中島久万吉

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中島久万吉

中島 久万吉(なかじま くまきち、1873年7月24日 - 1960年4月25日)は、財界人であり、政治家実業家男爵

生涯[編集]

父の中島信行は土佐藩を脱藩した尊王の志士で、海援隊に入るなど国事に奔走した。明治政府の高官の道を歩むが、下野し、自由民権運動に参加。自由党副総理となる。初代衆議院議長、イタリヤ公使を勤めた。その勲功により男爵となる。そのため、長男の久万吉も男爵を襲爵する。実母はつは、陸奥宗光の妹。三人の幼い息子を残して逝去。継母は岸田俊子。女流の民権活動家・文学者として高名。妻の八千子は岩倉具経子爵の娘。 明治学院では島崎藤村と同窓。文学雑誌『菫草』を主宰し、島崎藤村が文学者になる道を開く。高度な英語力を養い、深いキリスト教的霊性を受けた。 明治30年に高等商業学校を卒。東京株式取引所、三井物産、京釜鉄道線路調査委員などを経て、内閣秘書官を長く務めた。男爵議員として貴族院議員を長くつとめ、公正会の領袖となる。 古河財閥入りし、古河系企業の多角化を推し進め、古河電気工業横浜ゴムを設立させた。財閥外でも日本工業倶楽部の設立に関わるなど、財界人として独自の地歩を歩む。 戦後、日本貿易会会長。GHQの政策に多くの提言を行った。日本青年連盟会長、日本外政学会会長。日本工業倶楽部評議会会長。 俳句・漢詩、水泳・野球や登山が趣味。

1934年昭和9年)、いわゆる「足利尊氏論」による混乱を鎮めるため、斎藤実内閣商工大臣を辞任した。また同年、帝人事件に連座して起訴されたが、後に無罪が確定した(帝人事件では被告人全員が無罪となり、裁判長から「証拠不十分の無罪ではなく全く犯罪の事実が存在しない」とのコメントがあったため、事件そのものが捏造と解されている。)。1960年(昭和35年)、死亡叙勲により勲一等旭日大綬章

足利尊氏論[編集]

1921年大正10年)、中島は、清見寺静岡県静岡市清水区)にある足利尊氏自作の木造を拝観し、その感想文を俳句同人雑誌「倦鳥」に投稿した。当時、皇国史観に基づき、後醍醐天皇に背いた足利尊氏は、謀反人と断定されていたが、中島は尊氏と足利時代(室町時代)を再評価すべき旨、その感想文に記していた。

その記事が掲載されてから13年後の1934年(昭和9年)、中島の感想文が雑誌『現代』2月号に転載される。同年2月3日衆議院予算総会において、栗原彦三郎衆議院議員野党国民同盟所属)が、この転載記事を利用して、逆賊たる尊氏を評価するような者が大臣の職にあることは「日本の教育行政にとって望ましくない」と政府の教育行政を批判した。この場は、中島が転載を知らなかったと釈明し、陳謝して収まった。

しかし、軍部出身議員や右派議員を多く擁していた貴族院において、尊氏論は再燃する。これら、軍部出身議員や右派議員は、斎藤内閣の軍縮姿勢と中島が主導した政友会民政党の連携による軍部抑制策に不満を持っており、政府攻撃の隙を窺っていたからである。尊氏論は、その格好の攻撃材料となった。

中島攻撃を主導したのは、菊池武夫・貴族院議員(予備役陸軍中将男爵、南朝の功臣菊池氏の子孫)である。菊池は、逆賊尊氏を礼賛することは輔弼にあたる大臣の任に堪えないとして、斎藤首相に「しかるべき措置」を取るべきと、中島の商工大臣罷免を迫った。斎藤首相は、すでに中島の陳謝により決着済みであり、議論は場違いであることを指摘した。この答弁に不満を述べた三室戸敬光・議員(子爵)は、さらに中島の爵位辞退をも要求し、斎藤の政治責任を追及した。

議会の内外でも右翼の執拗な攻撃が続き、宮内省にも批判の投書が殺到したため、中島は商工大臣を辞任せざるを得なくなった(爵位は辞退せず)。この足利尊氏論に関わる一連の顛末は、政治に対する軍部の介入と右翼の台頭に勢いを与え、翌年の天皇機関説事件の要因ともなる。

略歴[編集]

栄典[編集]

著書[編集]

参考文献[編集]

  • 村山元理『中島久万吉と帝人事件-財界人から精神的指導者へ』(一橋大学博士論文・2015年)

脚注[編集]

  1. ^ 『官報』第7578号・付録「辞令」1908年9月28日。
  2. ^ 『官報』第1630号「叙任及辞令」1918年1月11日。


公職
先代:
前田米蔵
日本の旗 商工大臣
第9代:1932 - 1934
次代:
松本烝治