中山信昌

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中山 信昌(なかやま のぶまさ、元禄12年(1699年)- 寛保3年7月8日1743年8月27日))は、常陸太田藩の第3代当主。水戸藩附家老・中山家8代。

大身旗本(4200石、御先弓頭)・堀田一幸の四男。母は大田原政清の娘。正室は中山信成の娘。子は中山信錦(長男)、中山政信(三男)、中山常信(四男)、中山篤信(五男)、娘(中山直秀正室のち大久保忠肥継々室)、娘(鈴木直賢室)、娘(竹中元長室のち須田盛庸室)、娘(筑紫安門継室のち須田盛庸室)。官位は従五位下、備前守。通称は内記。

正徳2年(1712年)1月、先代・中山信順が早世したため養子となって同年5月家督を相続した。他家養子のため5000石の減封となった[1]。正徳3年(1713年)12月11日、従五位下・備前守に叙任。寛保3年(1743年)に45歳で没し、跡を三男・政信が継いだ。墓所は埼玉県飯能市の智観寺。

水戸藩が宝永の改革に失敗し、4代藩主宗堯が短い期間の統治の後に没し、5代藩主宗翰が幼少(3歳)で水戸藩を継承した時には、藩政の主導権を掌握して減封した5000石も寛保2年(1742年)1月に加増した。8代将軍吉宗に他の水戸家家臣とともに呼び出され、幼君の輔育と一和忠勤を直接命じられた。

血筋[編集]

附家老中山家の家祖中山信吉の兄中山照守の血を引く[2]

  • 中山照守―大野三八某妻―堀田一純室―堀田一幸―中山信昌

脚注[編集]

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  1. ^ 小山譽城『徳川御三家付家老の研究』(清文堂出版、2006年) ISBN 4-7924-0617-X
  2. ^ 寛政重修諸家譜』に一部基づく。