三六式無線機

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三六式無線機(さんろくしきむせんき、公式名称は三六式無線電信機)とは日本海軍日露戦争当時以降使用した無線機である。三四式に次いで制式採用された日本海軍で二代目の実用無線機である。1903年(明治36年)に採用された。

採用後直ちに戦艦(「三笠」など)や巡洋艦等大型艦艇より順次搭載され、日本海海戦までに仮装巡洋艦も含む駆逐艦以上全艦艇に装備された。

開発の経緯[編集]

三四式無線電信機は70海里の通信が可能である事が確認されたが、当時の艦隊行動範囲から80海里の通信を可能にする必要があった事と、使用されていたインダクションコイルが当時の日本では量産が出来なかった為、価格や保守の観点から可能な限り国産部品のみで構成する事が望ましいと考えられ、改良が検討された。

結果として、性能面でシーメンス社のリレーを採用するといった改良が加えられた事や、調達面で安中電機製作所(現アンリツ)がインダクションコイルの国産化に成功し、200海里の通信と部品の安定供給が可能となった。

日本海海戦[編集]

1905年5月27日午前2時45分、仮装巡洋艦「信濃丸」(艦長成川揆海軍大佐)が北航する病院船「オリョール」の灯火を発見、更に接近し敵大艦隊の存在を確認、4時45分「敵艦隊ラシキ煤煙見ユ」、続けて4時50分「敵ノ第二艦隊見ユ地点二〇三」との暗号電報を送信し、この電報は戦艦「厳島」による中継を受けて連合艦隊司令部が座乗する旗艦「三笠」へ到達した[1]。これを受けて司令長官東郷平八郎大将が艦隊の出動を下命、同艦より大本営あてに「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃沈 滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」と、報告の電報を送信し[2]、戦闘が開始された。戦闘中も連合艦隊が無線電信を有効利用した事は、戦闘の有利な展開に大いに寄与した(なおロシア艦隊側では日本側の無線通信の存在は確認しており、やはり装備していた大出力の無線機で、妨害を(後年言われるいわゆるジャミングのようなことを)行ったらどうか、という具申があったが、やるな、という命令があり行われなかった、という)。

実物を忠実に復元したものが現在横須賀の記念館「三笠」無線電信室の中に展示されている。

構造[編集]

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火花送信機による送信機と、コヒーラ検波器による受信機からなる。同調装置を持たぬ為、送信電波は広帯域の雑音状であり、受信機も印字受信専用であった。このため、複数の通信を同一海域で同時に行う事は不可能であった。

後継機種[編集]

その後、日本海軍は四三式無線電信機を実用化した。これは瞬滅火花式送信機と音響受信可能な鉱石式受信機の組み合わせであり、三六式に比べて多大の性能向上を達成したものである。

関連項目[編集]

参照[編集]

  1. ^ 「極秘 明治三十七八年海戦史 第四部 防備及ひ運輸通信 巻四、第三編「通信」第三章「無線電信」」国立公文書館アジア歴史資料センター(レファレンスコード C05110109800)
  2. ^ 艦上から東京まで、無線と、当時の有線や手交の電報中継路によって中継されたわけであるから、即時に伝わったわけではない。

参考文献[編集]

  • 山本英輔他共著『五十周年記念海軍電波関係追悼集』第一号、電波関係物故者顕彰慰霊会、非売品、昭和30年10月。
  • 海軍省公文書「弓張無線電信ノ件」江口佐世保鎮守府参謀長 、明治45年1月10日~明治45年2月27日、アジア歴史資料センター
  • 海軍省公文書「城山信号所無線電信通信試験成績」、呉鎮機密第四三八号ノ一五 大正元年九月十一日 呉鎮守府参謀長野間口兼雄、アジア歴史資料センター。
  • CQ Ham Radio編集部・編『モールス通信 通信の原点=CW その魅力/運用法/歴史』CQ出版社、1998年。 ISBN 9784789810890