ヴィクトル・ブローネル

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ヴィクトル・ブローネル
Victor Brauner 2018 stampsheet of Romania.jpg
原語名 Victor Brauner
生誕 1903年6月15日
 ルーマニアピアトラ・ネアムツ (モルダヴィア地方)
死没 (1966-03-12) 1966年3月12日(62歳没)
フランスの旗 フランスパリ
墓地 モンマルトル墓地
国籍  ルーマニアフランスの旗 フランス
代表作 《眼球を摘出した自画像》《K氏の奇妙な事例》《欲望の解剖学》《狼・テーブル》《シュルレアリスト》《街》《傷ついた主体性のトーテムII》
運動・動向 シュルレアリスム

ヴィクトル・ブローネルまたはブラウネルVictor Brauner ルーマニア語: [ˈviktor ˈbrawner]1903年6月15日 - 1966年3月12日)は、ルーマニアに生まれ、フランスで活躍した画家1930年代パリアンドレ・ブルトンイヴ・タンギーらに出会い、シュルレアリスムの運動に参加。ユダヤ人である彼は、第二次世界大戦中に亡命を希望したが果たせず、オート=アルプ県の小村に隠れ住んで制作を続け、独自の蝋画(エンカウスティーク)の技法を生み出した。無意識表象精神分析神秘主義オカルティズム)、プリミティヴィズム英語版エロティシズムなどを特徴とする作品を制作。代表作《眼球を摘出した自画像》を完成した7年後に偶然にも左目を失う。詩人ルネ・シャールに「未来を幻視する画家」と称された[1]

生涯[編集]

背景[編集]

ヴィクトル・ブローネルは1903年6月15日、カルパチア山脈のふもとのピアトラ・ネアムツモルダヴィア地方)のユダヤ人家庭に生まれた。3人兄弟の長男で、次男ハリー・ブローネルルーマニア語版民族学者(特にルーマニア民族音楽の研究者)・作曲家で、三男テオドール・ブローネルフランス語版写真家・画家でヴィクトルと同様にシュルレアリスムの運動に参加した[2][3]。父は林業が盛んなピアトラ・ネアムツで製材所を経営していた[4]。交霊術や心霊術に傾倒していた父が、息子ヴィクトルにこの行いに参加させたことが、後に彼の絵画に影響したという指摘もある[5][6]。ヴィクトルが10歳のとき、一家はドイツに移住し、オーストリアに一時滞在した後、ルーマニアに戻った[2]。ピアトラ・ネアムツの南約250キロのところにあるブライラに居を構え、ヴィクトルは1916年から1918年までブライラ福音学校に学んだ[6]

ブカレスト - 前衛芸術[編集]

1919年にブカレスト国立美術学校(現ブカレスト国立芸術大学ルーマニア語版)に入学し、セザンヌ風の風景画を描き始めたが[6]、彼の作品は風紀を乱すとして1921年に退学処分を受けた[7][4]。1924年にブカレスト国立美術学校労働組合の画廊[4]モーツァルト画廊[6])で最初の個展を開き、詩人イラリエ・ヴォロンカフランス語版とともにダダイスムの雑誌『75 H.P』を創刊(創刊号をもって終刊)。この雑誌に「絵画でも詩でもない」「絵画詩」宣言を掲載した[8]

パリ - シュルレアリスム[編集]

