中川大輔 (棋士)
中川大輔 八段 | |
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名前 | 中川大輔 |
生年月日 | 1968年7月13日(52歳) |
プロ入り年月日 | 1987年10月19日(19歳) |
棋士番号 | 184 |
出身地 | 宮城県仙台市 |
師匠 | 米長邦雄 |
段位 | 八段 |
戦績 | |
一般棋戦優勝回数 | 1回 |
2014年3月11日現在 |
中川 大輔(なかがわ だいすけ、1968年7月13日 - )は、将棋棋士。米長邦雄永世棋聖門下。棋士番号は184。宮城県仙台市出身。日本将棋連盟理事(2007年5月-2011年12月, 2013年6月-2017年2月)
棋歴[編集]
1982年、第7回中学生名人戦で優勝。その翌年に奨励会で指し始める。第1回三段リーグで13勝3敗の成績を挙げ、プロ入り(四段昇段)する。そのときのもう一人の昇段者は、同門の先崎学であった。以来、順位戦では毎年安定して好成績を残す。B級1組に初昇級するまでの15年間において、9勝1敗が1回、8勝2敗と7勝3敗が各々6回であり、次点に泣いた期が3度あった。
第11回(1988年度)若獅子戦で、棋戦初優勝。第20回(1989年度)新人王戦で準優勝。
第45回(1995年度)NHK杯戦では、七冠王となったばかりの羽生善治と決勝で戦う。得意の右玉戦法で羽生に立ち向かった。敗れて準優勝に終わったが、それから間もない頃、NHKテレビに出演した際、「羽生を相手にして力いっぱい指した。今年度一番の対局。」と感想を語った。
1997年、竜王戦で1組に初昇級。6組初参加より決勝トーナメント出場経験が一度もないまま1組に昇級した棋士は、中川が史上初である。
第57期(1998年度)B級2組順位戦の第9回戦で藤井猛竜王(当時)に2つ目の黒星をつけ、先崎のB級1組昇級をアシストした。自らのB級1組昇級は、その4年後であった。
第41期(2000年度)王位戦でリーグ入り。タイトル経験者3名(丸山忠久、郷田真隆、南芳一)に勝利して3勝2敗とするが、同星の郷田(前期から残留)との順位差に泣き、リーグ残留ならず。
第11期(2003年度)銀河戦の決勝トーナメントで羽生善治竜王・名人(当時)、森内俊之らを破り決勝進出。決勝で佐藤康光棋聖(当時)に敗れて準優勝。
第64期(2005年度)B級1組順位戦の最終局は、勝てばA級昇級という一番であったが、深浦康市に敗れて昇級を逃した。
第55期(2007年度)王座戦で、渡辺明竜王(当時)を下してベスト8進出。
第57期(2009年度)王座戦で、高橋道雄、阿久津主税、谷川浩司、森下卓、藤井猛を破り、挑戦者決定戦まで進むが、山崎隆之に敗れ、初のタイトル挑戦を逃す。
2010年度、日本将棋連盟理事の仕事をこなす中、第69期B級2組順位戦で昇級争いトップ(8勝1敗)の状態で最終局の対畠山成幸戦を迎える(畠山にとっては、勝てば降級点を消せるという一局)。結果、中川は敗れ、昇級争いのライバルが勝ったため、逆転昇級を許してしまった。
2011年12月9日、公式戦通算600勝(将棋栄誉賞)を達成[1]。
2011年12月21日、一身上の都合により、日本将棋連盟理事を辞任。のち、連盟会長であった師匠米長邦雄の死去後の『将棋世界』追悼号(2013年3月号)に追悼文を寄せ、米長の晩年は師弟関係が絶縁状態だったことを記した。2013年6月7日、将棋連盟理事改選により再び理事に就任する[2]。
棋風[編集]
居飛車党。個性的な力強い棋風で知られ、棋界の流行戦法に流されず独自の将棋を貫く傾向が強い。
得意戦法の一つは角換わり、特に右玉戦法。師匠の米長も得意とした戦法である。横歩取り8五飛が登場する以前は、横歩取り戦法のスペシャリストとも呼ばれた[3]。横歩取り模様の後手番で△8五歩を保留して△4二玉と指し、先手の飛車先交換後に△2三歩と打つ中川流2三歩戦法を考案(従来の2三歩戦法は先手に横歩を取られた後に飛車金交換されて不利だと結論が出ていたが、この形では▲3二飛車成に対して△同玉と取れるのが骨子である)。右四間飛車戦法も、独自の研究を加え得意戦法としている(下記「著書」の項を参照)。
人物[編集]
- 宮城県出身ということで中原誠と同郷であるが、米長の弟子となった[4]。
- 古くからの駒落ち定跡などにも理解が深く、その駒組みにも影響を与えている。
- 2004年度のB級1組順位戦では、行方尚史との対局で、持将棋、千日手による2度の指し直しのあと、一日弱、将棋を指し続けた(午前10時開始、終局が翌日午前9時15分、結果は行方の勝ち)。
- 趣味は野球で、日本将棋連盟の野球チームの監督を務めたことがある。また、精神鍛錬のために極真空手を行っている。他に登山を好み奥多摩に居住している。
