ヴェーザー演習作戦

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ヴェーザー演習作戦
Operation Weserübung.jpg
戦争第二次世界大戦西部戦線
年月日:1940年4月9日 - 6月10日
場所:デンマーク・ノルウェー
結果:ドイツの勝利・デンマークとノルウェーの占領
交戦勢力
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国  ノルウェー
 デンマーク 降伏
イギリスの旗 イギリス
フランスの旗 フランス共和国
指導者・指揮官
ナチス・ドイツの旗 ニコラウス・フォン・ファルケンホルスト
ナチス・ドイツの旗レオンハルト・カウピッシュ
ナチス・ドイツの旗ハンス=フェルディナント・ガイスラー
ナチス・ドイツの旗ギュンター・リュッチェンス
ナチス・ドイツの旗エデュアルト・ディートル
ノルウェーの旗 オットー・ルーゲ
ノルウェーの旗 カール・グスタフ・フライシャー
デンマークの旗 クリスチャン10世 降伏
デンマークの旗 ウィリアム・ウェイン・プライアー
戦力
120,000 60,000(ノルウェー)
14,500(デンマーク)
35,000(その他)
損害
戦死・行方不明
5,636
戦死・行方不明
6,116
第二次大戦ヨーロッパ戦線

ヴェーザー演習作戦(ヴェーザーえんしゅうさくせん、ドイツ語: Unternehmen Weserübung)は、第二次世界大戦中にナチス・ドイツが実行したノルウェーデンマークへの侵攻作戦。

概略[編集]

1940年4月9日(ヴェーザー日)早朝にドイツ軍はデンマークとノルウェーに侵攻した。侵攻部隊のノルウェー上陸予定時刻(ヴェーザー時)はドイツ時間5時15分(ノルウェー時間4時15分)と定められた。

侵攻の表向きの理由は、フランスイギリスが両国の占領を計画し公然と議論していたことに対する予防的な措置であるとされた。侵攻後、ドイツの大使はデンマークとノルウェー政府に対し、ドイツ国防軍はフランスとイギリスによる侵略から両国の中立を守るためにやってきたのだと述べた。

デンマークとノルウェーの地理や位置、気候は大きく異なっていたため、実際の軍事作戦は大きく異なったものとなった。デンマークは侵攻初日の4月9日に、クリスチャン10世とデンマーク政府は条件付で降伏した。ノルウェーは交戦を続けたが、4月29日にはホーコン7世をはじめとするノルウェー王室と政府が国外へ脱出した。5月下旬までノルウェー北部ではイギリス・フランス・カナダ・ポーランド連合遠征部隊とノルウェー軍との戦闘が続いていたが、ドイツ軍がフランス軍を破ってダンケルクに到達する状況で、連合国派遣軍のノルウェーからの撤退が決定した。撤退作戦は6月8日に完了し、ノルウェーはドイツに占領された。

政治的、軍事的背景[編集]

1939年の春からイギリス海軍本部は、将来のドイツとの紛争においてスカンジナビア半島が戦場になると考えるようになった。イギリス政府は、第一次世界大戦の繰り返しとなりかねない大陸での地上戦には乗り気ではなかった。それ故、封鎖戦略によってドイツを間接的に弱めることを検討し始めた。ドイツの重工業はスウェーデン北部の鉱山からの鉄鉱石の輸入に大きく依存していた。鉄鉱石の大部分は冬季にはノルウェー北部のナルヴィク港から船で運ばれていた[1]。ノルウェー沿岸海域をコントロール下におくことはドイツに対する封鎖を強化することにもなった。

1939年10月、ドイツの海軍総司令官エーリヒ・レーダー元帥は、ノルウェーにイギリスの基地が出来ることによる危険性や、そうなる前にドイツ軍が占領出来るかどうかということをアドルフ・ヒトラーと議論した。海軍は、ノルウェーを占領することでその周辺海域も支配下に置け、将来イギリスに対する作戦を行う潜水艦の基地として利用できると主張した[1]。しかし、その時は陸軍や空軍は興味を示さなかった。ヒトラーも北欧諸国が中立政策の維持をすれば侵攻することは当初考えておらずむしろ低地諸国への攻勢に注力するよう指示しただけであった。