翌25年に渡仏し、パリに数か月滞在した。パリでは前年にシュルレアリスム宣言が発表され、また、アナトール・フランスが死去すると、この権威的な存在を葬り去り、乗り越えようとするシュルレアリスムの最初の象徴的な事件である小冊子『死骸』が刊行されたばかりであった[9]。この運動の現場を目撃したブローネルは、ブカレストに戻ると、(ドイツ)表現主義ロシア構成主義、ダダイスムなどの前衛芸術運動に参加し、これらの運動の機関誌であり、次いでシュルレアリスム運動の機関誌ともなった『ウヌ (Unu)』(1928年創刊)に寄稿した[10]。1930年にマルギット・コスと結婚[4]。同年に再び渡仏し、パリで同郷人のコンスタンティン・ブランクーシのほか、イヴ・タンギー、アルベルト・ジャコメッティに出会い、当時、タンギーとジャコメッティが住んでいた14区ムーラン・ベール通りフランス語版のアパートに部屋を借りた。1931年に代表作《眼球を摘出した自画像》を完成。偶然にもこの7年後に左目を失うことになる(後述)。また、イヴ・タンギーを介してジョルジョ・デ・キリコとアンドレ・ブルトンに出会い、シュルレアリスムに参加。1933年に(アンデパンダン展(独立美術家展)をもじった)第4回シュランデパンダン展(超独立美術家展)に出展[11]。1934年に、ピエール画廊(画商ピエール・ローブフランス語版は写真家ドゥニーズ・コロンフランス語版の兄[12])で、パリで最初の個展が開催され、図録(カタログ)の序文をブルトンが執筆した[13]。ブルトンは特に、アルフレッド・ジャリの『ユビュ王』から着想を得、これを当時欧州で台頭した独裁者として形象化した不気味な人物像『K氏の奇妙な事例』を絶賛した[7][5]。同じ頃、ピカソバルテュスヴィフレド・ラムらとも交友を深め、また、ニューヨーク近代美術館など他国で開催されたシュルレアリスム展にも出展した[4]

経済的な理由により、ルーマニアに帰国。短期間だが共産党に入党するが、鉄衛団ファシズム反ユダヤ主義運動)が起こり、ユダヤ人の前衛芸術家は、ルーマニアの伝統である古典的な美の規範から逸脱し、「ユダヤ人のニヒリズムの精神」を表現していると批判されて[7][14](「退廃芸術」参照)、1938年、フランスへの亡命を決意した。

ブローネル事件[編集]

同年、パリでジャクリーヌ・アブラアムに出会った(1946年に結婚)[4]。8月27日、モンパルナス駅近くのオスカル・ドミンゲスの自宅に若い画家たちが集まって飲んでいたとき、ドミンゲスが酔った勢いでエステバン・フランセスフランス語版と喧嘩になり、ドミンゲスが投げつけたガラス瓶の破片が仲裁に入ったブローネルの左目に突き刺さった。この場に居合わせた岡本太郎は、後に美術雑誌『アトリエ』のヴィクトル・ブローネル特集号に「ブローネルの話」として寄稿している[15]。ブローネルは左目を失い、義眼を入れることになった。ドミンゲスがブローネルに宛てた謝罪の手紙が、国立近代美術館カンディンスキー図書館に保管されている[16]

第二次大戦下[編集]

1940年5月にナチス・ドイツがフランスに侵攻し、同年6月22日に独仏休戦協定が締結されると、ユダヤ人であるブローネルは南部の自由地帯に逃れた。最初はペルピニャンオクシタニー地域圏ピレネー=オリアンタル県)に住むシュルレアリスムの詩人ロベール・リウスフランス語版のもとに身を寄せた[17]。1940年10月3日にユダヤ人の身分に関する最初の法律(ヴィシー政権によるユダヤ人並びに外来者に対する法)が成立した翌10月4日に、「ユダヤ系外国人」の場合は即刻逮捕し、収容所に移送することができるとするユダヤ人排斥法が可決された。また、ヒトラーが「フランス国有の美術品」を除き、「個人蔵、とりわけ、ユダヤ人が所有する芸術品や史料は、安全な場所に保管しなければならない」とする(没収を意味する)命令を発した。ルーヴル美術館の所蔵品を疎開させた貢献によって知られる国立美術館総長でエコール・デュ・ルーヴルフランス語版校長のジャック・ジョジャールフランス語版は、このとき、ユダヤ人個人蔵の美術品も併せて地方の古城に疎開させている[18]

