ヴィルヘルム4世 (バイエルン公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴィルヘルム4世
Wilhelm IV.
バイエルン公
在位 1508年3月18日 - 1550年3月7日

出生 (1493-11-13) 1493年11月13日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
バイエルン公領ミュンヘン
死去 (1550-03-07) 1550年3月7日(56歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
バイエルン公領ミュンヘン
埋葬 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
バイエルン公領ミュンヘン、聖母教会
配偶者 マリア・ヤコベア・フォン・バーデン
子女 テオドール
アルブレヒト5世
ヴィルヘルム
メヒティルト
家名 ヴィッテルスバッハ家
父親 バイエルン公アルブレヒト4世
母親 クニグンデ・フォン・エスターライヒ
テンプレートを表示

ヴィルヘルム4世(Wilhelm IV., 1493年11月13日 - 1550年3月7日)は、16世紀バイエルン公(在位:1508年 - 1550年)。アルブレヒト4世クニグンデ・フォン・エスターライヒの長男。一時、弟のルートヴィヒ10世とバイエルンを共同統治していた。

生涯[編集]

父が長子相続を取り決めたことにより、1508年の父の死後に遺領を単独相続したが、弟のルートヴィヒ10世が共同統治を主張し、1516年ランツフートシュトラウビングを共同統治領とした。宗教改革に初めは同情を示していたが、やがてカトリックに転向、ザルツブルク大司教と提携してドイツ農民戦争を鎮圧した。また、ボヘミア王位を主張してハプスブルク家と対立したが、1534年フェルディナント1世リンツで和睦した[1]

1545年にルートヴィヒ10世が死去したため、改めてバイエルンを単独統治することになった。シュマルカルデン戦争ではカール5世(フェルディナント1世の兄)の下で戦った。

1516年、ビールの品質向上と、小麦やライ麦の使用制限を図ってビール純粋令を制定した。この法は現在もドイツで存続している。

家族[編集]

1522年バーデン辺境伯フィリップ1世の娘マリア・ヤコベアと結婚した。

  1. テオドール(1526年 - 1534年)
  2. アルブレヒト5世(1528年 - 1579年)
  3. ヴィルヘルム(1529年 - 1530年)
  4. メヒティルト(1532年 - 1565年) - バーデン=バーデン辺境伯フィリベルトと結婚

脚注[編集]

  1. ^ Sigmund Ritter von Riezler (1897), “Wilhelm IV.” (ドイツ語), Allgemeine Deutsche Biographie (ADB), 42, Leipzig: Duncker & Humblot, pp. 705–717 

参考文献[編集]

先代
アルブレヒト4世
バイエルン公
1508年 - 1550年
ルートヴィヒ10世と共同統治
(1516年 - 1545年)
次代
アルブレヒト5世