11月下旬、戦時内閣の新しいメンバーになった海相ウィンストン・チャーチルがノルウェー沿岸海域への機雷敷設(ウィルフレッド作戦)を提案した。それは、ドイツの鉄鉱石輸送船が沖合いを航行せざるを得ないようにすることで、イギリス海軍によって、その航行を阻止できるようにするというものである。チャーチルの考えでは、ウィルフレッド作戦はノルウェーでのドイツ軍の反応を引き起こし、そうなった時は、連合国軍はR4計画を実行しノルウェーを占領する、というものであった。ネヴィル・チェンバレン首相やエドワード・ウッド外相はアメリカ合衆国などの中立国の間で反感が生じるおそれがあるとして、チャーチルのこの考えに反対した。 11月にソ連フィンランドとの間で冬戦争が勃発し外交状況が変化すると、チャーチルは再び機雷敷設計画を提案したが、それも却下された。

12月、イギリスとフランスは、冬戦争でソ連から攻撃を受けているフィンランドへ援助を送ることを本気で計画し始めた。その計画は、スウェーデンの鉄鉱石の主要な輸出港であるノルウェー北部のナルヴィクへ部隊を上陸させ、ナルヴィクとボスニア湾沿岸のスウェーデンルレオとを結ぶマルムバナンという鉄道をコントロール下に置くことを求めていた。この計画はチェンバレン首相とエドワード・ウッドも支持した。英仏両国は、ノルウェーとスウェーデンの協力を期待していた。しかし、ノルウェーとスウェーデンは、はっきりと拒絶したので、英仏では、否定的な意見が強くなった。遠征の計画は続けられたが、1940年3月に冬戦争が終結するとそれを正当化する理由もなくなってしまった。この計画が実施されていたなら、英仏は、ソ連と戦争することになって、第2次世界大戦のありようは、大きく変わっていただろう。

3月12日に、フィンランドがソ連と講和してしまうと、フィンランドへの援助を表明していながら、何も出来なかった英仏首脳は、批判の矢面に晒されることになった。フランスでは、3月20日にダラディエ首相が退陣して、新たに、ポール・レイノーが首相となった。チェンバレンは首相のポジションを維持できたが、批判を躱す為に、以前は慎重であったウィルフレッド作戦とR4計画を支持する立場に転換した。レイノー首相は、ノルウェーでの戦争には賛成であった。そこで、結局、4月5日に、まずウィルフレッド作戦を実施することで、両国は合意した。

計画[編集]

英仏がノルウェーの一部を占領する可能性を確信したヒトラーは、1939年12月14日にOKWに対してノルウェー侵攻計画の素案策定を始めるよう命じた。Studie Nordと名づけられたその計画は、陸軍の1個師団のみしか参加しないものであった。

1月14日から19日の間に、ドイツ海軍はその計画を拡張した。海軍は二つの重要な要素を決めた。一つ目は、北海で圧倒的に優勢なイギリス海軍との対決を避けるために奇襲が必須であること。二つ目は、低速の商船ではなくより高速な軍艦を兵員輸送に用いるということである。新しい計画では、陸軍は1個山岳兵師団、1個空挺師団、 1個装甲擲弾兵ライフル旅団、2個歩兵師団が動員されることになった。作戦目標は次の通りである。

また、計画ではデンマークとノルウェーの国王を速やかに確保することも求めていた。そうすれば両国が速やかに降伏することが期待できるからである。

1940年1月27日、最終的な計画にヴェーザー演習作戦というコードネームが付けられた。それは、XXI軍団司令部の元で第3山岳兵師団と5個歩兵師団が参加することになった。歩兵師団はどれも実戦経験がなかった。第1陣は3個師団で残りは第2陣であった。また、飛行場攻略のため空挺部隊も3個中隊投入されることとなった。さらに、後日第2山岳兵師団の投入も決定された。

1940年2月21日、ニコラウス・フォン・ファルケンホルスト歩兵大将に作戦の指揮権が与えられた。ファルケンホルストは第一次世界大戦においてフィンランドで戦っており、極地での戦いに精通していた。その日から、ファルケンホルストとXXI軍団司令部の一部の参謀、オリジナル計画の立案者で作戦計画の見直しが行われた。

