三田村甚三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
三田村 甚三郎
みたむら じんざぶろう
Mitamura Jinzaburo.jpg
生年月日 1867年11月7日
出生地 日本の旗 日本福井県越前市あおば町
没年月日 (1934-02-13) 1934年2月13日(66歳没)
死没地 石川県加賀市片山津
出身校 東京専門学校(現・早稲田大学
前職 実業家
所属政党立憲国民党→)
立憲同志会→)
憲政会→)
立憲民政党
称号 藍綬褒章
テンプレートを表示

三田村 甚三郎(みたむら じんざぶろう、1867年11月7日慶応3年10月12日[1]) - 1934年昭和9年)2月13日)は、福井県武生市(現越前市)出身の日本実業家政治家

略歴[編集]

越前市越前府中(現越前市あおば町)でも有数の打刃物問屋に長男として出生。福井県立福井中学校(現福井県立藤島高等学校)を経て、東京専門学校(現早稲田大学)に入学し政治学を学ぶ。

福井新聞、有限責任信用組合武生金庫(現武生信用金庫)、武岡軽便鉄道株式会社(福井鉄道南越線)を設立。

福井県会議員を歴任後、衆議院議員に二期当選(1898-1902、1930-32)18年間無報酬で武生町長を務める。武生町の近代化に一生を捧げたことから「近代武生の父」と呼ばれた。

なお、姉川の戦いの舞台となった小谷城の支城三田村城は三田村家ゆかりの地である。

年譜[編集]

人物[編集]

  • 書画、謡曲、俳諧に通じており、文化人を自宅に招き句会を催していた形跡が見られる。角田竹冷室積徂春らに師事し、 「黄雲」と号する俳人であった。石川県片山津の旅宿で詠んだ「鴨鳴いて 落日寒き 湖畔かな」は辞世の句。
  • 人の繋がりを非常に大切にし、物事をスムースにまとめる能力に長けていたことから、中央でも地方でも取り纏め役的な存在であったと伝えられている。三田村の書簡からは、政治家、文化人、学者との幅広い交流が伺える。政治家の中には、鳩山和夫犬養毅尾崎行雄をはじめ、対立していた自由党系の杉田定一山本条太郎といった福井県の国会議員や歴代の福井県知事経験者も含まれる。特に犬養毅は三田村宛書簡の中で繰り返し総選挙への立候補を要請し、支部解散後も一議席を確保しようと懇請し続けていた。越前に縁のある人物の中では松平康荘関義臣土肥慶蔵と懇意にしていた。大隈家との関係は深く、1913年大隈重信総長による北陸巡回に際し招致発起人となっている。早稲田大学評議員・校友会福井県支部の重鎮として活動した。
  • 教育者としての功績が大きく、福井県会議員時代には設置場所で紛糾していた武生尋常中学校(現福井県立武生高等学校)問題に建議し、郷里武生町への設立を実現し、武生町長時代には武生町立図書館を開設し、自らの所蔵約二千余冊を寄付した。とりわけ女子教育に熱心で、当時の県知事である阪本釤之助に女学校設立を度々陳情し、武生町立武生女子実業学校(現福井県立武生高等学校)の創立を実現した。三田村の訴えに賛同し、多額の金、土地を町に寄付した有力者もいたという。30年間南条郡教育会長として地域教育活動を指導し、教育の普及に尽力した。
  • 武生町長時代には、武生大火からの復興、高等女学校の創設、街区の整備拡張、町役場の改築、武生町立図書館の建設、公会堂(現武生公会堂記念館)の建設推進などを手掛け、現在の越前市の礎を作った。福井県町村長会を組織し地方自治制度の発展に尽力したため、自治功労者として表彰され昭和天皇に二度拝謁している。藍綬褒章受章。

脚注[編集]

  1. ^ 衆議院『第五十八回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1930年、23頁。

参考文献[編集]

  • 『福井県史』
  • 『武生市史』
  • 『武生郷友会誌』
  • 『早稲田大学史紀要』(第三十九巻)
  • 『三田村甚三郎関係文書』(全五巻)
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。

外部リンク[編集]