招集を受け漢口に配属[1]。そこで終戦を迎えた。1946年に復員。ライオン軍の後継球団であるパシフィックに入団。

1948年オフに浜崎真二の勧誘で阪急ブレーブスに移籍[1]。1950年の2リーグ分裂でロビンスから復帰の誘いもあったが、浜崎が阪急に留まったため阪急に残った。

1955年三原脩の誘いで西鉄ライオンズに移籍[4]、主将として2度のリーグ優勝、並びに2度の日本一に貢献した。

引退後は西鉄のコーチに就任。同郷の西本幸雄の誘いで阪急に移籍すると、阪急連覇に貢献した。

突然の死去

1969年の春季キャンプで吐血。十二指腸潰瘍と診断され、入院[4]。輸血用として選手たちから2000ccの血液の提供があった[4]。手術自体は難しいものではないと言われ、実際に成功した。しかし肋膜炎を併発したことにより、1970年2月27日に急死。

エピソード等

和歌山商2年生のときに練習試合で京都商沢村栄治と対戦。まぐれ当たりの安打を打った他は完璧に抑え込まれた[1]

終戦後、中国で捕虜生活を送ったが、その際に部下が誤って中国人老婆を負傷させてしまったことがある。怒った民衆は責任者である中谷を処刑するよう求めたが、運良く親友の下士官が通りかかり、彼が中国人が欲しがっていた塩を持っていたために、塩を渡すことで和解に成功した[1]。なお兄と弟はニューギニアで戦死している[1]

オールスターなどの大舞台に強く、オールスターでの通算打率は.429を記録している[4]

長男の同級生に松本匡史がいる[5]。松本はその縁で、よく西宮球場に通っていたという[5]

詳細情報

[編集]

年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1938 ライオン
朝日
パシフィック
太陽
大陽
26 97 86 11 23 3 0 1 29 14 0 -- 0 -- 11 -- 0 9 -- .267 .351 .337 .688
1942 18 51 49 1 11 0 0 0 11 2 2 0 0 -- 2 -- 0 5 -- .224 .255 .224 .479
1943 71 294 262 17 65 14 3 0 85 25 2 5 0 -- 32 -- 0 14 -- .248 .330 .324 .654
1946 21 63 60 5 10 1 1 2 19 12 0 1 0 -- 3 -- 0 3 -- .167 .206 .317 .523
1947 100 418 383 38 86 16 1 6 122 37 8 8 1 -- 34 -- 0 16 -- .225 .288 .319 .606
1948 134 551 500 47 113 18 9 6 167 50 14 12 0 -- 50 -- 1 37 -- .226 .298 .334 .632
1949 阪急 124 537 481 78 154 31 3 15 236 83 18 9 1 -- 53 -- 2 52 -- .320 .390 .491 .881
1950 115 485 431 72 129 28 1 21 222 98 28 6 1 -- 51 -- 2 32 7 .299 .376 .515 .891
1951 76 308 270 40 79 25 1 12 142 52 13 7 1 -- 33 -- 4 20 4 .293 .378 .526 .904
1952 100 423 367 52 97 25 1 7 145 45 27 11 8 -- 47 -- 1 25 9 .264 .349 .395 .744
1953 97 376 326 43 86 17 3 5 124 45 13 8 3 -- 45 -- 2 40 6 .264 .357 .380 .737
1954 110 424 379 44 95 17 2 8 140 57 11 5 5 8 30 -- 2 37 9 .251 .309 .369 .678
1955 西鉄 104 343 312 52 92 22 3 8 144 43 4 4 2 3 24 1 2 29 10 .295 .349 .462 .811
1956 93 215 194 15 38 6 0 3 53 16 4 2 5 3 13 1 0 22 6 .196 .246 .273 .520
1957 35 37 31 0 5 2 0 0 7 5 0 1 1 1 4 0 0 10 2 .161 .257 .226 .483
通算:15年 1224 4622 4131 515 1083 225 28 94 1646 584 144 79 28 15 432 2 16 351 53 .262 .334 .398 .733
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • ライオン(ライオン軍)は、1941年に朝日(朝日軍)に、1946年にパシフィックに、1947年に太陽(太陽ロビンス)に、1948年に大陽(大陽ロビンス)に球団名を変更

表彰

[編集]

記録

[編集]
節目の記録
  • 1000試合出場:1955年4月7日 ※史上30人目
その他の記録

背番号

[編集]
  • 3 (1938年秋)
  • 23 (1942年 - 1943年)
  • 5 (1946年 - 1948年)
  • 9 (1949年 - 1954年)
  • 2 (1955年 - 1958年)
  • 50 (1959年)
  • 31 (1960年 - 1961年)
  • 60 (1962年 - 1969年)

登録名

[編集]
  • 中谷 順次 (なかたに じゅんじ、1938年 - 1952年)
  • 中谷 演男 (なかたに のぶお、1953年)
  • 中谷 準志 (なかたに じゅんじ、1954年 - 1969年)

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l 『ベースボールマガジン8月号「わが熱球譜 球と共に十五年」』ベースボール・マガジン社、1952年。 
  2. ^ ベースボール・マガジン社【出版・雑誌野球担当】” (2025年9月30日). 2025年11月1日閲覧。
  3. ^ 『背番号への愛着』日本出版協同、1952年、119頁。 
  4. ^ a b c d 『月刊プロ野球ヒーロー大図鑑 三塁手 パ・リーグ編』ベースボール・マガジン社、2025年。 
  5. ^ a b 『新プロ野球人国記5』ベースボール・マガジン社、1987年。 

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]