3月1日に、OKWはヒトラーの署名した総統指令10a(ヴェーザー演習作戦)を発令して、それまで、OKWと作戦立案者のみであった計画を三軍に公開したが、海軍を例外として、陸軍と空軍からは相当な反発があった。ヒトラーとOKWは統一司令部の設置を望んだものの、ゲーリングが強く反対したので、ファルケンホルストは陸上部隊に対してのみ指揮権を持つことになった。

Uボートも作戦の支援にまわすため、大西洋でのUボートの作戦ほぼすべてが停止された。何隻かの訓練用のものも含め投入可能な潜水艦はすべて、ヴェーザー演習作戦支援のハルトムート(Hartmut)作戦に投入された。

最初はノルウェーには侵攻するとともに外交手段でデンマークの飛行場を確保する計画であった。だが、ヒトラーは3月1日にノルウェーとデンマーク両方に侵攻するよう指示した。それは、戦闘機基地と航空警戒所の確保を目的としたドイツ空軍の要求によるものであった。デンマーク侵攻のため、2個歩兵師団と第11装甲擲弾兵旅団からなるXVI軍団が編成された。また、約1000機からなるX航空軍団が全作戦の支援を行う予定であった。

前段階[編集]

ドイツ船アルトマルクから運び出されるドイツ人の遺体

2月16日、イギリス駆逐艦コサックが、ノルウェー領海内でドイツの補給艦アルトマルクへの臨検を行い、アルトマルクから捕虜となっていた商船乗組員を救出した(アルトマルク号事件)。それは明白なノルウェーの中立を侵害する行為であった。この事件で、ヒトラーは、イギリスはノルウェーの中立を尊重する気がなく、ノルウェーの中立維持も当てにならないことを確信し、侵攻が必要であると考えた。[1]

3月12日、イギリスはノルウェーへの遠征軍派遣を決定し、遠征部隊は3月13日に乗船を開始した。しかし、冬戦争終結によりフィンランドへの支援の必要性がなくなり作戦中止となった。代わりに、イギリス内閣はノルウェー海域への機雷敷設(ウィルフレッド作戦)を実施し、それに続いて兵員を上陸させること(R4計画)を決めた。

4月3日、ノルウェー侵攻に参加する、最初のドイツ軍侵攻部隊の艦船はドイツを出港した。

4月3日、ドイツ国防軍情報局(Abwehr)のハンス・オスター大佐は、デンマークとノルウェー侵攻が翌週であることを、ヴァチカンのコンタクトとオランダのベルリン駐在武官にリークし、デンマーク、ノルウェー、イギリスに伝えるよう依頼した。しかし、この情報は、正しい人物に伝わらなかったり、情報評価が誤ったりで、これら三国政府の動きに影響を与えることはなかった[2]

4月5日、イギリス海軍のウィルフレッド作戦が実行に移され、巡洋戦艦レナウンを含む艦隊がスコットランドから出港した。

4月6日から4月8日の間に、多数の随伴艦を伴った強力なドイツの水上部隊が、デンマークとスウェーデンの間の水道を通過するのが両国に観測された。また、バルト海沿岸のドイツ諸港での慌ただしい動きや、デンマーク・ドイツ国境での不穏な動きも観測された。ベルリン駐在スウエーデン大使は、ドイツ外務省に照会をおこなった。[2]

4月8日未明に、イギリス海軍によるベストフィヨルド南方への機雷敷設は完了したが、海中に転落した乗員の捜索に向かった駆逐艦グローウォームがドイツ海軍に捕捉され、重巡洋艦アドミラル・ヒッパーおよび駆逐艦2隻との戦闘で失われた。

4月8日、1115時にノルウェー南岸沖の国際海域で、ポーランド潜水艦オジェウによりドイツの輸送艦リオ・デ・ジャネイロが撃沈され、約100名ほどが、ノルウェー艦艇や漁船に救助されたが、生存者は制服着用のドイツの陸兵だった。ノルウェーでの訊問で、生存者は、ノルウェーの要請にもとづいてベルゲンへ行く予定だったと証言した。[2]

