ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア

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ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア
Vittorio Emanuele di Savoia
サヴォイア家カリニャーノ系
Vittorio Emanuele di Savoia (2009).jpg
ヴィットーリオ・エマヌエーレ(2009年)
称号 ピエモンテ公
ナポリ公
全名 Vittorio Emanuele Alberto Carlo Teodoro Umberto Bonifacio Amadeo Damiano Bernardino Gennaro Maria di Savoia
ヴィットーリオ・エマヌエーレ・アルベルト・カルロ・テオドーロ・ウンベルト・ボニファツィオ・アマデオ・ダミアノ・ベルナルディノ・ジェンナロ・マリア・ディ・サヴォイア
身位 王太子(王制廃止)
敬称 殿下(王制廃止)
出生 (1937-02-12) 1937年2月12日(81歳)
イタリア王国の旗 イタリア王国カンパニア州ナポリ
配偶者 マリナ・リコルフィ・ドーリア英語版
子女 エマヌエーレ・フィリベルト
父親 イタリア王ウンベルト2世
母親 マリーア・ジョゼ・デル・ベルジョ
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ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイアイタリア語: Vittorio Emanuele di Savoia1937年2月12日 - )は、イタリア王国において最後の国王となったウンベルト2世の長男(王太子)で、現サヴォイア家当主およびイタリア王位請求者。1946年の共和制移行により成立したイタリア共和国において、王位のみならず全ての貴族称号は承認されていないが、国内に残る王党派からは「ナポリ公」と呼ばれ、また一部急進派からは「イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ4世」と呼ばれているとされる。

イタリア王位やナポリ公位以外にも、様々な称号や継承権を父から継いでおり、その中にはエルサレム王位の請求権も含まれている。名誉ある血筋と継承権を持ち、欧州に数多くいる「没落貴族のコミュニティー」でも大物の一人と見なされている。しかしその一方で、亡命先のスイス・フランスなどで様々な非合法事業に加わり、また私生活でも一族の反対を無視して貴賎結婚を行うなど、身辺に問題の多い人物でもある。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

祖父ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世に抱かれるヴィットーリオ

1937年2月12日、王政時代のイタリアで、当時はまだイタリア王太子であった父ウンベルト2世と、その妻であるベルギー王女マリーア・ジョゼ・デル・ベルジョとの長男として、ナポリの離宮で生まれる。祖父である第3代イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は男児の孫を授かったことを喜び、赤子のヴィットーリオを膝に乗せている写真が残されている。祖父からはナポリ公の称号を与えられ、父が即位すると王太子の称号を譲られた。だが9歳の時、王政廃止によってサヴォイア家や他のイタリア貴族たちは亡命を強いられ、没落貴族に仲間入りせざるを得なくなった。祖父母はエジプトへ、王位を継いでいた父と母はポルトガルへと亡命した。

しばらくして両親は実質的な別居状態に入り、母マリーア・ジョゼに引き取られて妹たちとスイスへと移住(現在でもヴィットーリオはスイスに邸宅を所有している)、幼少期を送った。

貴賎結婚[編集]

ヴィットーリオとのちの妻マリナ・リコルフィ・ドーリア英語版(1969年)

1971年スイス人の女性スキー選手マリナ・リコルフィ・ドーリア英語版と結婚する。平民(非貴族)との貴賎結婚はいかに亡命王族とはいえ家格を貶めると考えられ、父ウンベルト2世からは強く反対されたが、ヴィットーリオはこれを無視した。間に生まれた息子エマヌエーレ・フィリベルトにピエモンテ=ヴィネツィア公の称号を分与した。1969年、ヴィットーリオは自身が第5代イタリア王として国家主権を有すると宣言した[1][2]。貴賎結婚を巡る父との対立と家督問題が背景にあったと言われている[3]王位請求者としての権限で、リコルフィ・ドーリアをナポリ公爵夫人として強引に家格を引き上げさせる行為も行われた[4]

