上野清章

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
上野清章
(伊藤清章)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福岡県
生年月日 (1950-02-07) 1950年2月7日(69歳)[1]
身長 160.0cm
体重 52.0kg
血液型 B型
騎手情報
所属団体 日本中央競馬会 (JRA)
所属厩舎 栗東・梶与三男(1969 - 1974)
栗東・伊藤修司(1974 - 1984)
栗東・フリー(1984 - 1995)
栗東・西橋豊治(1995 - 1996)
栗東・浅見国一(1996 - 1997)
栗東・フリー(1997 - 1998)
初免許年 1969年3月1日
免許区分 平地(初期は障害免許も保持)
騎手引退日 1998年1月20日
1998年1月10日(最終騎乗)
重賞勝利 32勝
G1級勝利 4勝
通算勝利 5390戦561勝[2]
テンプレートを表示

上野 清章(うえの きよあき、1950年2月7日 - )は、福岡県出身の元騎手調教助手1975年から1987年までは婚姻により姓名を変更し「伊藤 清章」(いとう きよあき)を名乗った。同じく元騎手の久保(古賀)敏文とは遠戚にあたる[3]

来歴[編集]

1969年3月に騎手免許を取得し、栗東・梶与三男厩舎からデビュー。同期には楠孝志須貝四郎田村正光内田国夫西浦勝一がいる。初騎乗は同1日中京第1競走4歳未勝利・ヒヨシエース(17頭中13着)、6月7日京都第1競走アラブ系3歳・ヒヨシプリンスであった。1年目は8勝(平地7勝・障害1勝)をマークし、新人では楠の26勝、田村の25勝、須貝の11勝に続く成績であった。2年目の1970年は28勝と勝ち星を増やしたほか、初勝利時のパートナー・ヒヨシプリンスでタマツバキ記念(秋)を制して重賞初制覇を達成。1973年には阪神障害ステークス(秋)カネロンドで重賞2勝目を挙げ、本格化前のグランドマーチスを6着に下している。1974年伊藤修司厩舎へ移籍すると、翌1975年には修司の娘と結婚し、姓を「上野」から「伊藤」に変更。同年からは平地での騎乗に専念し、伊藤厩舎の主戦騎手として活躍馬の手綱を任され、重賞5勝を挙げた1977年には優秀騎手賞を受賞。5勝中3勝はインターグシケンラブリトウショウと共に「関西3羽ガラス」といわれたバンブトンコートで挙げたものであり、函館3歳Sデイリー杯3歳Sを連勝して挑んだ阪神3歳ステークスGI級レース初制覇を飾る。実況していた杉本清(当時・関西テレビアナウンサー)はレース後に「これが午年に送る関西の新しい星です」と謳い、関東の朝日杯3歳Sで無敗のタケデンを敗ったギャラントダンサーを抑え、その年の優駿賞最優秀3歳牡馬を受賞。1978年クラシックの最有力候補に踊り出るも、レース翌日に右前脚の剥離骨折が判明して休養を余儀なくされ、三冠の第一関門である皐月賞を回避せざるを得なくなった。東京優駿では1番人気に推されたが、終始好位を追走も直線残り1ハロンで脚が止まって4着であった。1980年には自己最多の40勝を挙げて2度目の優秀騎手賞を受賞し、「華麗なる一族」の血脈であるイットーの仔であるハギノトップレディ桜花賞を逃げ切り、GI級レース2勝目・八大競走初制覇を達成。エリザベス女王杯も逃げ切って牝馬二冠を達成し、その年の最優秀4歳牝馬を受賞。シルクスキーとのコンビでは京都大賞典を強烈な末脚で差し切り、目黒記念(秋)ではカツラノハイセイコの2着に粘る。前年のオークス馬・アグネスレディーと共に最優秀4歳以上牝馬の最有力候補となり、9年ごとに牝馬が優勝するという奇妙な周期があった第82回天皇賞ではその周期を継承するのではと3番人気に抜擢される。レースでは同じく牝馬でも11頭中8番人気と忘れられた存在であったプリテイキャストの大逃げを許し、後方から動けず10着と大敗。最優秀4歳以上牝馬もプリテイキャストに100票以上の差を付けられ、選出されなかった。1982年からはハギノトップレディの弟・ハギノカムイオーとのコンビで活躍するが、クラシックは皐月賞16着、ダービー断念、菊花賞15着と惨敗に終わる。1983年スワンステークスで母・イットーとの親子制覇、宝塚記念で単騎逃げを打って日本レコード勝ち、高松宮杯はスワンSに次ぐ親子制覇、ハギノトップレディとの姉弟制覇を成し遂げる。1984年からはフリーとなり、ニシノライデンとのコンビで京都新聞杯を制し、菊花賞ではシンボリルドルフを負かしに行く競馬で見せ場を作っての3着と健闘。数々の活躍馬に跨がって安定した成績を挙げていたが、私生活では妻と不和になり、1987年に離婚。これが主因となって義父であった修司とも縁を切る形となり、姓名も旧姓に戻す[4]。絶縁を機に成績も落ち始め、1988年中日新聞杯トキノオリエントが最後の重賞勝利となる。1991年には5勝と2桁勝利が21年連続でストップし、1992年から1994年は3年連続2桁で10勝台をマーク。1995年からは西橋豊治厩舎所属となり、1996年には浅見国一厩舎に移籍。1997年には再度フリー騎手となったが、8勝→3勝→3勝と成績は低迷。1997年11月9日福島第2競走4歳未勝利・マンジュデンリッチが最後の勝利、1998年1月10日の京都第2競走4歳未勝利・レインボーナイトが最終騎乗となり、同年1月20日付で現役を引退[2]

引退後は須貝彦三厩舎の調教助手として活躍した[2]

騎手通算成績[編集]

通算成績 1着 2着 3着 4着以下 騎乗回数 勝率 連対率
平地 537 472 359 3878 5246 .102 .192
障害 24 22 16 82 144 .167 .319
561 494 375 3960 5390 .104 .196

主な騎乗馬[編集]

太字は旧八大競走を含むGI級レース。

脚注[編集]

  1. ^ 競馬 - 上野 清章 - スポーツナビ”. スポーツナビ. 2015年6月7日閲覧。
  2. ^ a b c ニュースぷらざ”. ケイバブック. 2015年6月7日閲覧。
  3. ^ 上野は久保の父の姉の孫であるため。
  4. ^ 上野は後に別の女性と再婚したが、引き続き上野姓のままである。