一方、フランスのユダヤ人、反ナチ運動家らを米国に疎開させるために、エレノア・ルーズベルトの支援による緊急救助委員会 (ERC) が結成され、米国のジャーナリストヴァリアン・フライフランス語版マルセイユでこの任にあたった。彼は委員会から知識人芸術家作家約200人の一覧を渡され、仲間とともにマルセイユに到着するとジャン=ロンバール通り63番地の18室の一軒家「エール・ベル邸」を借りた。まもなくこの館にマルセイユに逃れ、査証の発給を待つブルトン、マックス・エルンスト、ヴィフレド・ラム、バンジャマン・ペレ、オスカル・ドミンゲス、シルヴァン・イトキーヌフランス語版らシュルリアリストが集まり、議論の場、優美な屍骸などの制作活動の場となったが、1941年9月にヴィシー政権により追放された[19]。ブローネルも1940年11月にマルセイユでブルトンらに合流し、1941年から数か月間は美術品蒐集家のペギー・グッゲンハイムフランス語版から経済的支援を受けてこの地に滞在した。シュルレアリストらがエール・ベル邸から追放された後も、マルク・シャガールアルマ・マーラーハンナ・アーレントらのユダヤ人を含む2,000人以上がフライの尽力により渡米を果たすことになったが、ブルトンのような確固たる地位も、マルセル・デュシャンやエルンストのようにペギー・グッゲンハイムの愛人として経済的な支援を受けること[20]もなかったブローネルは、アメリカ合衆国から査証発給を拒否され、アルザス出身という偽の身分証明書だけをかろうじて手に入れた[18]。1942年5月15日、マルセイユ港で、ブローネルの友人で最後の米国亡命者としてニューヨーク行きのリヨテ元帥号に乗船したデュシャンを見送った。フランスに残った友人は、レジスタンス運動に参加して、後にゲシュタポに逮捕され、銃殺刑に処されることになる俳優のイトキーヌ、フランスへの帰化を拒否され、パリのアトリエに隠れ住み、一度、美術品蒐集家でアリスティド・マイヨールモデルであったディナ・ヴィエルニフランス語版を介してブローネルに送金したピカソ[18]、そしてブローネルをかくまったルネ・シャールだけであった。

蝋画、独自の作品世界[編集]

ジャクリーヌとともにオート=アルプ県の小村に隠れ住んで制作を続けたが、油絵を描くための画布がなかったので、針金、土、木の葉などを使った。ある日、デュランス川のほとりを歩いているときに、川辺の石に白い線がたくさん走っているのを見て、「この非常に美しい効果を自分のものにしたい」(ルネ・シャールへの手紙)と思い、で溶いた絵具に熱を加えながら板に固定する蝋画(エンカウスティーク)の技法を「再発見」した。2000年も前から存在したとされる技法だが、ブローネルの場合は、板に蝋を流した後、細い刃物で彫りを入れ、ここにクルミ樹皮果皮から採った染料インクを流し込み、最後に染料を拭き取りながら溝に染み込ませるという方法であった。仕上がった作品は、人物を図案化したプリミティヴィズムや造形芸術のような印象を与える[18]恐怖孤独、そして貧困に苦しんだ時期であったが、創作においては逆に、秘教(エソテリシズム)、カバラ(ユダヤ教の神秘主義思想)、錬金術などに対する関心を深め、独自の作品世界を切り開くことになった[21]

1945年にパリに戻り、かつてアンリ・ルソー (1844-1910) が住んでいた14区ペレル通りフランス語版2丁目2番のアパートに入居した。翌46年にルソーへのオマージュとしてルソーの《蛇使いの女》のパロディー《ペレル通り2丁目2番の出会い》を制作した[22]。1946年に亡命先の米国から帰国したブルトンは、デュシャンに連絡を取り、1947年7月7日から9月30日までパリのマーグ画廊フランス語版で第6回国際シュルレアリスム展を開催[23]。この展覧会には、1938年のシュルレアリスム展に出展された《狼・テーブル》をはじめとするブローネルの代表作、およびブルトン、デュシャンのほか、エルンスト、ラム、タンギー、ジョアン・ミロジャン・アルプハンス・ベルメールアーシル・ゴーキーマルセル・ジャンフランス語版フレデリック・キースラーロベルト・マッタケイ・セージドロテア・タニングトワイヤンらの作品が多数展示され、シュルレアリスムの大規模な回顧展となった[24]

