中津競馬場
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| 施設情報 | |
|---|---|
| 所在地 | 大分県中津市大字大貞371 |
| 座標 | 北緯33度33分53.23秒 東経131度12分48.5秒 / 北緯33.5647861度 東経131.213472度座標: 北緯33度33分53.23秒 東経131度12分48.5秒 / 北緯33.5647861度 東経131.213472度 |
| 開場 | 1933年 |
| 閉場 | 2001年3月22日 |
| コース | |
| 周回 | 右回り |
| 馬場 | ダート |
沿革
[編集]創設から廃止まで
[編集]1924年(大正13年)に大分県下毛郡大幡村(現在の中津市郊外)に新競馬場を開場[1]。1933年(昭和8年)には競馬場を大幡村大貞に移転した。
しかし、1938年(昭和13年)「軍馬資源保護法」により一時廃場することになった。
1948年(昭和23年)に競馬開催を再開する。
1952年(昭和27年)からは県と中津市との並行開催となり、1956年(昭和31年)に中津競馬組合が設立されることとなった[2]。
高度経済成長期の波に乗ることで売り上げを伸ばしていき、1979年度の売上は約130億円に達した[2]。
しかし、その後はレジャーの多様化によって売り上げを減らしていった[注釈 1]。賞金の引き下げなどで収支の改善を図ったものの結果として馬の質の低下を招く悪循環となってしまった[2]。
1997年(平成9年)には1月下旬の調教師試験で、18人中3人が不合格となり、更新が認められなかった。また、厩務員も十数人が更新を認められなかった[3][4]。
2000年(平成12年)からは熊本県の荒尾競馬と佐賀県競馬の3つの競馬場で日程を調節して、人馬の交流を図る九州競馬が発足した。中津競馬単独の競走は削減されて、残った競走も赤字解消のために賞金や出走手当が約2割引き下げられた。経費の節減は調教師・騎手・厩務員などの関係者の収入減に大きな影響を与えた[2]。
2000年度には40億円ほどと最盛期の約3分の1にまで落ち込んだ[2]。
廃止およびその後
[編集]2001年(平成13年)、中津競馬場は21億円以上の累積赤字を理由に急遽閉鎖、廃止された(「#幻の開催日程」も参照)。
廃止の表明は、当時の中津市長であった鈴木一郎が2001年(平成13年)6月3日をもって廃止することを突然発表し、これにより職を失う約400名の調教師・騎手・厩務員などの労働者に対し「直接の雇用関係にない競馬関係者に補償金を支払う義務も責任もない」と補償をしないことを表明した[5]。県議会と市議会の議員からなる競馬議会も市長の廃止方針をそのまま通した[6]。
6月には厩舎団地の明け渡しが通知された[6]。
以後、追随するように競馬開催を廃止する自治体が次々と現れ、結果的に中津競馬の廃止が平成期の自治体の公営競技整理の端緒となった[5]。
折しも佐賀競馬場・荒尾競馬場との3場で、独自の競走格付け「九州グレード(KG)」を導入するなど相互の連携を強めていた矢先の出来事であった。また当時のリーディング上位常連騎手有馬澄男(園田へ移籍)、人気女性騎手の小田部雪(荒尾へ移籍)といった、一部の競走馬・関係者の移籍受け入れが行われるなど前述の2競馬場以外にも少なからず影響を及ぼした。
中津競馬場の跡地には公園の造成が計画されていたが、工費は中津競馬の累積赤字を遥かに上回る40億円規模とされていた[7]。
コース概要
[編集]- ダート右回り 1周1000m・幅員20m〜25m
- 直線(4コーナーから決勝線まで) 195m
- 施行可能距離 760m,1180m,1300m,1620m,1760m,2180m,2300m
- 出走可能頭数(フルゲート) 10頭
発売する馬券の種類(廃止直前)
[編集]○…発売 ×…発売なし
| 単勝 | 複勝 | 枠番連複 | 枠番連単 | 馬番連複 | 馬番連単 | ワイド | 3連複 | 3連単 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | × | × | × | × |
主な競走(廃止直前)
[編集]- 九州スプリントカップ(KG3)
- 九州サラブレッドグランプリ
- 中津ダービー
- 中津桜花賞
- 中津大賞典
- 中津記念
- アラブ優駿
- アラブ新春賞
- ガーネット特別(結果的に最後に行われた重賞競走となった)
- 卑弥呼杯(1997年から2000年まで開催された中央・地方所属の女性騎手達による招待競走)
所属騎手(廃止時)
[編集]幻の開催日程
[編集]当初、中津競馬場の開催は2001年(平成13年)6月末までとされていた。しかし着順判定を行うのに不可欠な映像業者との契約交渉が不調に終わり更新することができなかったため、4月〜6月の開催日程が発表されていたにもかかわらず、2001年3月22日の開催を最後に閉鎖された[8]。このため、閉場に伴うセレモニーなどの類は一切行われず、中津競馬の歴史には唐突に幕が下ろされることとなった。
関連書籍
[編集]- 中津競馬物語(大月隆寛監修・中津競馬記録誌刊行会編、不知火書房、2002年)ISBN 978-4883450787
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ↑ “矢野吉彦のあの地方競馬場はいま|web Furlong”. www.keiba.go.jp. 2026年4月25日閲覧。
- 1 2 3 4 5 「岐路に立つ地方競馬 上」『読売新聞』2001年8月26日。
- ↑ 『大分合同新聞』1997年3月18日、25面。
- ↑ “競馬場廃止考(4)中津競馬・対立の真相”. 2002年10月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年4月25日閲覧。
- 1 2 “中津競馬物語 - 田中哲実 | 競馬コラム”. netkeiba.com. 2022年5月16日閲覧。
- 1 2 「「高知競馬」という仕事 =第3部= 夢の跡流浪記【11】 「合意」は1年後 ――奥さん「高知からもカンパもらったよ」」『高知新聞』2003年2月5日、夕刊。オリジナルの2003年2月27日時点におけるアーカイブ。
- ↑ 「「高知競馬」という仕事 =第3部= 夢の跡流浪記【13】 公園化に40億円 ――関係者「やっぱり、やりきれんです…」」『高知新聞』2003年2月7日、夕刊。オリジナルの2012年3月15日時点におけるアーカイブ。
- ↑ 古林英一「公営競技の誕生と発展 : 競輪事業を中心に」『北海学園大学学園論集』第168号、北海学園大学学術研究会、2016年6月25日、ISSN 0385-7271。