4月8日、イギリスとフランスのノルウェー駐在海軍武官は、ノルウェー海軍に、(中立を無視して)ノルウェー領海内に機雷敷設を行った事を通知した。

デンマーク侵攻[編集]

ドイツ軍のI号戦車。デンマークのオベンローにて、1940年4月9日。

戦略上、ドイツにとってのデンマークの重要性は、ノルウェーでの作戦の足場としてであった。そしてもちろん何らかの方法で支配下におく必要がある隣国としてでもあった。バルト海との関係でデンマークの位置を見れば、ドイツやソ連への航路の支配という点でも重要であった。

狭く比較的平坦なデンマークの国土は、ドイツ陸軍の作戦において理想的なものであった。そして、デンマークの小規模な陸軍には希望はほとんどなかった。だが、朝早く少数のデンマーク軍がドイツ軍と交戦し、16名の死者と20名の負傷者を出した。ドイツ側の死傷者数は不明であるが、12両の装甲車などが破壊され、戦車4両が損傷した。また、ドイツの爆撃機1機も損傷した。[3]短時間の戦闘の間、二人のドイツ兵が一時的にデンマーク側に捕えられた[4]

1940年4月9日の最初のドイツ軍のデンマーク侵攻の直前、ドイツの駐デンマーク大使セシル・フォン・レンテ=フィンクde:Cécil von Renthe-Fink (Diplomat))はデンマークの外務大臣en:Peter Rochegune Munchに電話をし、会談を求めた。20分の会談後、レンテ=フィンクは、フランスとイギリスの攻撃からこの国を守るため現在ドイツ軍はデンマークに向かっていると述べた。そしてレンテ=フィンクは、デンマークは抵抗をすぐに止め、デンマーク当局とドイツ軍との間で連絡を取るよう要求し、もし要求が入れられない時はドイツ空軍が首都コペンハーゲンを空襲するであろうと述べた。[4]

ドイツ軍の装甲車Sd. Kfz. 223Sd. Kfz. 222ユーラン半島にて。

ドイツの要求が伝達された時、第1陣のドイツ軍は既に進軍を開始しており、4時15分にGedserにフェリーで上陸した部隊が北へ向かっていた。降下猟兵は抵抗を受けることなくオールボーの二つの飛行場やStorstrøm橋、Masnedøの要塞を占領した。[4]

現地時間4時20分にドイツ軍の歩兵1000名が機雷敷設艦Hansestadt Danzigからコペンハーゲン港に上陸し、抵抗に会わずにthe Citadelのデンマーク軍駐屯地を素早く占領した。またデンマーク王族拘束のためドイツ軍は港からアマリエンボー宮殿へ向かった。ドイツ軍が到着した時、デンマークの近衛隊は既に警戒態勢にあり、別の増援部隊も向かっている最中であった。アマリエンボー宮殿に対するドイツ軍の最初の攻撃は撃退され、国王クリスチャン10世と大臣達は陸軍司令長官William Wain Priorと協議する時間を得られた。議論中、He111Do 17の編隊が幾つか街の上空を飛行しOPROP!ビラを投下した。コペンハーゲン市民に対する爆撃の虞に直面し、戦闘継続に賛成なのはPrior将軍だけであり、8時34分に国内のことについての政治的独立の保持を条件にクリスチャン10世とデンマーク政府はすべて降伏した。[4]

5時45分、ドイツ軍のBf 110シェラン島Værløseの飛行場を攻撃した。デンマーク軍の対空砲火にもかかわらず、ドイツ軍は11機の航空機を破壊し、14機を大破させた。[4]

デンマークの戦いは6時間未満で終わった。デンマークが素早く降伏したことで、しばらくの間は独特の寛大な占領政策がとられる事になった。

ノルウェー侵攻[編集]

戦闘序列[編集]

ノルウェー侵攻を行うのはニコラウス・フォン・ファルケンホルスト将軍指揮下の第21軍団で、以下の部隊から構成されていた。

  • 第163歩兵師団
  • 第69歩兵師団
  • 第196歩兵師団
  • 第181歩兵師団
  • 第214歩兵師団
  • 第3山岳師団所属の2個連隊

最初の侵攻部隊は海軍艦艇で運ばれた。参加した主な艦船は次の通りである。

ドイツ軍の上陸場所

ドイツ軍の作戦とノルウェー政府の対応[編集]