ブローネルは戦後の若い世代のシュルレアリストを代表する存在となり、1947年には代表作《シュルレアリスト》を発表している[25]。だが、1948年にアーシル・ゴーキーが44歳の若さで自殺すると、ブルトンはロベルト・マッタに誘惑されたゴーキーの妻が家出したためにゴーキーが自殺したのではないかと疑い、マッタを「知的な失格、道徳的な不名誉」として除名、ブローネルはこれを機に、シュルレアリスムの運動と距離を置くようになった[26]

シュルレアリスム運動から離れた後は、どんな流派や運動にも属さず、「不可視な世界を可視化するための表現」[21]を探究し、「滑稽で夢幻的で不安を呼び起こす強迫的な心象[1]を描き続けた。画風や題材として、しばしば、エロティシズム、(ブルトンの)客観的偶然、夢や無意識の表象、神秘学(オカルティズム)[21]秘教密教人格の分離、精神分析、プリミティヴィズム[1]伝説上の人物、古代文明紋章のようなモチーフ[5](特に古代エジプト先コロンブス期、あるいはアメリカ先住民の芸術)[27]、ヒエラティックな(宗教・神事に関する)題材[28]などが挙げられ、ジョルジョ・デ・キリコらの形而上絵画の影響も指摘される[29]

個展、国際的な活動[編集]

1953年にニューヨークアレクサンドル・イオラスフランス語版画廊で個展を開いた。イオラスはアレクサンドリアエジプト)生まれで、ニューヨークのほか、パリ、ミラノジュネーヴなどでも画廊を開設し、ブローネルの作品を世界に広めた。パリの画廊ではブローネルのほか、ニキ・ド・サンファルジャン・ティンゲリーイヴ・クラインルネ・マグリットパウル・クレーなどの展覧会を行い、前衛芸術家を紹介したことで知られる。

1954年にヴェネツィア・ビエンナーレに出展。58年にミラノのナヴィリオ画廊での個展のために同地に滞在。59年から64年にかけてニューヨーク、シカゴロンドン、パリなどで多くの個展が開催された。65年にはウィーンで初の回顧展が行われ、ハノーファーハーゲン、さらにアムステルダムアムステルダム市立美術館)へ巡回した。

モンマルトル墓地のブローネルと妻ジャクリーヌの墓 - 「私にとって絵画は生、本物の生、私の人生」と刻まれている。

ブローネルは1961年にセーヌ=マリティーム県ノルマンディー地域圏)のサント=マルグリット=シュル=メールフランス語版のヴァストリヴァルに居を定めた。この家を最初は「藁葺きの家」と名付けたが、後に「アタノール英語版(「大いなる業」を行うための錬金術用の炉)」に改名。ここで、1965年に「神話母の日」の連作13点を制作した。人間界、動物界、植物界の調和を描いたこの連作では、彫刻が施され、絵が描かれたも作品の一部となっている。これらの作品は、翌1966年および1976年にパリ7区のアレクサンドル・イオラス画廊で開催されたヴィクトル・ブローネル展で発表された。

1963年にフランスに帰化[7]。1966年のヴェネツィア・ビエンナーレにフランス代表として参加。同年3月12日に死去、享年62歳。

1985年、妻ジャクリーヌにより絵画、素描陶磁器彫刻など作品のほとんどが国に寄贈された(同年、ジャクリーヌ死去)。これらは現在、主にパリ市立近代美術館ポンピドゥー・センター国立近代美術館が所蔵している。

ブローネルは妻ジャクリーヌとともにモンマルトル墓地に眠る。墓石には「私にとって絵画は生、本物の生、私の人生」と刻まれている。

日本での展示等[編集]

2011年2月9日から5月15日まで国立新美術館で開催された「シュルレアリスム展 ― パリ、ポンピドゥー・センター所蔵作品による」では、代表作を含むブローネルの作品約20点が展示された[30]

