ウェルギリウス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴェルギリウスから転送)
移動先: 案内検索
歴史悲劇の二人の詩神とウェルギリウス(3世紀のモザイク)

プーブリウス・ウェルギリウス・マーローPublius Vergilius Maro紀元前70年10月15日 - 紀元前19年9月21日)は、共和政ローマ末の内乱の時代からオクタウィアヌスの台頭に伴う帝政の確立期にその生涯を過ごしたラテン語詩人である。ラテン文学の黄金期を現出させた詩人の一人である。英語の Virgil に従って「ヴァージル」[1]とも呼ばれる。主に『牧歌』、『農耕詩』、『アエネーイス』の3つの作品によって知られる。ヨーロッパ文学史上、ラテン文学において最も重視される人物である。

略歴[編集]

生地はガリア・キサルピナのアンデスという村で、現在のヴィルジーリオ付近のアンデスという農村と考えられている。ウェルギリウスはクレモナミラノで教育を受けた後、ローマ修辞学弁論術医学天文学などを修め、その後エピクロス学派哲学を学んだ。

ガイウス・ユリウス・カエサルの暗殺後、マルクス・アントニウスオクタウィアヌスは、フィリッピの戦いマルクス・ユニウス・ブルトゥスらの勢力を破ったが、その後オクタウィアヌスは、退役軍人に農地を与えるため、イタリア各地で農地の没収を始めた。その際ウェルギリウスの農地も一時没収の憂き目に会うが、オクタウィアヌスに直訴することで、没収をまぬがれた。ガイウス・アシニウス・ポッリオの庇護を受けて、ウェルギリウスは『牧歌』を完成させる。それが、オクタウィアヌスの寵臣であったガイウス・マエケナスの目にとまり、以後その庇護を受け、詩作活動を行った。紀元前19年、50歳で没した。

生涯[編集]

1802年にパリで出版された「ウェルギリウス作品集」第1巻にある、F. Huot の版画。ウェルギリウスの名前はフランス語で Virgile と綴られている。

ウェルギリウスの伝記的事項を伝える同時代史料としては、彼の友人ルキウス・ウアリウス・ルフスラテン語版フランス語版が書いた伝記が存在したが、4世紀までには散逸してしまった。しかし、1世紀に書かれた書物、例えば、ウアレリウス英語版のウェルギリウス作品の注釈やスエトニウスが著した『ウェルギリウス伝』などに引用されるかたちで一部が残った。スエトニウスの『ウェルギリウス伝』には4世紀に、ウェルギリウス作品に重要な注釈を残した批評家として知られるマウルス・セルウィウス・ホノラトゥスアエリウス・ドナトゥスの二人による注釈が付加された。ホノラトゥスとドナトゥスの注釈がウェルギリウスの伝記的事項に関して数多くの真実を伝えていることに疑いはない。しかしながら、ウェルギリウスの詩作品に歌われた内容から現実に起きたことの寓意を見出すといった推測や恣意的な解釈もあることが指摘されている。近代的な研究手法の確立以前に書かれたウェルギリウス伝はみな、このようなホノラトゥスとドナトゥスの注釈を根拠にしているため、そこに描写された生涯の記述のすべてを鵜呑みにすることはできない。[2]

以上に述べたような問題点があることは一旦措いて、伝統的なウェルギリウス伝に基づき、詩人の生涯の記述を試みるならば、ウェルギリウスはクラッススポンペイウス執政官を務めた年(紀元前70年)にガリア・キサルピナのアンデス村に生まれた[3]。アンデス村のあった場所は、現代イタリアのロンバルディア州マントヴァ近くにあるコムーネヴィルジーリオの中心部から少し離れたところに比定されている。なお、このコムーネの名称「ヴィルジーリオ」はウェルギリウスを生誕地という誉れを示すものである。また、伝統的な伝記記述によれば、ウェルギリウスの生まれついた家門は特別富貴でもなく中流であったとされる[3]。他方で現代の古典学においては、詩人の出自が上流階級にあったと考えることが多い。母親は裕福な商人の娘、ポッラ・マジオ(Polla Magio)であり、父親のノーメンとコグノーメンは息子と同じウェルギリウス・マーロー(Vergilius Maro)であった。父親のプラエノーメンは伝わっていない[4]:1191。標準的な伝記記述によれば、父親は小地主であり、養蜂と農業と畜産で生計を立て、注意深く自分の仕事に取り組んでいた人物とされる[5]

