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両墓制

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

両墓制(りょうぼせい)とは、遺体の埋葬地と墓参のための地を分ける日本の墓制習俗の一つである。遺体を埋葬する墓地と詣(まい)るための墓地を一つずつ作る葬制で、一故人に対し二つの墓を作ることから両墓制と呼ばれる。遺体の埋葬墓地のことを埋め墓(葬地)、墓参のための墓地を詣り墓(まいりはか、祭地)と言う。

概要

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遺体の埋葬方法については古代より重要な社会的課題であったと考えらえるが[1]、民俗学の観点から墳墓のありかたについて学術的分類を最初に与えたのは柳田国男である。

葬送習俗や祭祀習俗は古くから各地に様々な特色があったと考えられるが、明治初年以来、墓地や埋葬に関する法制度が整備、展開されており[2]、従来の埋葬方法が各地で攪乱された経緯がある。特に日本では儒教やカトリックのような観念的で理念的な埋葬方法が確立していたわけではない[3]ため、民衆の間で実際にどのような埋葬方法が執られてきたのか学術的に不明瞭であった。

両墓制については、古くからその存在は知られていたようであるが、学術的に取り上げられるようになったのは大正期からであり、従前複数の報告がなされたが、民俗学者の柳田國男昭和4年(1929年)に「墓制の沿革に就いて[4]」(『人類学雑誌』500号)で両墓制を取り上げて以来、両墓制の存在は民俗学の範疇となった。昭和30年代に実施された民俗資料緊急調査において各地の埋葬習俗の経緯や現状がようやく明らかになり、両墓制は主に近畿地方、関東から中四国に渡り古くから見られ、一方で東北や九州には極めて少ない[5]傾向が明らかになった。若狭地方のように混合している地域があり、浄土真宗の影響がある美浜町菅浜は単墓制であるとの報告もある[6]。静岡県天竜川流域や山梨県の鳴沢村大田和地区は古くは畦横などの私有地に埋め墓があり、これが明治政府の指令により共有地に埋め墓を持つようになった地域であるとの報告がある[7]。東京西部の一部地域では自宅私有地に埋め墓があり(屋敷墓)、のち共同墓地に遷移したとの報告もある[8]

両墓制は必ずしも一定の決まりを持った習俗ではなく、各地で様々な特色がある。ただ、大きく捉えると両墓制の特徴は「埋め墓」という遺体埋葬地と「詣(まい)り墓」という遺体のない墓参用墓地の二つが存在していることにある。柳田はこの習俗に関しては「葬地」と「祭地」といった呼び方[9]をし、「両墓制」という言葉自体は柳田の下で山村調査にあたった民俗学者の大間知篤三が使い始めた語[10]である。両墓制は土葬を基本とした埋葬時代の「穢れ」と「忌み」が関与した風習だと考えられている。大阪府阪南市の場合は昭和35年(1960)に火葬場ができてから人が亡くなると火葬し墓石を建てて遺骨を埋葬し、そこに墓参りするという習俗が定着したという[11]

墓地

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両墓制

両墓制の埋め墓(左)と詣り墓(右) 埼玉県新座市大和田地区

埋め墓

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遺体を埋める埋葬地。多くは土葬を基本とするが、稀に火葬や改葬を伴うものも見られる。人里離れた山林などが多く、墓標をまったく建てずに埋葬する場合、自然木、石、木製角柱墓標、卒塔婆を墓標に用いる場合、あるいは詣り墓と同じように石塔を建てる場合など様々なパターンがある。集落ごとの共同墓地であることが多く、その埋葬地は家や年齢などによって区画分けされる場合もあれば、まったく決まりが無く空いた土地に埋めたり、古い墓地を掘り起こして追葬する場合など様々である。 埋め墓に参る期間も、埋葬後は一切埋め墓に参らない場合から、四十九日、一周忌、さらには五年、七年と言う長い期間を経て弔い上げをする場合など様々である。いずれにせよ、弔い上げの終了後は詣り墓へ墓参をするようになる。また、埋め墓の土を詣り墓へ盛っていく風習も少なからず存在する。 埋め墓の呼称としては様々なものがあるが、多い事例としては[12]イケバカステバカサンマイ[13](三昧)、ラントウバ[14]などがある。

詣り墓

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定期的な墓参や先祖供養、盆などに詣(まい、参)るための墓である。通常、石塔を建てる。遺体や遺骨はない。寺院の境内に存在する場合も多く、石塔は五輪塔多宝塔宝篋印塔のような仏塔から一般的な角塔墓、笠塔婆など様々である。遺体埋葬の必要がないので、石塔だけが緊密に並べられることが多い。

詣り墓の呼称としてはキヨバカマツリバカなどがある[15]

