上村雅之

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うえむら まさゆき
上村 雅之
生誕 (1943-06-20) 1943年6月20日(77歳)
日本の旗東京都杉並区[1]
出身校 千葉工業大学
職業 立命館大学大学院教授
任天堂 統合開発本部アドバイザー
元製造本部開発第二部部長

上村 雅之(うえむら まさゆき、1943年6月20日 - )は、日本の技術者

任天堂開発第二部部長としてファミリーコンピュータスーパーファミコンなどの開発に携わり、現在、任天堂統合開発本部アドバイザー。2003年から立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。東京都出身。

経歴[編集]

子供の頃はラジオ少年だったが、小学校高学年の頃にテレビという新メディアが登場して心奪われる。テレビ技術者を志し、1967年に千葉工業大学電子工学部電子工学科を卒業し、早川電機(現・シャープ)に入社[1]電子回路の技術者を志しての入社だったが、「これからはコンピュータや半導体の時代だ」といわれ、コンピュータや半導体の技術者としてキャリアを積み始める[1]

太陽電池の開発を手がけていた際に、当時の取引先の一つに『光線銃シリーズ』を手掛けていた任天堂があり[2]、1971年に任天堂に引き抜かれる形で入社(当時、シャープから海外転勤[3]や奈良県天理市への転勤[4]の話があり、任天堂では転勤がない事も決め手の一因となったと語っている)[1]。『光線銃シリーズ』の延長線上で生まれた「任天堂レジャーシステム」のゲーム機開発、据え置き型ゲーム機『カラーテレビゲーム15』などの開発に携わり、1979年に新設された製造本部開発第二部部長となる。

1981年にファミコンの開発責任者となり、開発に着手。開発コスト削減や発売後の初期不良など多くの問題を解決し、ファミコンを大ヒットさせることに成功する。その後、ファミリーコンピュータ ディスクシステムスーパーファミコンなどの開発に携わった。サテラビューでは開発の他にも、衛星放送事業部部長も務めた。この際、独自にテレビ研究を深め、任天堂の「テレビを敵に回さない路線」を生み出した。この路線はその後の任天堂のゲームハード設計に強い影響を与えている。

しかし、サテラビューは予定していた結果を出す事は出来ず、また、スーパーファミコンの開発を多くの人の反対(社外の人からもビデオでソニーだけが儲かる条件を突きつけてきて他社がVHSに乗り換えた経緯もあり、ソニーとの提携は要注意を助言されていた)を押し切ってソニーとの提携を推し進めた結果、その後、問題となり、当時の山内溥社長の判断で以降の「Nintendo64」や「NINTENDO GAMECUBE」の開発にはかかわっていない。

2003年、立命館大学大学院先端総合学術研究科教授に就任し、コンピュータゲームの学術的研究に尽力。その成果はCEDECなどで報告されている。2009年より、同大学映像学部において「遊びの映像化」をテーマとしたゼミナール(上村・尾鼻ゼミ、通称UOゼミ)を開講し、後進の育成にも尽力している。(ただし同ゼミ自体は〜2014)

著作[編集]

著書
  • 上村雅之、細井浩一、中村彰憲『ファミコンとその時代』エヌティティ出版、2013年6月。ISBN 978-4757170469
解説

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d 上村雅之 「ファミコン生みの親」、大学教授に | 時事用語事典 | 情報・知識&オピニオン imidas - イミダス”. 情報・知識&オピニオン imidas. 2020年4月20日閲覧。
  2. ^ 【任天堂「ファミコン」はこうして生まれた】第4回:携帯型ゲーム機を発想”. 日経BP. 2008年10月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年10月6日閲覧。
  3. ^ 上村雅之さん 大いに語る。 ファミリーコンピュータ インタビュー(後編)(2013年10月号より)”. www.ndw.jp. アンビット. 2020年4月20日閲覧。
  4. ^ 相田洋; 大墻敦 (1997-01-20). 新・電子立国〈4〉ビデオゲーム・巨富の攻防. 日本放送出版協会. p. 268 

外部リンク[編集]