ただし、中世ヨーロッパにおいては、父母が魔術師であった(そして詩人自身も)という説が流布していた。ラヴァンタルにあるベネディクト会修道院、聖パウロ修道院が保管する古文書、Samblasianus 86 には、記載内容をあまり信頼することはできないが、中世のウェルギリウス伝 Vita Noricensis が含まれる。これによれば「ウェルギリウスという人物はスティミションという名前の陶工とルクレティウスの妹マイアの息子である」[注釈 1]とされている。この伝説は詩人の父が魔術師であるという説を補強するためにニューエイジ思想の信奉者に受け継がれた。この魔術師というペルソナは『牧歌』第5歌55に見られるギリシア語の名詞スティミションを持つ架空の羊飼い(Bucoliques, V, 55 : iam pridem Stimichon laudauit carmina nobis)と同一視される。同詩句はラテン語で「魔術師ウェルギリウス」と読める。New-wisdom というニューエイジ系の本には「ウェルギリウスの父スティミションは魔術師であり、マギウスなる国の密使に奉仕する占星術師であった」と記載されている。なお、注釈家のほとんどがスティミションをガイウス・マエケナスのことを指すと解しているのが実際のところである[6]

伝承によると、「クラッススポンペイウスが新しい執政官であったとき、ティトゥス・ルクレティウス・カルスが世を去った日と同じ日付に、幼い男の子が純白のトーガを身にまとった」と表現される(「白いトーガを身にまとう」は通過儀礼を意味する成句)。このように伝承上はウェルギリウスと『物の本質についてフランス語版』の作者ルクレティウスとの間になにかしらの因縁があることが暗示されてきた。しかしながら、このようなサンボリスムにもかかわらず、ウェルギリウスの作品にはルクレティウスの影響よりもむしろ、ガイウス・ウァレリウス・カトゥッルスの影響のほうが強く認められる。カトゥッルスはウェルギリウスの生誕地に近いヴェローナに生まれた恋愛エレギーア詩人であるが、ウェルギリウスが彼のことを個人的に知っていたと想像する余地は充分にあると言われている。その根拠は、『牧歌』の中でウェルギリウスが当代の他の詩人たちに敬意を込めて謝辞を述べる箇所で、カトゥッルスのいる文学サークルに属したアエミリウス・マケルフランス語版(『牧歌』における羊飼いメリボイオスドイツ語版か?)、ガイウス・ヘルウィウス・ツィンナフランス語版や、ルキウス・ウアリウス・ルフスラテン語版フランス語版(のちのアエネーイスの校訂者[7])、クィントゥス・ホラティウス・フラックス(『牧歌』9行目のリュシダス(Lycidas)か?)などに言及していると読めることである。カトゥッルスとの親交については不明な点が多いが、確実に深い親交があったことが確認できるのはホラティウスである。彼はウェルギリウスのことを「わたしの魂の半分」(animae dimidium meae)と呼びかけるほどであった[8]

ホラティウスによれば、ウェルギリウスはのちに偉大な批評家となるプブリウス・クィンクティリウス・ウァルスや、ラテン文芸におけるエレギーア詩の地位を確立した詩人ガイウス・コルネリウス・ガッルスフランス語版とも、すぐに親友になった[9]。ウェルギリウスは最初にクレモナ、次いでミラノローマに遊学し[10]、最後にギリシア文化の町ナポリへ行き[5]、文学、哲学、法律、医学、マテマティカ(占星術・天文学[注釈 2])といった、さまざまな分野の学問を深く学んだ[10]。ナポリにはエピクロス派のシロン英語版ガダラのピロデモスフランス語版といったレートリケー(修辞術)ギリシア哲学に通じた、当代随一の雄弁家、哲学者がおり、ウェルギリウスは彼等の講義を受けた[5]