隣接両墓

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両墓制の基本は埋め墓と詣り墓が距離を隔てていることにあるが、全国の例では二つの墓がかなり近い位置にある場合が多く見受けられる。これは埋め墓と詣り墓が道一つ挟んで並び合っている場合や、詣り墓が小高い壇上にあり、その下の平場に埋め墓がある場合、あるいは完全に同じ土地に埋め墓の区画と詣り墓の区画が隣接している場合がある。このような隣接両墓は、通常の単墓制との区別が曖昧である。

琉球地方の両墓制

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かつての琉球地方においては、洗骨の前後で墓所を移動するという形式の両墓制が存在した。 これは親族の手による洗骨を経ることによって死者の穢れが浄化され、祖霊として成仏するという信仰に基づくものとされる。 典型的な例では、遺体はまず後生(ぐそー=あの世の意)と呼ばれる不浄の地で風葬に付され、一定期間の後に洗骨を行い厨子甕(骨壷)に収められた後、別の地に設けられた共同墓地あるいは先祖代々の墓に葬られる。

ただし現在の沖縄奄美においては、後生と詣り墓を分けることは行われていない。 一部地域に残る風葬や土葬後に洗骨・改葬を行うケースでも、同じ墓所内で行われるのが通例である。

発生要因

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両墓制がなぜ発生したのかということに関しては、不明な点が多くはっきりしない。

代表的な意見としては、死穢の観念や遺体恐怖から遺体埋葬地を人里離れた場所に作り、人の住む場所の近くや寺院境内に死者供養のための石塔墓地を別に作ったというものがある。

現実に、土葬習慣における腐敗した遺体の臭気を避けるため、また昔は医療が発達しておらず死因が殆ど判らないために、遺体より伝染病などに感染する確率が非常に高く、さらには都市部では人口が多いため住宅が現代のように密集しており、また長屋暮らしの者には庭はなく、我が家の庭へご遺体を埋めるわけにはいかないので遺体は埋め墓へ埋葬するが、埋葬後遺体がある程度、土へ還れば他者の遺体もその場所へ埋葬しなければ用地が足りない。しかしそうなれば、我が家のお墓を永久的に保つことは出来ないので、埋葬地を別にしたとも考えられる。

柳田は、埋め墓において個人の埋めた場所が曖昧であったり、わからないといった例を用いて、死穢や魂の問題から埋め墓を墓として認識しておらず、詣り墓こそが本来の墓であると考えた。また、改葬、風葬習慣から両墓制が発生したとした。

また、大間知は死穢を畏れる古い習慣がもともと存在し、同時に死者供養のための石塔を受容して両墓制は発生したとした。

柳田らの考え方では、祖霊信仰に基づいて日本固有の古い習俗として位置づけるものがあったが、一方で庶民の墓に石塔を墓標として建てる習慣が中世末より近世期に一般的になったことや、両墓制が近畿地方にのみ濃密で、他の地域では極端に例が少なくなることを踏まえて、両墓制はそれほど古い習俗ではないという考え方もある。

分布

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両墓制は近畿地方に濃厚に存在し、関東、中部、中国、四国には散在、点在の形である。民俗資料緊急調査による『都道府県民俗地図』によると調査時に確認された両墓制習俗を持つ集落は、滋賀県(60)、奈良県(59)、京都府(42)、兵庫県(39)など近畿地方に圧倒的に多い。その他の都道府県では三重県(45)、福井県(39)、静岡県(22)を除くと少ない[16]

現存する両墓制墓地の例

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  • 埼玉県新座市大和田
    • かつての川越街道、大和田宿の集落に土葬による両墓制の習俗が、昭和期まで存在していた。大和田4丁目の普光明寺に詣り墓があり、大和田1丁目の岾上(はけうえ)墓地と3丁目の三本木墓地が埋め墓となっていた。現在[いつ?]では両墓地とも使われていない。埼玉県では入間川の流域にも両墓制習俗があった。
  • 長野県佐久地域
  • 奈良県大和高原地方
    • 柳生、都祁、月ヶ瀬など。奈良県は緊密な両墓制習慣があった。この地域の両墓制は、埋め墓を年齢や男女で分けるという特徴がある。
  • 瀬戸内海塩飽諸島
    • 佐柳島、志々島、高見島などに両墓制の墓地が2014年2月現在の時点で現存する。埋め墓の上に霊屋を建てるという特徴がある。現在は火葬に切り替わっているが、墓地自体は使われている。佐柳島では現在でも埋め墓と参り墓を作ることが多く、両墓制が風習として現存していると言える。なお、佐柳島では埋め墓に霊屋は建てず木を削り出して作った人形を立てる。