パリ市立近代美術館で2020年4月1日から8月1日までほぼ半世紀ぶりのブローネル回顧展が開催される。約80点の絵画のほか、素描、彫刻、その他のオブジェを展示。この後、同年の秋にはバーンズ・コレクションアメリカ合衆国フィラデルフィア)へ巡回する[21]

作品[編集]

主な作品[編集]

作品名 材料(基底材)・寸法(cm) 所蔵美術館
《無題》* 1930 (黄土色の)56.1 x 39.0 ポンピドゥー・センター **
《現場》 1930 油彩 パリ市立近代美術館
《眼球を摘出した自画像》 1931 油彩(木)22 x 16.2 ポンピドゥー・センター
《無題》* 1932 茶色のインク(紙)20.7 x 26.8 ポンピドゥー・センター
《光る地虫》* 1933 油彩(キャンバス)50 x 61 ポンピドゥー・センター
《秋》 1933 油彩 パリ市立近代美術館
《バンジャマン・ペレの肖像》 1934 油彩 パリ市立近代美術館
《K氏の奇妙な事例》 1934 墨、水彩グワッシュ(紙)51 x 66 ポンピドゥー・センター
《K氏の集中力》 1934 油彩、セルロイド製の人形、針金(キャンバス)148.5 x 295 ポンピドゥー・センター
《ヒトラー》 1934 油彩(厚紙)22 x 16 ポンピドゥー・センター
《空気の威信》* 1934 油彩(キャンバス)146.0 x 113.5 ポンピドゥー・センター
《優美な屍骸》[31] 1934 鉛筆画の合作(紙) ニューヨーク近代美術館
《欲望の解剖学》* 1935 墨、淡彩(紙)65.5 x 50 ポンピドゥー・センター
《欲望の解剖学》* 1936 インク、水彩(紙)65 x 50.1 ポンピドゥー・センター
《完全な女》* 1936 インク、水彩(紙)65 x 50 ポンピドゥー・センター
《モティーフについて》* 1937 油彩(の板)14 x 18 ポンピドゥー・センター
《夢見る街》* 1937 油彩(樫の板)13.7 x 18 ポンピドゥー・センター
《知性》 1938 油彩 パリ市立近代美術館
《アレクサンドリアのヘロン》* 1939 油彩(キャンバス)55.0 x 46 ポンピドゥー・センター
《マンドラゴラ》* 1939 黒鉛、墨、インクの淡彩(紙)50 x 64.5 ポンピドゥー・センター
《狼・テーブル》* 1939 木製のテーブルキツネ剥製、54 x 57 x 28.5 ポンピドゥー・センター
《キマイラ》 1939 油彩(キャンバス)73 x 60 ストラスブール近現代美術館フランス語版
《裸婦と心霊のような静物》 1939 油彩(キャンバス)91.7 x 72.6 ニューヨーク近代美術館
《賢者の石》 1940 油彩(キャンバス)65.5 x 81.5 サン=テティエンヌ・メトロポール近現代美術館フランス語版
《安定・不安定、テウス平野》 1942 油彩(キャンバス)73 x 54 ポンピドゥー・センター
《パラディスト、あるいはパラディストの主題によるコンポジション》* 1943 油彩(キャンバス)130 x 162 ポンピドゥー・センター
《ノヴァーリスの肖像》 1943 ガラス箱入りアッサンブラージュ石膏、蝋、インク、グワッシュ)21.9 x 15.8 x 7.2 ポンピドゥー・センター
《蛇使い》 1943 蝋画(キャンバス)65.1 x 54 ニューヨーク近代美術館
《魔除け》 1943 獣脂(板)15.9 x 27.4 ニューヨーク近代美術館
《懐疑の勝利》 1946 油彩、インク、蝋画 メニル・コレクションテキサス州ヒューストン
《ペレル通り2丁目2番の出会い》 1946 油彩(アンリ・ルソーへのオマージュ) パリ市立近代美術館
《ジャクリーヌの大旅行》 1946 油彩 パリ市立近代美術館
《法悦》* 1947 油彩(キャンバス)81 x 65 ポンピドゥー・センター
《懐疑の安定化》 1947 油彩 パリ市立近代美術館
《シュルレアリスト》 1947 油彩(キャンバス)60 x 45 ペギー・グッゲンハイム・コレクションヴェネツィア
《傷ついた主体性のトーテムII》* 1948 油彩(キャンバス)91.5 x 72.7 ポンピドゥー・センター
《不幸な体験》 1951 油彩(キャンバス)72.5 x 59.5 ポンピドゥー・センター
《水入らずの脱分極》 1952 油彩(キャンバス)65 x 81 ポンピドゥー・センター
《意識の脱分極》 1952 油彩(キャンバス) パリ市立近代美術館
《指紋》 1957 墨(紙)75.1 x 105.8 ポンピドゥー・センター
《大きな避難所》 1957 油彩 パリ市立近代美術館
《街》 1959 油彩(キャンバス)129.5 x 194.5 ポンピドゥー・センター
《立体人物》 1959 油彩 パリ市立近代美術館
《育む女》* 1962 油彩(キャンバス)130 x 97 ポンピドゥー・センター
《期待、忘却》 1962 油彩 パリ市立近代美術館
《礎と頂》* 1964 油彩(キャンバス)100 x 80.5 ポンピドゥー・センター
《神話の母》連作「神話と母の日」 1965 油彩(キャンバス、合板)144 x 200 x 3 ポンピドゥー・センター
《アエロプラダ》連作「神話と母の日」 1965 油彩(キャンバス、合板)128 x 160 x 3 ポンピドゥー・センター