ウェルギリウスは、20年続いた内乱の時代(cf. 内乱の一世紀)にガイウス・アシニウス・ポッリオフランス語版の知己を得たことが確実視されている。文学者であるアシニウス・ポッリオはカトゥッルスの文学サークルに属し、「新詩派フランス語版」の詩人の一人であったが、同時に政治上重要な人物であり軍の司令官でもあった。過去にはオクタウィアヌスピリッポイの戦い(前42年)で勝利を収めたその翌日、カエサル派のレギオンへの報酬とするためイタリア半島の大量の土地を収用した際に、キサルピナにおいて複数のレギオンを指揮したこともあった。のちにオクタウィアヌスに対抗する者たちが挙兵した際(共和政ローマ最後の内戦フランス語版)、ポッリオはマルクス・アントニウス方について戦うことになる。この戦いはしかし、オクタウィアヌスに追随する一派が優勢になった。劣勢になった側についたポッリオは手勢を収めざるを得なくなった。『牧歌』第9巻に歌われた内容を解釈したところによると、おそらくは、ウェルギリウスの父の所領は没収され、地所を所有する権利は失われると同時にそこで暮らしていくこともできなくなったとみられる[11]

伝承によると、ウェルギリウスは『アエネーイス』を執筆するため、3年かけて小アジアとギリシアを旅した。その際、メガラの近くで熱中症に罹って取材の旅の中断を余儀なくされ、紀元前19年にブリンディジに戻ってきたときは瀕死の状態であったという[12]。ウェルギリウスが亡くなるとき『アエネーイス』は未完に終わることになり、詩人は友人のウアリウスラテン語版フランス語版プロティウス・トゥッカフランス語版を遺言の執行者に指名し、不完全な『アエネーイス』を焼き捨ててほしいと頼んだ。しかし皇帝アウグストゥスがそれに反対し、ウアリウスに作品を出版させた[7]

ウェルギリウスは火葬され、遺灰は生前の望みに従ってナポリ湾に面した町クリュプタ・ネアポリタナに運ばれ、そこに埋葬された。この町は現在のポッツォーリにあたると比定されており、「ウェルギリウスの墓」という伝説のある大きな廃墟がある。廃墟にはウェルギリウスの生涯の要約をエレギーア韻律で歌うエピタフがある。このエピタフはウェルギリウスが亡くなってから相当の時間が経ってから作られたものと推定されている[13]

作品[編集]

初期作品[編集]

注釈者によると、ウェルギリウスは5歳から教育を受け始め、クレモーナミラノへ弁論術と医学、天文学を学びに行き、最後にローマへ行った。しかしウェルギリウスはこれらの学問を学ぶのを放棄し、哲学を学んだという。ウェルギリウス作品の中に新詩派のポッリオとツィンナを称揚する言葉があることから、ウェルギリウスが一時的に、カトゥッルスを中心とした新詩派のサークルに参加していたのではないかと推測されている。セルウィウスによると、学友の間ではウェルギリウスが極度に引っ込み思案で、なかなか人と打ち解けない男と思われていて、そのよそよそしさから「生娘」を意味する「パルテニアス」というあだ名がつけられていたという。また、生涯を通じて身体強健にあらず、不具者のような暮らしをしていたという。『ウェルギリウス作品補遺』に収められた「カタレプトン」(「よしなしごと」の意)によると、ウェルギリウスはナポリでエピクロス派のシロンに哲学を学んでいたころに詩作を始めたという。『補遺』は、ウェルギリウスが亡くなったときに、友人の注釈者が何人かで、詩人が若いころに作ったとされる作品を集めて Appendix Vergiliana というタイトルを冠したものであるが、少なからぬ量の偽作が含まれていることが指摘されている。『補遺』に収められた詩の一つ、「カタレプトン」は15編の短い詩で構成されるものであるが[14]、そのうちのいくつかは真作であるかもしれないと言われている。同じく『補遺』に収められた「キュレクス」(これも「よしなしごと」あるいは「小事」の意)は、詩人が一人称で語る歌であるが、西暦1世紀にはすでにウェルギリウスの作品であると言われていた作品である。

