コンテンツにスキップ

三吉隆亮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
三吉 隆亮
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 大永3年(1523年[注釈 1]
死没 天正16年5月16日1588年6月9日[9]
戒名 峻功院陽厳常慶[9][10]
墓所 三吉家墓所(広島県三次市畠敷町[9]
官位 式部少輔[10]安房守[10]
主君 大内義隆毛利隆元輝元
氏族 藤姓三吉氏[11]
父母 父:三吉致高[11]
兄弟 隆亮粟屋隆信三吉氏毛利元就継室)?、女(江田隆連室)[12]
広高[10]隆信[10]隆勝[10]隆俊[10]式部卿[10]
テンプレートを表示

三吉 隆亮(みよし たかすけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将備後国三次郡三吉郷[注釈 2]比叡尾山城を本拠とする国人三吉氏の当主。はじめは大内氏に属し、後に毛利氏に属する。

生涯

[編集]

前半生

[編集]

大永3年(1523年[注釈 1][4][2][1]備後国三次郡三吉郷[注釈 2]比叡尾山城を本拠とする国人である三吉氏の当主・三吉致高の子として生まれる[11]大内義隆から「隆」の偏諱を与えられ、隆亮と名乗った。

天文17年(1548年)、父・致高と共に武運長久や子孫繁昌などを祈念して三吉郷の熊野神社の社殿造立を決定[13][14]。同年7月9日釿始めを行い、10月2日棟上げを行った[注釈 3][13][14]

毛利氏服属

[編集]

天文22年(1553年4月3日、備後国三谿郡三若旗返城主・江田隆連が大内方から離反して尼子方に転じたことが発覚すると、その日のうちに父の致高と共に毛利元就・隆元父子に面会し、忠勤を誓約する起請文[注釈 4]を提出して毛利氏に帰属した[15][16]。さらに、同年5月24日には毛利氏の本拠である吉田人質も送っている[17][18]。なお、三吉氏が毛利氏に属する以前から、一族の女性もしくは隆亮の妹である三吉氏毛利元就の継室となっており、天文21年(1552年)に元就の五男・毛利元秋、天文24年(1555年)に六男・出羽元倶永禄3年(1560年)に八男・末次元康を生んでいる。また、三吉氏は天文年間末には備後国で6000余石を領したとされる[15]

天文23年(1554年10月12日、父・致高と共に高杉神社の神主職を祝広縄(善兵衛尉)に安堵する[19][20]

弘治2年(1556年)2月、父・致高と共に熊野神社に銅板柱金具を寄進し、東柱に隆亮の銘がある金具を取り付け、西柱に致高の銘がある金具を取り付けている[1][2][21]。なお、隆亮の銘がある金具には携わった者として銀細工三上二郎左衛門内藤源四郎社家東亮家奉行屋葺内蔵助の銘がある[1][2]

三吉氏当主

[編集]

弘治2年(1556年)以降、父・致高が史料に現れなくなり、この頃に致高は隠居、または、死去して、隆亮が三吉氏の当主となったと考えられる。

弘治3年(1557年9月10日、祈念の儀のために厳島大願寺に対して安芸国佐東郡向原郷の内の3貫文の畠地1町を寄進することを三吉氏家臣の奉行人である徳能久永に命じ[22][23]、徳能久永は内藤内蔵丞を使者として大願寺に派遣して寄進地の引渡しのために大願寺から使者を派遣することを要請した[22][24]

同年12月2日毛利元就隆元父子と毛利氏に属する備後国の諸領主が連名で乱暴狼藉を行った兵に対する処罰や勝手な陣払いの禁止を誓約した傘連判状形式の起請文に「三吉式部少輔隆亮」と署名している[注釈 5][25]

永禄2年(1559年)に備中国へ出陣し、同年5月9日に毛利元就・隆元父子は粟屋元堅を使者として隆亮に礼を述べる書状を送っている[26]

永禄4年(1561年10月4日付けの厳島神社大鳥居棟札写では、毛利氏一門、安芸国や備後国の国人、毛利氏家臣の順で名前が並んでいるが、毛利元就、毛利隆元、小早川隆景吉川元春に次いで「備州 三吉式部少輔 隆亮」と署名している[注釈 6][27][28]。同年11月には嫡男の広高と共に息災延命と武運長久を祈念して熊野神社に17日間参籠し連歌を1000句連ねた[1][3]

永禄5年(1562年)には尼子氏と戦うため石見国出雲国に出陣しており、同年7月28日に毛利元就らが出雲国飯石郡赤穴に進軍したのに続いて、翌7月29日に隆亮も赤穴に陣を進めている[29]。また、同日には竺雲恵心に宛てて、石見国や出雲国の情勢等を伝える書状を送っている[29]

輝元時代

[編集]