- 2003年から2007年5月まで奨励会幹事を務めた。棋士の卵たちの精神的支えであると同時に厳しい躾役の面も見せた。
- 2007年5月の日本将棋連盟棋士総会において理事に立候補し当選、広報、免状担当の理事に就任。
- 2009年5月の棋士総会において理事に立候補し当選、広報、電子メディア担当の理事に就任。
- 2011年5月の棋士総会において理事に立候補し当選。普及部担当の常務理事に就任するも、12月、一身上の都合により辞任。
- 2013年6月の棋士総会において理事に立候補し当選。総務部担当常務理事に就任。
- 理事として将棋ソフト不正使用疑惑をめぐる混乱に対する責任を問われ、2017年2月27日に行われた臨時総会で青野照市、片上大輔と共に解任された[5]。
- 妻は囲碁棋士の宮崎志摩子四段。宮崎の実弟で同じく囲碁棋士の宮崎龍太郎七段は義弟にあたる。
- 別冊宝島440「将棋 これも一局読本」(1999年発行)における棋士100人へのアンケートで、引退時期についての設問への回答として「(引退するのは)闘志がなくなったとき。対局に負けた夜、ぐっすり眠れるようになったらおしまい。」と記し、編集者が「迫力がすごい」と感想を述べている。
- 若手時代は短髪。30代後半から白髪が目立つようになると、あごひげをはやし、顔は日焼けさせて、大幅にイメージチェンジしている。
- ファッションへのこだわりも定評がある。渡辺明は自身が20歳のときの話として「服装に無頓着にしていたら中川に『100万円持って新宿に来て』と呼びだされ、(中川に)言われるがままにスーツやカバンなど一式まとめて購入させられた」とのエピソードを語っている[6]。
- 2008年6月2日に行われた棋王戦本戦1回戦における北浜健介との対局中、自身が昼食休憩で注文した五目焼きそばの大盛りを滝誠一郎七段の勘違いで滝に食べられてしまうハプニングが起きた。滝はこの日棋聖戦一次予選2回戦において中田功と対局しており、昼食休憩に五目焼きそばの並盛りを注文していたが故のハプニングであった。昼食を食べられた中川は昼食休憩の約2時間後に菓子パンを食べて空腹を凌いだ(対局は中川の勝利)。
昇段履歴[編集]
昇段規定は、将棋の段級 を参照。
- 1983年 6級 = 奨励会入会
- 1985年 初段
- 1986年11月 三段
- (1987年 現行の奨励会三段リーグ制度が開始。1987年度前期の三段リーグ(第1回三段リーグ)に参加。)
- 1987年10月19日 四段(第1回三段リーグで1位) = プロ入り
- 1990年11月27日 五段(勝数規定)
- 1994年6月28日 六段(勝数規定)
- 2000年10月20日 七段(勝数規定)
- 2009年12月11日 八段(勝数規定)[7]
主な成績[編集]
棋戦優勝[編集]
- 若獅子戦 1回(第11回)
- 合計 1回
在籍クラス[編集]
竜王戦と順位戦のクラスは、将棋棋士の在籍クラス を参照。
著書[編集]
- 右四間で攻めつぶす本(2006年12月、浅川書房、ISBN 4-86137-015-9)
- すぐ勝てる!右四間飛車 (2012年10月、マイナビ出版 、ISBN 978-4-8399-4478-0)
- すぐ勝てる!矢倉崩し(2013年3月、マイナビ出版、ISBN 978-4839946401)
脚注[編集]
- ^ 日本将棋連盟ホームページ・お知らせ「中川大輔八段が600勝(将棋栄誉賞)を達成!」
- ^ 日本将棋連盟ホームページ・お知らせ「日本将棋連盟新役員のお知らせ」
- ^ 師匠の米長は、タイトル戦の番勝負を戦う前に、中川のアパートまで出向いて、横歩取り戦法について教えを請うたことがある。師匠が弟子に将棋を教わる、しかも、弟子宅へ出向くという、珍しいエピソードであるが、このことは米長自身が何度も堂々と公言している。
- ^ 中川よりも先に奨励会入会した佐藤秀司は宮城県出身で、中原の弟子となった。中川が中原ではなく米長の門戸を叩いた理由は、米長が名人戦などで中原に何度敗れても挑戦をし続けたことに感動したからであるという。(NHKに米長とともに出演した時の本人談)
- ^ “将棋連盟、ソフト不正使用疑惑の混乱で理事3人を解任”. 日本経済新聞. (2017年2月27日) 2017年2月27日閲覧。
- ^ 『将棋の渡辺くん』第1巻・pp.46 - 48
- ^ 日本将棋連盟ホームページ・お知らせ「中川大輔七段が八段に昇段(2009年12月11日付)」
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
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