『牧歌』[編集]

5世紀に書かれた『ウェルギリウス・ロマヌス』に収められた『牧歌』の巻頭ページ。

『牧歌 (Bucolica)』は『選集 (Ecloga)』ともいい、ウェルギリウスの第一作である。シチリア生まれの詩人テオクリトスの牧歌の影響を大いに受けている為、その背景はコス島とシチリアを基礎としギリシア文化圏のドーリス方言の発祥地である「アルカディア」になっているが、実際には当時のイタリアの風物や人物を織り込んでおり、イタリアをその後継地としており、昇華された理想郷として超越して理念化されている。このことは、テオクリトスの『牧歌』ΕΙΔΥΛΛΙΑ と対蹠的である。

『牧歌』(Bucolics)はヘクサメトロス(六歩脚)で歌われた詩集である。『選歌』(Eclogues)の名でも知られ、特に英米語圏ではもっぱら「エクローグ」と呼ばれる。伝統的な伝記記述によると、ウェルギリウスが制作を始めたのが紀元前42年、詩集の出版が紀元前39-38年とされるが、疑わしい[14]。ヘレニズム派の詩人テオクリトスはギリシア語のヘクサメトロスで田園の情景を歌い、田園詩・牧歌のジャンルを開拓したが、本作、ウェルギリウスの『牧歌』もテオクリトスの様式を大まかに踏襲している。オクタウィアヌスは紀元前42年にピリッポイの戦いでユリウス・カエサルを暗殺した者たちに率いられた軍を破ったが、自分に付き従ったレギオンへの褒美としてイタリア半島北部(ガリア・キサルピナ)の土地を収用し、彼等に分け与えることを考えた。伝統的な伝記記述に沿った推測によると、マントウァ近くにウェルギリウスが有していた地所も、その収容の対象になった。そして、この一族の農地の喪失と、これを取り戻そうとする思いを歌にするという、「詩作を通した請願活動」こそがウェルギリウスが『牧歌』を制作した動機であったというのが、伝統的な解釈である。しかしながら、現在では作品の解釈を通して、支持されない推測である。『牧歌』第1歌と第9歌でウェルギリウスはたしかに、土地収用の非道により沸き立つ激情を田園詩に典型的なイディオムを借りて、対比的に歌う。しかしそこには、伝承どおりの伝記的事項の証拠と間違いなく言えるものはまったく示されていない。ウェルギリウスその人と、作中のさまざまな登場人物とを結びつけ、彼等の浮沈に詩人の生涯を読み取ろうとする読みは、昔からあるものである。例えば、第1歌にある年老いた農夫が新しい神に捧げる感謝の言葉や、師匠のお稚児さんへの届かぬ思いを歌う第2歌の詩人、詩人の師匠が過去にいくつかの田園詩を制作したという第5歌の文言、これらにウェルギリウスの実体験の反映を見る説が昔からある。しかしながら、架空の作品(フィクション)から伝記的事項をかき集めるこの種の作業を拒絶する研究者が近年の大勢を占める。現代の西洋古典学においては、同時代の生活や思想が描き出されたものとして作品を捉え、作者の人格やテーマを解釈することが好まれる。