元就死去後の元亀4年(1573年4月10日には、嫡男の広高と共に、元就・隆元以来の盟約を確認する起請文を毛利輝元と交わしており[30]、毛利氏に属した後も自立的な性格を有していた[15]

天正3年(1575年5月21日備中兵乱三村元親の籠もる備中松山城を攻撃している小早川隆景と福原貞俊は隆亮・広高父子に書状を送り、三村家臣の竹井宗左衛門尉三村兵部丞三村助左衛門尉らを調略で寝返らせて備中松山城の天神丸を奪取したことを報告[31][32]。翌5月22日申の刻に書状を受け取った隆亮・広高父子は即日に小早川隆景と福原貞俊に対して優勢の戦況を祝う返書を送り[31][32]、同日に備中松山城は陥落した。

天正8年(1580年)7月、嫡男の広高と共に武運長久、息災延命、子孫繁昌、富貴自在を祈念して三吉郷の熊野神社の社殿の葺き替えと廊下の建立を行った[注釈 7][4][5]。同年10月、熊野神社に笠部亮久遠藤神介が製作した銅製の吊り燈籠を寄進した[33][34]

天正10年(1582年12月10日、嫡男の広高と共に息災延命と心身堅固を祈念した阿弥陀如来の木像と、息災安穏、心身堅固、武運長久、息災延命、子孫繁昌を祈念した薬師如来の木像を安芸国高田郡粟屋郷[注釈 8]大鳴戸神社にを奉納する[6][7][8]

晩年

[編集]

隆亮や広高は高野山金剛峯寺小坂坊と書状のやり取りを行っており、年不詳であるが、隆亮は家臣の祝亮俊取次として小坂坊に逆修(生前供養)の相談を行っている[35][36][37]

天正16年(1588年5月16日に死去[9][15]享年66。嫡男の広高が後を継いだ[10]

隆亮死去の翌月の閏5月28日に広高は城福寺某を使者として高野山金剛峯寺塔頭寺院である小坂坊に書状を2通送って、前年は九州に出陣していたため書状に返事が出来なかったことを詫びて銀子1包を送ると共に[38][39]、父・隆亮の死去を報じて、内々にお頼みしているので御入魂に預かれれば本望であると伝えている[40][41]

偏諱を与えた人物

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. 1 2 隆亮の生年については、弘治2年(1556年)に隆亮が熊野神社に寄進した銅板柱金具[1][2]永禄4年(1561年)に隆亮が熊野神社に奉納した参籠掛札[1][3]天正8年(1580年)に隆亮が熊野神社の社殿の葺き替えと廊下の建立を行った際に記した棟札[4][5]、天正10年(1582年)に隆亮が造立して大鳴戸神社に奉納した木造の阿弥陀如来像と薬師如来像の墨書[6][7][8]など、複数の史料で隆亮の生年の干支が「癸未」と記されており、大永3年(1523年)が該当する。
  2. 1 2 現在の広島県三次市畠敷町
  3. 天文17年(1548年)に行われた熊野神社の社殿建立にあたっては大工熊谷直吉佐藤高信社家玉井直家鍛冶多田野亮但が務めている[13][14]
  4. この時の起請文で致高・隆亮父子が誓約した神仏は、梵天帝釈天四大天王、惣て日本国中の大小神祇、特に備後国一宮吉備津彦大明神八幡三所大菩薩梅宮
  5. この傘連判状に署名した人物は、毛利元就から時計回りに、毛利元就田総元里古志豊綱楢崎信景新見元致芥川元正湯浅元宗安田元資毛利隆元和智誠春高屋信春(馬屋原信春)柚谷元家杉原隆盛有地隆信上原豊将長元信里資(名字不明)、三吉隆亮の18名[25]
  6. 棟札に名を連ねた毛利氏の人物は、毛利元就毛利隆元小早川隆景吉川元春三吉隆亮宍戸隆家熊谷信直阿曽沼広秀天野元定平賀広相天野隆重桂元澄口羽通良赤川元保赤川元久粟屋元親国司元相児玉就忠児玉就方児玉就秋児玉元良粟屋元種岡光良赤川元秀粟屋元通渡辺就国兼重元宣佐藤元実佐武美久
  7. 天正8年(1580年)に行われた熊野神社の社殿の葺き替えと廊下の建立にあたっては、大工を佐伯七郎右衛門尉、鍛冶を多田三郎左衛門尉、社家を玉井与五郎が務めている[4][5]
  8. 現在の広島県三次市粟屋町。