* 2011年2月9日から5月15日まで国立新美術館で開催された「シュルレアリスム展 ― パリ、ポンピドゥー・センター所蔵作品による」の展示作品(作品名は「出品リスト」による)。**「ポンピドゥー・センター」はポンピドゥー・センター内国立近代美術館。

作品を所蔵する主な美術館・所蔵作品[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c VICTOR BRAUNER. EXPOSITION du 24 au 28 août 2016” (フランス語). Les Amys du Vieux Dieppe. 2019年9月28日閲覧。
  2. ^ a b Ana Maria Rosca (2019年7月30日). “ROUMAINS CELEBRES - Le surréaliste Victor Brauner” (フランス語). lepetitjournal.com. 2019年9月28日閲覧。
  3. ^ Theodore Brauner” (フランス語). www.centrepompidou.fr. Centre Pompidou (ポンピドゥー・センター). 2019年9月28日閲覧。
  4. ^ a b c d e f artistes - VICTOR BRAUNER”. www.galeriehopkins.com. GALERIE HOPKINS - Paris / Art impressionniste, moderne et contemporain. 2019年9月28日閲覧。
  5. ^ a b c VICTOR BRAUNER” (フランス語). Encyclopædia Universalis. 2019年9月28日閲覧。
  6. ^ a b c d Victor Brauner” (英語). The Solomon R. Guggenheim Foundation (ソロモン・R・グッゲンハイム美術館). 2019年9月28日閲覧。
  7. ^ a b c d Victor Brauner” (フランス語). www.ofpra.gouv.fr. Office français de protection des réfugiés et apatrides (OFPRA). 2019年9月28日閲覧。
  8. ^ 75HP, Victor Brauner, Ilarie Voronca, Stephan Roll, Claude Sernet (1924)” (ルーマニア語). Galeria DADA. 2019年9月28日閲覧。
  9. ^ 小冊子『死骸』にはアンドレ・ブルトンの「埋葬拒否」、ルイ・アラゴンの「すでに死者を殴り倒したか」、ポール・エリュアールの「ありきたりの老人」、(後に対独協力に転向することになる)ピエール・ドリュ・ラ・ロシェルの「われわれは騙されない」などが掲載された(Christie's. LIVRES MODERNES ET SURREALISTES. Un Cadavre)。
  10. ^ Unu (REVUE) : avantgarda literara / réd. Sasa Pana, Moldov” (フランス語). La Bibliothèque Kandinsky - Centre Pompidou (ポンピドゥー・センター内カンディンスキー図書館). 2019年9月28日閲覧。
  11. ^ 当時、パリで活動していた岡本太郎も翌1936年に《傷ましき腕》を出展している(岡本太郎記念館岡本太郎年表」)。
  12. ^ フランス人女流写真家のまなざし ― パリ、そして芸術家たち” (日本語). www.mmm-ginza.org. メゾン・デ・ミュゼ・デュ・モンド. 2019年9月28日閲覧。
  13. ^ Exposition Victor Brauner : Galerie Pierre ..., Paris, du 7 au 25 décembre 1954 (sic pour 1934)” (フランス語). bibliothequekandinsky.centrepompidou.fr. La Bibliothèque Kandinsky - Centre Pompidou. 2019年9月28日閲覧。
  14. ^ Yves Kobry (2009年10月3日). “Le monde magique de Victor Brauner” (フランス語). L'Humanité (リュマニテ). 2019年9月28日閲覧。