サヴォイア家の分家であるサヴォイア=アオスタ家の当主アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタは、ヴィットーリオ・エマヌエーレの継承が先代当主の同意を得ていないとして、自らが対立王位請求者として行動した。一連の騒動でサヴォイア家はカリニャーノ派(ヴィットーリオ・エマヌエーレの系統)とアオスタ派に分かれての内紛が始まり、ややカリニャーノ派が優勢ながらも現在に至るまで一族内の対立は続いている。

非合法活動[編集]

ヴィットーリオ・エマヌエーレはまた、王位請求者としてだけでなく事業家として行動を起こした。初めは銀行業や航空機会社から、そして次第に武器密輸などの非合法事業などに手を広げていった[5]。そのような中で、1970年代にはネオ・ファシストや右翼軍人、マフィアらの秘密結社であり、バチカンを巻き込んだマネーロンダリングや、南アメリカの軍事政権に違法な武器密輸や資金援助を行っていた「ロッジP2」のメンバーとなっていたことが暴露され、イタリア国内のみならず世界的な大スキャンダルになった。

銃撃事件[編集]

1978年8月18日、ヴィットーリオ・エマヌエーレはコルシカ島のカバルロで停泊していたヨットに乗り込み、乗船していた青年を誤ってライフル銃で射殺する事件を起こした。射殺された青年はディーク・ハマーという資産家の息子で、本来ヴィットーリオ・エマヌエーレが撃ったとされるヨットのオーナーの友人であったが、銃弾の流れ弾に当たって死亡した。1978年8月28日、ヴィットーリオ・エマヌエーレは事件への関与を否定していたものの、被害者の資産家からの民事訴訟を受けている[6]

1989年10月11日にフランス警察から襲撃と武器の不法所持により逮捕されるが、被害者が麻薬を摂取していたためにその証言能力に疑問があったこと(さらに被害者が仲間同士で誤って撃ったとの証言もある)や、13年前の事件ということもあって、武器のM1ガーランド銃の不法所持のみが罪に問われた[6]。内容は6ヶ月間の禁固刑と極めて軽い内容であった[7]

イタリアへの帰国[編集]

イタリアの王政廃止は僅差により決定されており、共和国政府は王政復活を恐れてサヴォイア家当主の入国を禁止していた。ヴィットーリオは帰国許可を求める運動を起こし、1999年には欧州裁判所に、帰国を身分により制限するのは基本的人権に違反しているとしてイタリア政府を提訴した[8]。共和国政府側も折れることなく対立を続け、最終的にヴィットーリオが「形式的」ながらも共和制の存在を認め、王政復古を行なわないことと引き換えに帰国を決定した。

2002年2月、ヴィットーリオ・エマヌエーレはピエモンテ=ヴィネツィア公エマヌエーレ・フィリベルトと共にイタリア共和国憲法を承認する宣言を行った[9]。これを受けて、2002年10月23日にイタリア共和国議会はサヴォイア家当主の入国禁止法を撤廃する法案を可決した。2002年11月10日に半世紀ぶりに故郷へと戻ったヴィットーリオ・エマヌエーレは、イタリア国内の要人と会見した後、ヴァチカンに招かれて教皇ヨハネ・パウロ2世と会談した[10]

王政復古を行わないことを条件にしつつも、政府内には民衆の支持次第では再び王党派の反乱が起きるのではないかと不安に思う意見も見られた。しかし、既に王政廃止から50年が経過しており、王政時代を知る国民は少数派になっていた。国民レベルでの反応は乏しく、大衆は既にサヴォイア家の復権に無関心であった[5]。また、出生地であるナポリでは両シチリア独立運動を支持するボルボニスト(ボルボン家派)と、サヴォイアニスト(サヴォイア家派)との衝突が起きた[11]

王政復古の否定は、たび重なるヴィットーリオの問題行動に敵意を深めていたアメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタらアオスタ派との対立を決定的にした。両者の対立はイタリアの王党派組織を巻き込んだものにまで発展していった。

アオスタ公殴打事件[編集]