出典

[編集]
  1. 1 2 3 4 5 6 広島県史 古代中世資料編4 1978, p. 1199.
  2. 1 2 3 4 『広島県史』所収「熊野神社銘文」第2号、弘治2年(1556年)2月吉日付け、銅板柱金具刻銘。
  3. 1 2 『広島県史』所収「熊野神社銘文」第5号、永禄4年(1561年)11月吉日付け、熊野社参籠掛札。
  4. 1 2 3 4 広島県史 古代中世資料編4 1978, pp. 1164–1165.
  5. 1 2 3 『広島県史』所収「熊野神社棟札」第2号、天正8年(1580年)7月吉日付け、熊野神社社殿葺替等棟札。
  6. 1 2 広島県史 古代中世資料編4 1978, p. 1201.
  7. 1 2 『広島県史』所収「鳴戸神社銘文」第2号、天正10年(1582年)12月10日付け、木造神像胎内墨書銘。
  8. 1 2 『広島県史』所収「鳴戸神社銘文」第3号、天正10年(1582年)12月10日付け、木造神像胎内墨書銘。
  9. 1 2 3 4 広島県双三郡・三次市史料総覧編修委員会 1974, p. 453.
  10. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 萩藩諸家系譜 1983, p. 782.
  11. 1 2 3 萩藩諸家系譜 1983, p. 781.
  12. 吉舎町史 上巻 1988, p. 126.
  13. 1 2 3 広島県史 古代中世資料編4 1978, pp. 1163–1164.
  14. 1 2 3 『広島県史』所収「熊野神社棟札」第1号、天文17年(1548年)10月2日付け、熊野神社社殿造立棟札。
  15. 1 2 3 4 舘鼻誠 1986, p. 281.
  16. 『毛利家文書』第223号、天文22年(1553年)4月3日付け、毛利右馬頭(元就)殿・毛利備中守(隆元)殿宛て、三吉式部少輔隆亮・三吉安房守致高連署起請文。
  17. 吉舎町史 上巻 1988, p. 123.
  18. 吉舎町史 上巻 1988, p. 365.
  19. 広島県史 古代中世資料編4 1978, p. 947.
  20. 『広島県史』所収「武田文書」第1号、天文23年(1554年)10月12日付け、祝善兵衛尉(廣繩)殿宛て、(三吉)隆亮・(三吉)致高連署宛行状。
  21. 広島県史 古代中世資料編4 1978, p. 58.
  22. 1 2 広島県史 古代中世資料編3 1978, p. 1244.
  23. 『広島県史』所収「大願寺文書」第99号、弘治3年(1557年)9月10日付け、大願寺宛て、三吉式部少輔隆亮書状。
  24. 『広島県史』所収「大願寺文書」第100号、弘治3年(1557年)9月10日付け、大願寺宛て、(徳能新兵衛尉)久永書状。
  25. 1 2 『毛利家文書』第225号、弘治3年(1557年)12月2日付け、毛利氏親類衆年寄衆幷家人連署起請文案。
  26. 『閥閲録』巻109「三吉与一右衛門」第1号、永禄2年(1559年)比定5月9日付け、三吉式部少輔(隆亮)殿 御宿所宛て、(毛利)隆元・(毛利)元就連署状。
  27. 広島県史 古代中世資料編3 1978, pp. 1257–1260.
  28. 『広島県史』所収「大願寺文書」第119号、永禄4年(1561年)10月4日付け、厳島社大鳥居棟札写。
  29. 1 2 『閥閲録遺漏』「浄専寺什書」、永禄5年(1562年)比定7月29日付け、心東堂 衣鉢閣下(竺雲恵心)宛て、(三吉)隆亮書状。
  30. 『毛利家文書』第328号、元亀4年(1573年)4月10日付け、毛利少輔太郎(輝元)殿宛て、三吉太郎廣高・三吉安房守隆亮連署起請文。
  31. 1 2 広島県史 古代中世資料編4 1978, pp. 506–507.
  32. 1 2 『広島県史』所収「三原城城壁文書」第4号、天正3年(1575年)比定5月22日付け、(小早川)隆景・(福原)貞俊宛て、(三吉)太郎廣尊・(三吉)安房守隆亮連署状。
  33. 広島県史 古代中世資料編4 1978, pp. 1198–1199.
  34. 『広島県史』所収「熊野神社銘文」第2号、天正8年(1580年)10月吉日付け、銅製釣燈籠透銘。
  35. 高野山文書 第6巻 1941, pp. 221–223.
  36. 『高野山文書』「持明院文書」第210号、年不詳5月16日付け、高野山小坂坊宛て、三吉安房守隆亮書状。
  37. 『高野山文書』「持明院文書」第211号、年不詳6月5日付け、高野山小坂坊宛て、三吉安房守隆亮書状。
  38. 高野山文書 第6巻 1941, p. 223.
  39. 『高野山文書』「持明院文書」第212号、天正16年(1588年)比定閏5月28日付け、高野山小坂坊宛て、三吉式部太輔廣高書状。
  40. 高野山文書 第6巻 1941, p. 224.
  41. 『高野山文書』「持明院文書」第213号、天正16年(1588年)比定閏5月28日付け、高野山小坂坊宛て、三吉式部太輔廣高書状。

参考文献

[編集]