ヴィルジニア・オルドイーニ
ヴィルジニア・オルドイーニ(Virginia Oldoini, 1837年3月22日 - 1899年11月28日)は、フランス帝国皇帝ナポレオン3世の愛妾。カスティリオーネ伯爵夫人の称号を持ち、フランスではラ・カスティリオーヌ(La Castiglione)と呼ばれた。
サルデーニャ王国の宰相で彼女の従兄だったカミッロ・カヴールが送り込んだスパイでもあり、1861年の"統一イタリア(イタリア王国)"建国に"陰の影響力"があったとされている。
生涯[編集]
トスカーナ大公国のオルドイーニ侯爵の娘としてフィレンツェに生まれた。ニックネームの"Nicchia"で知られていた。17歳の時、カスティリオーネ伯と結婚し、1子をもうけた。
1855年にフランスへ向かい、無一文に近い状態でパリに到着した。1856年から1857年の間、欧州王室社交界にデビュタントをした半社交界の婦人 (ドゥミ=モンデーヌ, Demi-mondaine) ないしクルチザンヌと括られる。
従兄にあたるカヴールにより依頼されナポレオン3世の愛人となることでサルデーニャとの同盟関係を結ぶことを承知させたといわれるが、イタリア生まれの寵姫カスティリオーネの名前が醜聞となることで、夫の要求で別居し離婚に等しい状態となった。
ナポレオン3世との関係が続く間、彼女は後に普仏戦争により"統一ドイツ皇帝"となるヴィルヘルム1世の王妃アウグスタ・フォン・ザクセンやプロイセン宰相ビスマルク、後にフランス第三共和政の初代大統領となるアドルフ・ティエール、その他王侯貴族らと接触することができた。
ヴィルジニアの服装の一つが『ハートの女王』[1]とうたわれていたように、彼女が宮廷で着用する服装が常に話題を呼んだ。ジョージ・フレデリック・ワッツが1857年に彼女の絵画を残しているように[2]、多くの画家や写真家のモデルとなり、多くの写真を残している。なかでも、彼女に熱狂した唯美派のロベール・ド・モンテスキューは、13年かけて1913年に彼女の伝記を書き上げ、彼女の死後、彼女に関する433枚にのぼる蒐集写真はメトロポリタン美術館に所蔵されることとなった[3]。
1857年、ヴィルジニアはナポレオン3世と別れ、イタリアへ戻った。4年後の1861年、"統一イタリア"が成されたイタリア王国建国は、想像の域を出ないが、ナポレオン3世への彼女の影響力が大きかった。この年、彼女はパリへ戻りパッシー(パリ16区)に定住した[4]。
普仏戦争においてフランス帝国が敗北し、ナポレオン3世が追放された直後の1871年、彼女は秘密裡にやってきていたプロイセン宰相ビスマルクと会見し、プロイセンによる「パリ占領」がいかに"致命的"なものになるかを説得、結果、パリがその占領を免れたことで分かるように、彼女の交渉が非常に説得的だったのかもしれなかった[4]。
ヴィルジニアは、残りの人生をヴァンドーム広場に面したアパルトマンで暮らした。その部屋は、きっちりブラインドが下げられ、葬式のように黒く塗られ、鏡は全て曇っていた。自身が美と若さを失ったことを人に知られたくなかったのである。彼女は夜にならないと外出しないのだった。また、実現しなかったものの、1900年パリ万国博覧会において彼女の写真が展示されることを望んでいた。しかし1899年、ヴィルジニアは62歳で他界した[5]。
墓所はパリ20区のペール・ラシェーズ墓地[5]。
脚注[編集]
- ^ Metropolitan Museum: “"Queen of Hearts"”. 2011年6月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2005年3月29日閲覧。, accessed May 28, 2010
- ^ Artnet: "Portrait of the Countess", accessed May 28, 2010
- ^ Munhall, Edgar, Whistler and Montesquiou: The Butterfly and the Bat (NY, 1995), 42
- ^ a b (フランス語)Historia: Historia, no. 656 (August 2001), accessed May 28, 2010
- ^ a b Find a Grave: Virginia Oldoini, accessed May 19, 2010