両墓制墓地は現在[いつ?] でも見ることはできるが、近年[いつ?]は使われていない場合が多い。それは両墓制が土葬を基本とするため、火葬が一般的となった現在[いつ?]では土葬の両墓制は役割を終えたと言える。現在[いつ?]では特に埋め墓は地域の共同墓地として解釈されている場合が多く、近年[いつ?]は土地利用の観点から埋め墓を再整備して、石塔(墓石)を持つ単墓制の通常の火葬墓に切り替えるケースが多くなっている。

脚注

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  1. 柳田「墓制の沿革に就いて(一)」では「(葬制は)何れの民族でも是が最も主要なる文化の一特徴と目せられて居るにも拘らず、日本にはまだ明らめられざる不審が幾つもある」と述べる。青空文庫「墓制の沿革に就いて」<
  2. 明治5年8月31日大蔵省達第118号「各地の風習旧習を私法と為す等申禁(しんきん、禁止)解禁の條件」において「人民所持の耕地畦際へ擅(ほしいまま)に遺骸を埋葬致し候者有之趣以の外(もってのほか)の事に候自今可為厳禁事」と指令している。前田俊一郎「両墓制の誕生とその後」(常民文化19、1996年)脚注4
  3. この点につき柳田は「大昔に於て既に火葬の式を承認したのみならず、更に時代と共に漸次民間に普及して來た」ばかりか「墓地が寺院の管理に属するやうになつてからも、始終無造作に過ぎたる(墓地の)更新が行はれ、都府では殊に度々の区画整理があつて、移し動かし又取潰すことを、何とも思はぬ者が多かつた」のは「家の名を重んじ先祖の祭を大切にした日本人の気風と、或は両立せぬ様にも考へられる」が「昔の葬法の簡略であつたことは事実で」あり「祖霊の信仰、家の固有の宗教と如何様に調和して来たか」が不明であると述べる。柳田「墓制の沿革に就いて(六)」
  4. 青空文庫「墓制の沿革に就いて」
  5. 小学館日本大百科事典(ニッポニカ)「両墓制」小島瓔禮
  6. 金田久璋「樹木葬とニソの杜」(『葬儀と墓の現在』吉川弘文館、2002)、直接の引用は川添善行「両墓制集落における祭祀と埋葬の空間論」(景観・デザイン研究講演集、2010.12)、P.P.54-55
  7. 前田俊一郎「両墓制の誕生とその後」(常民文化19、1996年)
  8. 岩野邦康「民俗学は死をどのように対象としてきたか」(国立歴史民俗博物館研究報告、2001.3)
  9. ただし、柳田も昭和20年の『先祖の話』の中では、「両墓制」という言葉を使っている。
  10. 大間知篤三「両墓制の資料」(『山村生活調査第二報告書』、昭和11年)の「一 両墓制前書」に定義がある。
  11. 阪南市教育委員会>文化財あれこれ>両墓制
  12. 平凡社改訂新版世界大百科事典「両墓制」田中久夫
  13. この用語は柳田「墓制の沿革」で中国地方の呼称として紹介されている。元は僧侶が中にこもって死者の冥福を祈るために、墓の近くに設ける堂を仏語で「三昧場(さんまいば)」と言い、これが転じて墓所や葬場を呼ぶものとなったという。コトバンク「三昧場」
  14. 柳田は「乱塔場」と記し、三昧と同様に埋め墓の呼称と記す。一方で「卵塔」とは一般に無縫塔の別称であり、僧侶(特に禅宗)の墓所に使用される石塔を指す。コトバンク「卵塔」
  15. 平凡社改訂新版世界大百科事典「両墓制」田中久夫
  16. 『都道府県別日本の民俗分布地図集成』より。1973年~1983年の都道府県別に代表的な集落を選んで行った民俗調査に基づく。ただし、一部、両墓制及び葬制の調査項目がない府県がある。
  17. 佐久市志編纂委員会編纂『佐久市志 民俗編 上』佐久市志刊行会、1990年、827 - 828ページ。

参考文献

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  • 大間知篤三 「増補 両墓制の資料」『葬送墓制研究集成』、第4巻、墓の習俗、名著出版、1979年(「両墓制の資料」の初出は『山村生活調査第二回報告書』、1936年)
  • 柳田國男 「先祖の話」『柳田國男全集』15巻、筑摩書房、1998年(「先祖の話」の初出は1945年)
  • 柳田國男 「葬制の沿革について」『定本 柳田國男集』15巻、所収 筑摩書房、1969年(初出は『人類学雑誌』500号、1929年)
  • 最上孝敬編『葬送墓制研究集成』第4巻、墓の習俗、名著出版、1979年
  • 最上孝敬 『詣り墓』、名著出版、1980年
  • 新谷尚紀 『両墓制と他界観』、吉川弘文館、1991年

関連項目

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