上黒岩岩陰遺跡

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上黒岩岩陰遺跡出土の女神像を刻んだ線刻礫のひとつ

上黒岩岩陰遺跡(かみくろいわいわかげいせき)は、愛媛県久万高原町(発見当時は美川村)で1961年に発見された縄文時代早期を中心とする岩陰遺跡である。国の史跡に指定されている。

立地[編集]

石鎚山の西南麓に源を発する面河渓久万川と合流する御三戸から、久万川を約3キロメートルさかのぼった右岸の河岸段丘上に立地する。高さ30メートルの石灰岩が露出した岩陰にあり、遺跡の中心は岩壁の両北端から西南側面である。

遺跡概要[編集]

上黒岩岩陰遺跡考古館

1961年に近在の中学生によって発見されて一躍有名になった遺跡である。発見以来1970年まで、5次にわたって発掘調査が実施された。その結果、第1層から第9層まで遺物が包含されており、縄文時代草創期から縄文時代後期までの1万年近くにわたって使用されてきた岩陰であったことが判明した。1962年(昭和37年)10月の調査で、とくに第4層からは縄文時代早期の埋葬人骨[1]。また、1962年(昭和37年)8月には日本考古学協会洞穴遺跡特別調査委員会(江坂輝弥等)による調査が行われ、第14層までの掘り下げ、第9層からは、縄文時代草創期の細隆起線文土器、有舌尖頭器、矢柄研磨器、削器、礫器、緑泥片岩製の礫石に線刻した岩版7個などが一括して出土している。

年代測定では6層が1万7000±300B.P.、11層が1万2165±600B.P.。

注目される遺物としては、(1) 投槍の刺さった腰骨や、(2) 女神像線刻礫がある[2]。(1) は、1969年に発見され、当時は縄文時代早期の男性の骨とされていたが、のちの報告書によれば、経産婦の腰骨で、生前かまたは死後まもなく刺突されたものであろうという。同様の傷が他にもあり、死後儀礼の可能性もあるという。(2) の「ヴィーナス像」とも称される女神像線刻礫は、鋭利な剥片石器を用いて女性像を礫に描いたとされるもので、信仰の対象だった可能性が指摘されている。この種の像が出土したのは日本では上黒岩岩陰遺跡が初めてであった。同じ土層からはおよそ1万4千5百年前の、発見当時としては世界最古級の土器片も出土した。

動物遺体ではニホンジカイノシシを主体にカモシカニホンザルアナグマタヌキニホンオオカミオオヤマネコニホンカワウソイタチツキノワグマウサギムササビネズミなど多様な種が出土しており、骨髄を利用した解体痕も見られる。家畜では埋葬事例とされるイヌ縄文犬)の出土が特筆される。

また、遺跡からはカワニナが大量に出土しており、食用とする説のほか自然堆積や新しい年代のものが混入した可能性が考えられている。

遺跡の保存と史跡指定[編集]

1962年(昭和37年)11月に県史跡に指定され、1964年(昭和39年)に美川村(当時)が遺跡の範囲379.6平方メートルの土地を公有化した。 1971年昭和46年)5月27日、国の史跡に指定された。出土品は上黒岩岩陰遺跡考古館に展示されている。なお、岩陰内の遺物包含層は科学的処理により固められて保存されており、断面観察を可能とする措置がとられている。

アクセス[編集]

乗用車[編集]

国道33号線沿いの側道に考古館が位置する。松山市役所より約80分、久万高原町役場より約10分。

バス[編集]

久万高原町の中心部からJR四国バスが1日9本、伊予鉄南予バスが1日7本運行している。JR四国バスは松山市内より直通運転。

脚注[編集]

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  1. ^ 幼児・成人・男女の人骨11体)が20体を越えて出土しており、これは、石灰岩質が土壌を中和したためにカルシウム分が溶け出さずに保存された結果と考えられる。薄手無文土器・石鏃
  2. ^ 扁平・小形な河原石に線刻で乳房と腰蓑状の表現を加えた線刻礫で、その礫全体で、豊かな乳房を中心とした女性像を描き出している。日本で最古の「ひとがた」像といわれている。原田昌幸「縄文世界の土偶造形とその展開」225-226頁(佐原真、ウェルナー・シュタインハウス監修、独立行政法人文化財研究所編集『日本の考古学』学生社 2007年4月)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯33度37分4.2秒 東経132度57分39.1秒 / 北緯33.617833度 東経132.960861度 / 33.617833; 132.960861