ニコラウス・フォン・ファルケンホルスト歩兵大将のXXI軍団傘下の部隊を海軍と空軍の援護のもとにナルヴィクトロンハイムベルゲンスタパンゲルクリスチャンサンオスロに上陸させ、一気にノルウェーを制圧するというものだった。4月6日から8日の間にリューベックキールヴィルヘルムスハーフェンを出港した陸兵を載せたドイツ海軍部隊は、4月7日と8日の夜に、デンマーク=スウェーデン間の水道を通過したが、この動きは両国に観測されており、その情報は、ノルウェー政府にも伝えられた。ドイツ軍の計画は、可能であれば、平和的に進駐することであり、ファルケンホルストは、最初の一発はドイツ側から撃ってはならないと陸軍部隊に指示していた。また、レーダー元帥も、同様に海軍部隊に対して、最初に発砲してはならず、ノルウェー軍の警告射撃は、応射する理由にはならない、と指令していた。

4月8日未明から、明らかに危機を示す多くの情報が寄せられていたにもかかわらず、ノルウェー政府は、迅速な対応が出来なかった。ようやく、4月8日が終わる頃に、ノルウェー南部に限定した部分的動員令を出すことを決めたが、総動員令がラジオ放送を含むあらゆる手段をもちいて伝達するのにくらべて、部分的動員令は郵便で伝達することになっていた。動員令の初日は、4月11日になっていた。[5]

ノルウェー政府は、軍からのドイツ軍が各地域で侵攻を始めている報告を受け、4月9日0200時頃、イギリス大使に、即時の軍事支援を要請するとともに、どのような支援が可能か、午後6時までに回答するよう要請した。[5]

ドイツ大使ブラウアーは、作戦計画で指示されていたとおりの時刻、4月9日0430時に、ノルウェー外務省の図書室にて、ノルウェー外相コートに、ドイツの最後通牒を渡した。その文書には、ノルウェーが自身の中立をイギリスから守れないため、やむを得ず、ドイツ軍は戦争の間だけノルウェーの一部を占領する。ドイツ当局の元でノルウェーの領土と主権は尊重されるが、ノルウェー政府は、放送で国民に抵抗の停止を指示し、軍備をドイツ軍に渡し、ドイツ当局と協力しなければならない。抵抗に対しては、あらゆる手段をもって対抗する、と書いてあった。ノルウェー政府閣僚は、外務省で閣議中だったが、最後通牒を検討した結果、即座に全員一致で、ドイツの要求を拒否した。ノルウェー政府と王家は、その朝、オスロより130km北のHamarへ移転することになった。[5]

イギリス・フランスの対応[編集]

4月8日に、ドイツ海軍の動きを一部、検知したイギリス海軍は、艦艇を対応させるために、すでに乗船済の陸兵は下船させR4計画は中止となった。4月9日に、ノルウェーからの緊急の軍事支援要請を受け取ったものの、ノルウェー政府・軍からの具体的な要求はなく、ノルウェー政府および英仏のオスロ駐在大使は、ドイツ軍から逃れるため移動中で連絡が取れなかった。ノルウェーからは、未確認の断片的な情報が伝わるのみで、英仏政府は、どう対応するか議論が続いたが、4月11日の終わりに、まずは、第24警護旅団と第146歩兵旅団の6個大隊相当をナルヴィクへ送る事が決まった。一方、フランスの発案で、スウェーデンに連合国側で参戦するようストックホルムを訪問した英仏連合使節団は、スウェーデン当局者から、絶対中立維持の回答を受けたが、別に、ノルウェーを救うにはトロンハイムの奪還が一番効果的である、という助言を得た。4月12日には、避難していたオスロ駐在イギリス大使とも連絡が付き、ノルウェー軍司令官ルーゲが求めているのは、やはり、トロンハイムの奪還であることが明らかになった。そこで、トロンハイムの重要性が英仏側でも認識されたが、既に計画されていたナルヴィク派兵の第一陣は、4月12日にスコットランドを出港していた。4月13日に、第2次ナルヴィク海戦の結果が伝わると、ナルヴィクの奪還は容易そうに考えられたので、イギリスの戦時内閣は方針を変更して、第146歩兵旅団を、ナムソス(トロンハイムの北北東約90km)に上陸させることにした。4月14日に、第24警護旅団はナルヴィクの北西約40kmのハーシュタに上陸した。これらの陸兵は、極地での訓練や装備を欠いており、また、R4計画の中止で急遽、下船させられた為、重装備を欠いていた。[5]

