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ヴィクトワール・ド・サクス=コブール=コアリー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴィクトワール
Victoire
ザクセン=コーブルク=コハーリ家
F・X・ヴィンターハルターの追随者による肖像画、1840年代

全名
称号 ヌムール公爵夫人
出生 (1822-02-14) 1822年2月14日
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ウィーン
死去 (1857-12-10) 1857年12月10日(35歳没)
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランドサリー、クレアモント・ハウス
埋葬 1857年
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランド、サリー、ウェイブリッジ、セント・チャールズ・ボッロメーオ礼拝堂
1979年(改葬)
フランスの旗 フランスドルー、サン=ルイ王室礼拝堂
配偶者 ルイ・ドルレアン
子女
父親 フェルディナント・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト
母親 コハーリ・マーリア・アントーニア
宗教   キリスト教カトリック教会
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ヴィクトワール・ド・サクス=コブール=コアリーフランス語: Victoire de Saxe-Cobourg-Kohary, 1822年2月14日 - 1857年12月10日)は、ドイツの小諸侯ザクセン=コーブルク公家の公女で、フランス王ルイ・フィリップの子息ヌムール公ルイに嫁し、7月王政期のフランス王室の一員となった。

生涯

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オーストリア帝国に陸軍大将として仕えたザクセン=コーブルク=ザールフェルト公子フェルディナントと、ハンガリー大貴族の女子相続者コハーリ・マーリア・アントーニア公女の間の第3子・長女で、ヴィクトリア・フランツィスカ・アントーニア・ユリアーネ・ルイーゼ(Viktoria Franziska Antonia Juliane Luise von Sachsen-Coburg-Saalfeld-Koháry)と名付けられた。

両親の結婚によって創設されたザクセン=コーブルク=ゴータ家のカトリック系分家コハーリ侯家の第一世代であった。3人の男兄弟のうち、長兄フェルディナント(2世)はポルトガル女王マリア2世との結婚によってポルトガル王位に就いた。次兄アウグストはヴィクトワールの夫の妹クレマンティーヌと結婚し、ブルガリア王フェルディナントの父となった。弟レオポルトだけはスペイン王室への婿入りの機会を逃し、作曲家コンスタンツェ・ガイガー貴賤結婚した。

1840年4月26日、サン=クルー城英語版でフランス王ルイ・フィリップの次男ヌムール公ルイと結婚した。2人の婚姻契約の締結はフランスの政治問題に発展し、国内外の注目を集めた[1]。フランス王は新しい義理の娘に婚資としてランブイエの国有地と100万フランを与える内容の契約書を作らせたが、代議院は国王の予算要求を拒否したからである[2]。ヴィクトワールは結婚後、オルレアン家の縁戚関係からスペインのマリア・ルイサ王妃貴婦人勲章英語版を受章した。

1848年の2月革命により王政が打倒されると、オルレアン家一族はイングランドに亡命した。英国のヴィクトリア女王はヴィクトワールと同名の3歳年上の従姉であり、幼い頃の遊び友達だった。ヴィクトワールとヴィクトリア女王は親友となり、女王は従妹ヴィクトワールをオズボーン・ハウスで過ごす夏の休暇に毎年のように呼び寄せ、厚遇した。

1857年10月末にクレアモント・ハウス英語版で第四子ブランシュフランス語版を出産したが、産褥熱が悪化して出産から約2週間後に死亡した。ウェイブリッジ英語版のセント・チャールズ・ボッロメーオ礼拝堂に埋葬された。彫刻家アンリ・シャピュはヴィクトワールのデスマスクと肖像画を参考に公爵夫人の寝棺像を制作した。ヴィクトワールの遺骸は死後120年以上が過ぎた1979年、ようやくオルレアン家代々の墓所であるフランス・ドルーサン=ルイ王室礼拝堂英語版に改葬された。

ヴィクトワールの称号にその名を因む「デュシェ・ド・ヌムール[ダッチェス・ド・ネムール](Duchesse de Nemours)」というシャクヤク(ラテン語学名Paeonia lactiflora)の品種がある[3]

ギャラリー

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子女

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2人の息子、ウー伯(中央)及びアランソン公(右)との家族肖像写真、1852年

夫ヌムール公爵との間に2男2女をもうけた。

系譜

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ヴィクトワール・ド・サクス=コブール=コアリーの系譜
8. ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公エルンスト・フリードリヒ
4. ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公フランツ
9. ゾフィー・アントイネッテ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル
2. フェルディナント・ゲオルク・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト=コハーリ
10. ロイス=エーベルスドルフ伯ハインリヒ24世
5. アウグステ・ロイス・ツー・エーベルスドルフ
11. カロリーネ・エルネスティーネ・フォン・エアバッハ=シェーンベルク
1. ヴィクトワール
12. コハーリ・イグナーツ・ヨージェフ
6. コハーリ・フェレンツ・ヨージェフ
13. マリア・ガブリエーラ・フォン・カブリアーニ・ディ・イメナ
3. マリア・アントーニエ・フォン・コハーリ
14. ゲオルク・クリスティアン・フォン・ヴァルトシュタイン=ヴァルテンベルク
7. マリア・アントーニア・フォン・ヴァルトシュタイン=ヴァルテンベルク
15. エリサベト・ウルフェルト

引用・脚注

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  1. ^ Thomas Raikes: A portion of the journal kept by Thomas Raikes, esq., from 1831 to 1847. Longman, Brown, Green, Longmans and Roberts, 1858, S. 202
  2. ^ Wolfgang Menzel: Die letzten 120 Jahre der Weltgeschichte. (1740–1860). Adolph Krabbe, 1860, S. 158.
  3. ^ Human Flower Project

参考文献

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  • René Bazin: Le Duc de Nemours. Paul Thureau-Dangin, Histoire de la monarchie de France, 1907.
  • Ralph Braun: In Zwanzig Jahre internationale Coburger Johann Strauss Begegnungen. Coburg 2007, S. 28 Online-Ressource (PDF, 2,27 MB)

外部リンク

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