ヴィットーリオとアオスタ公アメデーオ(1964年)

対立が続く中、スペインのフェリペ王太子(のちの国王フェリペ6世)とレティシア妃の結婚式を翌日に控えた2004年5月21日、スペイン王フアン・カルロス1世がサルスエラ宮殿で開いた晩餐会に招待されたヴィットーリオ・エマヌエーレは、同じく招待されていたアメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタと口論になり、アメデーオの顔面を殴り飛ばした(アオスタ公アメデーオ殴打事件)。殴られたアメデーオは鼻血を出してその場に倒れ、階段を転げ落ちた[12][13]

ギリシャ王妃アンナ=マリアがアメデーオの出血を布で押さえる間、フアン・カルロス1世は「このようなことは許されない」と晩餐会が王位請求者同士の諍いに利用されたことに激怒したという[13]

再逮捕[編集]

2006年6月16日、マフィアの犯罪事業に関わっていたとして警察に拘束された[14]。事態に呼応して7月7日、アオスタ公アメデーオは「サヴォイア家家長」および「サヴォイア公」を自らが名乗ることを宣言した。ヴィットーリオ・エマヌエーレは、アメデーオがサヴォイア公を称するのを差し止める裁判を起こした。2008年6月6日に最初の審理が開かれ、現在も裁判中である。

家族[編集]

称号[編集]

騎士団[編集]

出典[編集]

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  1. ^ Royal Decree No. 1
  2. ^ Pro Veritate analysis n.1 by Prof. Edoardo Adami
  3. ^ Gigi Speroni, Umberto II, Milan, Riscoli Libri
  4. ^ Pro Veritate analysis n.2 by Prof. Edoardo Adami
  5. ^ a b Popham, Peter (2006年6月22日). “The prince and the prostitutes”. The Independent. http://findarticles.com/p/articles/mi_qn4158/is_20060622/ai_n16494232/pg_1 2008年4月10日閲覧. "Selling helicopters to his high and mighty friends was one of the prince's successful projects, from which he went on to becomean arms dealer." [リンク切れ]
  6. ^ a b HAMER v. FRANCE - 19953/92 [1996] ECHR 30 (7 August 1996)
  7. ^ Summary of trial proceedings concerned the killing of Dirk Hamer Archived 2008年5月5日, at the Wayback Machine.
  8. ^ Victor Emmanuel de Savoie v. Italy, 656 to hold a hearing on the merits of the admissible complaints on a date to be fixed subsequently (European Court of Human Rights 2001-09-21).
  9. ^ “Vittorio Emanuele di Savoia: "Fedelta alla Costituzione"” (Italian). La Repubblica. (2002年2月2日). http://www.repubblica.it/online/politica/savoia/fedeli/fedeli.html 2008年4月10日閲覧。 
  10. ^ Willan, Philip (2002年12月24日). “Exiled Italian royals go home”. The Guardian. http://www.guardian.co.uk/italy/story/0,12576,865055,00.html 2008年4月10日閲覧。 
  11. ^ Johnston, Bruce (2008年1月8日). “Italy's exiled royal family shunned as they return”. Telegraph.co.uk. http://www.telegraph.co.uk/news/main.jhtml?xml=/news/2003/03/16/witaly16.xml 2008年4月24日閲覧。 
  12. ^ Right royal punch-up at Spanish prince's wedding
  13. ^ a b McIntosh, David (2005 12). “The Sad Demise of the House of Savoy”. European Royal History Journal (Arturo E. Beeche) 8.6 (XLVIII): 3?6. 
  14. ^ Popham, Peter (2006年6月17日). “Son of Italy's last king held over Mafia and prostitution claims”. The Independent. オリジナル2007年11月2日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20071102073913/http://news.independent.co.uk/europe/article1089773.ece 2008年4月10日閲覧. "The son of Italy's last king, Prince Victor Emmanuel, has been arrested in the north Italian town of Lecco as part of an investigation into charges he was involved with the Sicilian Mafia and a prostitution racket." 

外部リンク[編集]

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