全10歌からなる『牧歌』はヘレニズム派の田園詩の伝統を受け継ぎながらも新たな視座でその主題を捉えている。第1歌及び第9歌は土地の没収とその波紋について歌い、第2, 3歌は同性愛両性愛の魅力を歌い、牧歌的であると同時にエロティックである。第4歌はアシニウス・ポッリオに宛てた形式をとっているが「メサイアニック・エクローグ」(救世主の歌)とも呼ばれている。これは第4歌中で歌われる、ある赤子の誕生に対して、ウェルギリウスが黄金時代の到来を思わせる比喩を用いることにそのゆえんがある。その赤子が誰を指すのかは不明であり、議論され続けている。第5歌は歌比べにおいてダフニスの神話を物語り、第6歌は宇宙的で神話的なシルウァーヌスの歌を歌う。第7歌で歌比べはいよいよ熱を持ち、第8歌で再びダフニスの神話に戻る。第10歌では同時代のエレギーア詩人ガイウス・コルネリウス・ガッルスの受難を歌う。ウェルギリウスは本作で、ペロポンネソス半島に実在する一地方であるアルカディアを理想郷の「アルカディア」として定位せしめたと考えられている。『牧歌』が確立した「アルカディア」像は西洋文学と西洋美術に現代まで連綿と続く影響を与えた。また、ラテン文学における田園詩は、本作の影響を受けたティトゥス・カルプルニウス・シクルスマルクス・アウレリウス・オリュンピウス・ネメシアヌスなどによりさらなる発展をみた。

『農耕詩』[編集]

『牧歌』の出版(紀元前37年ごろ)のあとのいつか、詳細な時期は不明であるが、ウェルギリウスはマエケナスのサークルに加わる[15]。マエケナスはオクタウィアヌスに種々の問題を取り次いだり彼から相談を受けたりする有能な実務家で、文芸に秀でた者をオクタウィアヌスの勢力に引き入れることで名門の家柄の人々の間に反マルクス・アントニウス感情を引き起こす工作を行っていた。ウェルギリウスは当代のすぐれた詩人の間にもその名がよく知られるようになっており、ホラティウスはその詩作の中で何度も彼について言及している[16]。のちに『アエネーイス』の編集を行ったウァリウス・ルフスとも知り合った。

『農耕詩』にある詩句の絵画表現。17世紀後半、イェジー・シェミギノフスキ=エレウテル作。

伝統的伝記記述によると、マエケナスの求めに応じて、ウェルギリウスは7年間をかけて(おそらく紀元前37年から29年)長編詩『農耕詩』を制作した。Georgica という原題はギリシア語に由来する。ウェルギリウスは本作をマエケナスに献呈した。『農耕詩』の表向きのテーマは、農場の経営方法を紹介することにある。このテーマに取り組むにあたって、ウェルギリウスはヘシオドスの『仕事と日々』やヘレニズム派の詩人たちによる「教訓詩διδακτικός)」の伝統にのっとった形式を採用した。そのため、本作は六韻脚(ヘクサメトロス)の教訓詩形式で書かれている。全4巻本の『農耕詩』のうち、第1巻と第2巻は作物と果樹、第3巻は家畜と馬匹の育て方を扱う。第4巻は養蜂に関する。第4巻ではエピュリオン英語版の形式でアリスタイオスによる養蜂術の発見の神話や、オルペウスの冥界下りの神話が生き生きと語られる。なお、セルウィウスのような古代の注釈家は、アリスタイオスのエピソードの箇所に、もともとは、ウェルギリウスの友人であった詩人のガッルスへの賞賛が置かれていたものを、皇帝(アウグストゥス)が命じて入れ替えさせたと推測している。ガッルスはアウグストゥスの不興を買い、紀元前26年に自殺した。

『農耕詩』の歌の調子は、楽観と悲観の間を揺れ動く。そのため詩人の意図するところをめぐって激しい議論がなされている[17]。しかし、本作はのちの教訓詩の模範となった。ウェルギリウスとマエケナスは、紀元前31年のアクティウムの海戦において、マルクス・アントニウスクレオパトラの連合軍を破り、凱旋を果たしたオクタウィアヌスに、かわるがわる交代で『農耕詩』を読み聞かせたと言い伝えられている。

『アエネーイス』[編集]

遺稿として残された『アエネイス』(「アエネアースの物語」の意)はウェルギリウスの最大の作品であり、ラテン文学の最高傑作とされる。『アエネイス』以後に書かれたラテン文学で、『アエネイス』を意識していない作品は皆無である。

