中島種夫

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中島 種夫(なかしま たねお、1907年 - 1983年)は、長崎県出身のグラフィックデザイナーである。

概要[編集]

長崎市在住の美術図案家(現代では美術図案家はグラフィックデザイナーという)であったが、昭和11年に豊田織機が自動車を発表した時の新しいトヨタのマークをデザインした。この濁点を取り除いたカタカナのマークのために豊田のすべての商標はトヨタに変わることになる。

あらまし[編集]

明治40年(1907年)11月13日、長崎市本博多町(現万才町)にて父下瀬榮太郎、母ヤスの間の12人(男11人、女1人)の中の男子として生まれる。開国以来の富国強兵政策のため母ヤスは子沢山で表彰されたが、当時は栄養失調、チフスなどの病で子供たちは大人になるまで育たず、昭和の時代まで生き延びたのは中島種夫を入れてわずか4人の兄弟だけだった。 家業は『下瀬精巧軒』といい、美術品製作、骨董鑑定、印鑑彫刻などを営んでいた。特に父榮太郎の古賀人形の収集は有名で「下瀬コレクション」と呼ばれ、好事家の広く知るところであった。およそ800体もあった収集品は、昭和20年8月9日の原子原爆で蔵が破壊され消滅。わずか地下にあった数体のみが残った。 下瀬種夫は勝山小学校時、寺町の三宝寺という浄土宗の寺に養子に出されたが、その後家業を継ぐため実家の下瀬精巧軒に戻るが、なぜか姓は下瀬に戻らずそのまま養家の中島を名乗った。 昭和の時代まで生きた上の兄 英雄はニチメンの商社員として英領インドに派遣され、現地で盲腸にて死亡した。次兄・下瀬豊は昭和20年春、毎日新聞西部本社より特派員として沖縄の戦場へ。従軍記者として「ひめゆりの塔」事件をはじめ、凄絶な沖縄戦記を本社に打電したが、沖縄最後の日、妻ミヤ子と子らを遺し帰らぬ人となった。兄の跡を継いで同じ毎日新聞西部本社の記者となった弟下瀬隆治は沖縄に「戦没新聞記者の碑」(那覇市・護国寺境内)建造に尽力し、天寿を全うした。

トヨダからトヨタへ トヨタマークのデザイン[編集]

東京で美術修行を終えた後、長崎で家業を継いでいた種夫は、昭和11年(1936年)の夏、豊田自動織機製作所が国産の大衆車を発表するにあたり、自動車部門(現トヨタ自動車工業の前身)が独立するために新しい豊田のマークの公募を知り、2点を応募。 条件は「トヨダ」をスピード感のあるマークに仕上げることだったが、種夫はどうしても濁点があるとスピード感が損なわれ、また九州では濁点を付けない読み方が一般的であるので勝手に読みを変えてしまった。 ちなみに中島の姓も九州では「なかじま」とは読まず「なかしま」である。応募は北は樺太、南は台湾、当時の支配下だった満州や中国から2万7千点も集まり、自動車に関する注目の大きさが感じられる。 昭和11年(1936年)9月25日、日本橋高島屋にて各界の審査員が厳選されて残った570点の中から中島種夫の作品を一位とした。その後、トヨダ商標はすべてトヨタに変わった。

種夫のその後[編集]

印刷の版下、包装紙、マッチなどの美術デザインや印刻などあらゆる仕事をこなしたが、もともと純粋絵画や彫刻が専門だったため、面倒な仕事ばかりが依頼された。作品を仕上げるのに時間がかかりすぎて依頼主が痺れを切らすことも度々だった。妻の和子との間にできた4人の子供たちを食べさせていくのはきつかった。

明治生まれの世代には車の運転などまったく縁がなかったが、日に何度も新聞やテレビで自分がデザインしたトヨタマークが目に入り、トヨタの記念事業の折は取材がありトヨタとの縁は深かった。トヨタの発展を喜んでいた。種夫は昭和58年(1983年)2月4日に肺繊維症にて長崎市民病院に入院中、心臓発作にて死亡。享年75。