ナルヴィク[編集]

グループ1は途中までグループ2と共に航行した。途中、イギリス海軍のG級駆逐艦グローウォームを撃沈。4月9日未明にグループ1はナルヴィクのあるオフォトフィヨルドに入り、ナルヴィクなどに兵員を上陸させた。また、ナルヴィク港ではノルウェー海軍ノルゲ級海防戦艦エイスヴォルノルゲが投降要求に応じなかったので撃沈した。4月9日午前に、ナルビク地区の防衛司令官サンドロ大佐は、市民の犠牲を避けるため降伏し、ナルビク市街と重要な武器弾薬貯蔵庫のあるElvegårdsmoenは、無血でドイツ軍の手に落ちた。イギリス海軍は、オフォトフィヨルドに侵入して、4月10日未明に第1次ナルヴィク海戦、4月13日に第2次ナルヴィク海戦が発生した。この2度の海戦でグループ1のドイツ軍駆逐艦は全滅した。

トロンハイム[編集]

ベルゲン[編集]

クリスチャンサン、アーレンダール[編集]

オスロ[編集]

オスロフィヨルド

4月8日夜、グループ5はオスロフィヨルド入り口に到着した。そこでアルバトロスがノルウェーの哨戒艇ポル3を撃破した。オスロフィヨルド内に入ったグループ5は4つに別れ、オスロ、ホルテンラウエイ島ボレルネ島の攻略に向かった。オスロへはブリュッヒャー、リュッツォウ、エムデンなどが向かったが、途中のドレーバク水道でノルウェー軍の要塞から攻撃を受けブリュッヒャーが撃沈されリュッツォウも損傷したため引き返した。これによりオスロ占領が遅れ、ノルウェー政府や王族の脱出を許す結果となった。

ホルテンではノルウェーの機雷敷設艦オーラヴ・トリュグヴァソンが抵抗し、R17が失われた。

夜明け後、ドイツ空軍が攻撃を開始し、空路運ばれた部隊によってフォルネブ飛行場が確保された。各地のノルウェー軍は順次降伏した。

4月11日、オスロから帰投途中のリュッツォウがイギリス潜水艦に雷撃され損傷した。

エゲルスン[編集]

そのほかの場所[編集]

結果[編集]

ドイツ軍の侵攻後、連合国軍がナムソスやÅndalsnes、ナルヴィクに上陸し、ノルウェー軍と共にドイツ軍と戦った。しかし、4月29日にはノルウェーの国王と内閣とがモルデからトロムソへ脱出し、5月1日のÅndalsnesからの連合国軍の撤退をもってノルウェー中部での抵抗は終了した。

ホーコン7世オーラヴ王子や内閣は6月7日にイギリス重巡洋艦デヴォンシャーでトロムソを離れ、イギリスへ向かった。

北部では5月28日に、イギリス・フランス・ポーランド・ノルウェー連合軍がナルヴィクを奪回したが、フランスでの戦況悪化により連合国軍は撤退(アルファベット作戦)した。


参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c The Illustrated History of World War II. Owen Booth and John Walton. Chartwell Books, Inc. 1998. Pages 44 - 49
  2. ^ a b c Lunde 2009, §3 Ignored Warnings:Ships Passing in the Night.
  3. ^ Hooton 2007, p. 31.
  4. ^ a b c d e Gert Laursen: The German occupation of Denmark Archived 2013年10月15日, at the Wayback Machine.
  5. ^ a b c d Lunde 2009, §7 Confusion and Disarray.

外部リンク[編集]