この作品の完成にウェルギリウスは前29年から彼が死ぬ前19年までの11年間を費やした。彼は死の前に原稿を焼却するよう強く望んだが、アウグストゥスはそれを認めずに刊行を命じたと言われている。

『アエネイス』は十二巻からなり、ホメーロスの『イーリアス』と『オデュッセイア』に範を取った叙事詩である。すなわち、前半部分(1-6巻)の、アエネアスがイタリアにたどり着くまでに放浪を続ける箇所が『オデュッセイア』的な、後半部分(7-12巻)の、イタリアにたどり着いたアエネアースが、土着の勢力と戦う箇所が『イリアス』的であるとされる。もちろん、全編に渡って、ホメロスの影響は大きく、以上の区分はあくまで作品全体を巨視的に見た場合に妥当するものである。

トロイアの王子でウェヌスの息子であるアエネアースが、トロイア陥落後、地中海を遍歴し、保護者となったカルタゴの女王ディードーの恋愛を棄て(第4巻)、イタリアにたどり着く。ティベリス川を遡り、パラティヌス丘にのちにローマ市となるパッランテウム市を建設したエウァンデルと同盟を結び、土着勢力ルトゥリ族の首長トゥルヌスを倒して、ラウィニウム市を建設する。『アエネイス』はここで終わる。

『ああ、私達は食卓(mensa)まで食べ尽くしてしまったね』とイウールスが言ったとき、もはやそれは戯れでもなくなっていた。その声が聞かれたことが、苦難の終わりをもたらす初めとなった。息子の口にした言葉を耳にすると直ちに父アエネアースは神意に驚き打たれ、その言葉を胸に刻んだ。 — アエネイス(Aeneis) VII 116-119
アイネイアースの「ピエタス英語版」(忠孝の徳)を表現する西暦紀元1世紀のテラコッタ。アイネイアースは老父を担ぎ、幼い息子の手を引いている。

『アエネーイス』はウェルギリウスの最高傑作であり、西洋文学史上最も重要な詩作品の一つであると考えられている。ウェルギリウスは本作品を書き上げるために生涯最後の11年間(紀元前29-19年)を投じた。委嘱作品であり、プロペルティウスによれば、制作を委嘱したのはアウグストゥス帝その人であったという[18]。全十二巻の叙事詩であり、「英雄詩形」として知られる長短短格六歩脚(ダクテュロス・ヘクサメトロス英語版)で、トロイアの武将アイネイアースの旅が歌い上げられている。主人公アイネイアースはアカイア人により包囲されたトロイアから脱出し、紆余曲折を経てイタリアに落ち延びる(第六巻まで)。そして現地の王子トゥルヌスと戦い、町を築く。アイネイアースが建設した町はローマへと発展することになる。ウェルギリウスが『アエネーイス』を制作するにあたってモデルにした先行作品がいくつかある[15]ホメーロスの影響はいたるところに見られるが、そのほかにもラテン語詩人のエンニウスとヘレニズム詩人のロドスのアポローニオスからの影響が顕著である。『アエネーイス』は叙事詩の語り口を堅く守る。その一方で悲劇や起源説話詩など、他のジャンルの要素を取り入れることによって、叙事詩というジャンルの領域を拡大しようとする。古代の注釈家が推測する説によると、ウェルギリウスはホメロス作品を下敷きにして、『アエネーイス』を前後二部に分けたという。この説によると、前半の六巻は『オデュッセイア』を手本にして書かれ、後半の六巻は『イリアス』に基づくという[19]

『アエネーイス』の受容[編集]

18-19世紀フランスの新古典主義画家、ジャン=バティスト・ウィカルフランス語版による、「アウグストゥス、オクタウィア、リウィアに『アエネーイス』を読み聞かせるウェルギリウス」、シカゴ美術館蔵

