上信電気鉄道デキ1形電気機関車
上信電気鉄道デキ1形電気機関車 | |
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デキ1とデキ3(下仁田駅 2007年10月20日) | |
基本情報 | |
運用者 | 上信電鉄 |
製造所 | シーメンス・シュッケルト (車体はM.A.N社製) |
製造年 | 1924年 |
製造数 | 3両 |
主要諸元 | |
軸配置 | B - B |
軌間 | 1,067 mm |
電気方式 |
直流1,500V (架空電車線方式) |
全長 | 9,180 mm[1] |
全幅 | 2,657 mm[1] |
全高 | 3,874 mm[1] |
機関車重量 | 34.5 t[1] |
台車 | 板台枠 |
動力伝達方式 | 1段歯車減速吊り掛け式 |
主電動機 | 直流直巻電動機 DJ11B[1]×4基 |
主電動機出力 | 50 kW(一時間定格) |
歯車比 | 77:16(4.813)[1] |
制御方式 | 抵抗制御・直並列2段組合せ制御 |
制御装置 | 総括複式シーメンスCIB10064A[1] |
制動装置 | NAB-A形 (空気ブレーキ・手ブレーキ) |
保安装置 | ATS(改造後) |
定格速度 | 23.3 km/h[1] |
定格出力 | 200 kW |
定格引張力 | 3,087 kgf[1] |
備考 |
上信電気鉄道デキ1形電気機関車(じょうしんでんきてつどうデキ1がたでんききかんしゃ)は、1924年(大正13年)に上信電気鉄道(現 上信電鉄)が導入した電気機関車である。
概要[編集]
1924年(大正13年)、上信線が改軌・電化した際に、3両(デキ1・デキ2・デキ3)をドイツのシーメンスシュケルト社から購入した。小型の凸型機で機械(車体)部分の製造者はM.A.N社。価格は当時の金額で36,990円。1986年(昭和61年)にはエバーグリーン賞(鉄道友の会)を受賞し、鉄道ファンの間では「上州のシーラカンス」の異名をとる。
構造[編集]
車体[編集]
全長9.180mmの凸型車体を持つ。 多くの凸型機とは異なり、車体下部に露出した側梁は妻面も側面も同一の太さであり、横幅を狭められたデザインが多い機械室(前後ボンネット)部分も運転室部分と同様の幅であるため側面は基本的に平坦なデザインとなっている[2]。 屋根は単一の曲線を描いており、これも他社の凸型機と異なる[2]。これらの特徴は当時のシーメンス社製の電気機関車に共通のものとされ、本機と同じく1924年製でより小型のB型機である尾西鉄道(名古屋鉄道尾西線の前身事業者)が導入したEL1形電気機関車にも通じる[2]。 また、左右片方の側面には6枚の機器点検蓋を備えるが、デキ1とデキ2・デキ3では付いている面が逆になっている。
主要機器[編集]
電装品にはいずれも同時に導入した旅客用電車のデハ1形と同一のものを用いている。
主電動機にはシーメンス製DJ11B電動機[注釈 1]を4基搭載する。主制御器は総括制御が可能で間接式のシーメンス製CIB10064Aである。ブレーキ装置は空気ブレーキと手ブレーキを備え、ドイツのクノールブレムゼ社製である[3]。台車は電車とは異なり、シーメンス製の板台枠のものを採用し、車輪径は電車用のものよりも大きい900mmとされた[1]。 集電装置もやはりシーメンス製で一枚のカーボンスライダーを用いた大型のパンタグラフを採用した。
運用[編集]
当初より貨物列車の牽引に使用されたほか、1950年(昭和25年)からは日本国有鉄道(国鉄)高崎線から旧型客車を用いた臨時列車の直通運転が開始され、1961年(昭和36年)に国鉄80系電車によって置き換えられるまでこの列車の上信線内の牽引にも使用された[4]。貨物輸送全盛期には、石炭や薪炭、木材、繭、こんにゃく等々の輸送に用いられた。これらの列車は昼時に運行することが多く、沿線住民からは「オメシレッシャ」と呼ばれて親しまれていたが、1994年(平成6年)10月1日の貨物輸送廃止に伴い、翌1995年(平成7年)3月にデキ2が廃車された。デキ1とデキ3は貨物輸送廃止後、2017年現在も車籍を有するが、定期運用はなく、工事列車や臨時列車などに使用されることがある。
砂箱の撤去と前照灯位置の変更、パンタグラフの交換、およびATS関連装備の搭載がなされているが、外観に関しては大正年間の輸入当時と比べても大きな改変はほとんどない。
2007年(平成19年)3月12日、下仁田 - 赤津信号所間で線路沈下が原因と見られる脱線事故が発生[5]し、その際に受けた損傷が原因でながらく補修待ちとなっていたが、2011年度の群馬デスティネーションキャンペーンに向けた修復が2010年末から行われ、2011年4月に完了した。
デキ3の側面に取り付けられている製造銘板。シーメンス社のシリアルナンバーが記載されている
(2009年11月8日)
本形式導入の経緯について[編集]
大正から昭和初期にかけての日本の各鉄道会社では、英米製の電気機関車や設備が主流だったが、上信電鉄ではドイツ製が多かった。第一次大戦の戦時賠償として、ドイツから日本へ優秀な鉄道機材、設備が譲渡されることになったが、群馬県出身の政治家桜井伊兵衛の運動により、上信電鉄はそれらの多くを譲り受けることができたからである。譲渡が円滑に進んだ裏には、当時滞独中であった井上工業の井上房一郎による仲介と、シーメンス社による日本市場開拓という目論見もあった。こうした流れの中、福島変電所の回転変流機など主要電気機器はドイツに発注され、本形式もまた同様に輸入されることとなった[6]。
保存[編集]
関連項目[編集]
- 他社のシーメンス製輸入電気機関車。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ a b c d e f g h i j 『鉄道ピクトリアル』別冊33号 p.41
- ^ a b c 『鉄道ファン』通巻169号 p.49
- ^ 『鉄道ファン』通巻169号 p.50
- ^ 『鉄道ピクトリアル』別冊33号 p.36
- ^ RA2007-7 鉄道事故調査報告書- 国土交通省 2007年10月26日
- ^ 『上信電鉄百年史』
参考文献[編集]
- 吉川文夫「上信のシーメンス」、『鉄道ファン』169号(1975年5月号)、交友社 pp. 48-50
- 柴田 重利「上信電気鉄道」、『鉄道ピクトリアルアーカイブスセレクション』33号(2016年3月別冊)、鉄道図書刊行会 pp. 34-43
外部リンク[編集]
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