『アエネーイス』については過去、さまざまな議論がなされてきた[注釈 3]。叙事詩全体の語り口が特に論争の的となった。『アエネーイス』がまったくもって悲観的であり、アウグスティヌスの新体制に対して政治的な動揺を与えるとみなした論者もいれば、まったく逆に『アエネーイス』が帝政の開始をことほぐものだとみなした論者もいる。アウグスティヌスの新体制の暗喩を『アエネーイス』に見て取り、ローマの建設者と再建者、アイネイアースとアウグストゥスとのあいだに強い関係があると読む学者もいる。クライマックスへ一直線に進む強い目的論を見出す読み方もまた、なされてきた。本書がローマの未来に関する予言の書とみなされることもあった。あるいは、アウグストゥスやカエサルなどの功績、カルタゴ戦争を暗喩しているとする読みもあり、アイネイアースの盾にはアクティウムの海戦におけるアウグストゥスの勝利が描かれているとまで言われている。

アイネイアースという登場人物に焦点を当てた研究もある。叙事詩の主人公としてアイネイアースはいつも、個人の感情と、ローマを建国するという彼に課せられた義務の遂行とのあいだを行ったり来たりする。ところが長い叙事詩の最後に彼は、感情を抑えることができずにトゥルヌスを冷酷に殺す。「信心深い義人」アイネイアースがそのような一線を越えた行動をすることに注目する研究がある。

『アエネーイス』は非常に好評を博したようである。ウェルギリウスは第二、四、六巻をアウグストゥスに読み聞かせたと言われている[15]。絵画のテーマにもなった有名なエピソードではあるが、学術的には疑わしいとする意見もある。

ウェルギリウスの死と『アエネーイス』の編集[編集]

言い伝えによると、ウェルギリウスは紀元前19年頃に『アエネーイス』を推敲するためにギリシアを旅したとされている。アテネでアウグストゥスに会い、共にローマに帰ることにしたが、メガラの町の近くで熱病にかかる。イタリアへ船で渡りはしたが熱病で弱ったウェルギリウスは、紀元前19年9月21日、ブルンディシウムの港で亡くなった。ウェルギリウスは未完に終わった『アエネーイス』を焼いてほしいと遺言したが、アウグストゥスがその執行者、ルキウス・ウァリウス・ルフスとプロティウス・トゥッカに命じてこれを無視させ、可能な限り編集の手を加えないで『アエネーイス』の出版を命じた[20]。結果として『アエネーイス』のテキストには、後で出版する前に訂正するつもりの誤りが残った。それはダクテュロス・ヘクサメトロスの詩形になっていない明らかに不完全な数行だけである。ところが、詩人は劇的な効果を出すために、注意深く韻律の足りない詩句を残したのだという説を唱える学者もいる[21]。他方で、不完全な箇所について学術的な議論をすることに懐疑的な学者もいる。

後世の影響[編集]

ウェルギリウスはダンテ・アリギエーリに大きな影響を与えている。ダンテは、『神曲』においてウェルギリウスを自分の詩の根源として称え、主人公ダンテの「師」として案内役に登場させた。二人の詩人は地獄・煉獄の2つの世界を遍歴していく。なお、『神曲』においてウェルギリウスはホメーロスやウェルギリウスと同じくマエケナスの庇護を受けたクィントゥス・ホラティウス・フラックスらとともに辺獄に置かれている。

また、『牧歌』は、テオクリトスの『牧歌』をより抽象化し、すべては自然から学び得、自然をシンボルを映す鏡として看、被造物を通じて教訓を得るものとして、俗塵を離れたアルカディアでの生活を理念化し、「パストラーレ(牧歌詩)」の基調を時空を超えた理想郷として描いた文学史上最初の作品である。

また『農耕詩』は、農業のいとしさとその農耕の理想と理念とを自然との共生として描き、農学における環境科学的理念を描いた文学史上最初の作品である。

また、ヨーロッパ中世においては、ウェルギリウスが偉大な魔術師であったという「ウェルギリウス伝説」が流布し、ウェルギリウスは多くの説話に登場している。現代のSF作家エイヴラム・デイヴィッドスンは、「ウェルギリウスが、実際に魔術師で詩人ではなかった」という設定の世界を元にしたシリーズ作品を執筆している。

日本語訳[編集]

牧歌・農耕歌[編集]

  • 『牧歌・農耕歌』 八木橋正雄訳、横浜、1980年。
  • 『牧歌・農耕詩』 河津千代訳、未來社、1994年、ISBN 462461030X
  • 『牧歌/農耕詩』 小川正廣訳、京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、2004年、ISBN 4-87698-151-5

アエネイス[編集]

関連文献・研究文献[編集]

  • 秀村欣二久保正彰荒井献編 『古典古代における伝承と伝記』 岩波書店 1975年
    • 中山恒夫 「ローマにおける詩と真実 ウェルギリウスのアエネアス像」
  • 小川正廣 『ウェルギリウス研究 ローマ詩人の創造』 京都大学学術出版会 1994年
  • 小川正廣 『ウェルギリウス「アエネーイス」 神話が語るヨーロッパ世界の原点』 岩波書店〈書物誕生〉  2009年

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ "Persona Virgilli filii figuli, cui Stimichon nomen erat et Maiae sororis Lucretii. (lire : Jan M. Ziolkowski et Michael C. J. Putnam, The Virgilian Tradition: The First Fifteen Hundred Years, 2008, p. 278).
  2. ^ 訳注:古代においては数学と天文学と占星術が未分化であり "mathématiques" がこれらを包摂する学問領域を指す。
  3. ^ 文献情報と議論のサマリーは Fowler pg.1605-06 を参照。

出典[編集]

  1. ^ 例えば、夏目漱石草枕』「ホーマーがどうでも、ヴァージルがどうでも、構はない。」
  2. ^ Don Fowler "Virgil (Publius Vergilius Maro)" in The Oxford Classical Dictionary, (3.ed. 1996, Oxford), pg.1602
  3. ^ a b Zehnacker & Fredouille 2005, p. 138.
  4. ^ Gärtner, Hans H. (1979). Der Kleine Pauly. Lexicon der Antike in fünf Bänden. Munich. "Vergilius. * am 15. Okt. 70 als Sohn des V. Maro und der Magia Polla." 
  5. ^ a b c Paul Veyne, « L’Enéide, Virgile et les poètes latins », émission Au cœur de l'histoire sur Europe 1, 11 janvier 2013
  6. ^ Les œuvres de Virgile traduites en prose: enrichies de figures, Rome, 1649, p. 142 : Quelques-uns entendent Mécène sous le nom de Stimichon".
  7. ^ a b Zehnacker et Fredouille (2005), p. 144-145.
  8. ^ Horace, Odes, I, 3.
  9. ^ Horace, Odes, I, 24.
  10. ^ a b Zehnacker et Fredouille (2005), p. 138.
  11. ^ Bucoliques, IX.
  12. ^ J.-Y. Maleuvre (1991). “Virgile est-il mort d’insolation ?”. L’Antiquité Classique 60: 171-181. 
  13. ^ Mémoires pour l'histoire des sciences et des beaux-arts, Jean Boudot,‎ 1736 (lire en ligne), p. 470
  14. ^ a b Fowler, pg.1602
  15. ^ a b c Fowler , pg.1603
  16. ^ Horace, Satires 1.5, 1.6, and Odes 1.3
  17. ^ Fowler, pg.1605
  18. ^ Avery, W. T. (1957). “Augustus and the "Aeneid"”. The Classical Journal 52 (5): 225–229. 
  19. ^ Jenkyns, p. 53
  20. ^ Sellar, William Young; Glover, Terrot Reaveley   (1911). “Virgil”. Encyclopædia Britannica. 28 (11th ed.). p. 112. https://archive.org/stream/encyclopaediabri28chisrich#page/112/mode/2up 2012年6月7日閲覧。. 
  21. ^ Miller, F. J. (1909). “Evidences of Incompleteness in the "Aeneid" of Vergil”. Evidences of Incompleteness in the "Aeneid" of Vergil. 4 (11th ed.). 343. http://www.jstor.org/stable/3287376 2015年11月1日閲覧。. 

外部リンク[編集]