  15. ^ 『アトリエ』第313号、アトリエ出版社編、婦人画報社、1952年12月。瀧口修造の「ヴィクトル・ブローネル」、鳥見迅彦の「詩(ブローネルの絵について)」なども掲載されている。
  16. ^ Correspondance de Oscar Dominguez adressée à Victor Brauner” (フランス語). www.centrepompidou.fr. Centre Pompidou. 2019年9月28日閲覧。
  17. ^ ŒUVRE ÉTUDIÉE - HOMMAGE À MARCEL DUCHAMP - Victor BRAUNER” (フランス語). Réseau Canopé. 2019年9月28日閲覧。
  18. ^ a b c d Yasmine Youssi (2012年10月19日). “Victor Brauner, itinéraire d'un peintre juif sous l'Occupation” (フランス語). Télérama.fr. 2019年9月28日閲覧。
  19. ^ La villa d’Air Bel à La Pomme à Marseille” (フランス語). Musée de la résistance en ligne. Fondation de la Résistance (Département AERI). 2019年9月28日閲覧。
  20. ^ Peggy Guggenheim, collectionneuse d'art et d'hommes, célébrée par un documentaire” (フランス語). RTBF Culture (2015年11月12日). 2019年9月28日閲覧。 “Le film retrace la vie de celle qui eut pour amants des artistes aussi exceptionnels que Samuel Beckett, Max Ernst et Marcel Duchamp.”
  21. ^ a b c d Sophie Krebs. “Victor Brauner” (フランス語). www.parismusees.paris.fr. Paris Musées. 2019年9月28日閲覧。
  22. ^ La rencontre du 2 bis rue Perrel” (フランス語). parismuseescollections.paris.fr. Paris Musées. 2019年9月28日閲覧。
  23. ^ 久保田有寿「シュルレアリストのアルチンボルド受容に関する一考察 ― ニューヨーク近代美術館「幻想美術、ダダ、シュルレアリスム」展を起点に」『国立西洋美術館研究紀要』第22号、国立西洋美術館、2018年3月、 13-30頁、 ISSN 0919-0872
  24. ^ « LE SURRÉALISME EN 1947 », PARIS, GALERIE MAEGHT, 7 JUILLET-30 SEPTEMBRE 1947” (フランス語). mediation.centrepompidou.fr. Centre Pompidou. 2019年9月28日閲覧。
  25. ^ Victor Brauner, Le Surréaliste, au Musée Peggy Guggenheim à Venise” (フランス語). www.e-venise.com. 2019年9月28日閲覧。
  26. ^ Harry Bellet (2011年12月2日). “Une toile rare du surréaliste Roberto Matta bientôt en vente” (フランス語). Le Monde (ル・モンド). https://www.lemonde.fr/culture/article/2011/12/02/une-toile-rare-du-surrealiste-roberto-matta-bientot-en-vente_1612688_3246.html 2019年9月28日閲覧。 
  27. ^ Prelude to a Civilization,1954 - Victor Brauner Romanian” (英語). The Metropolitan Museum of Art (メトロポリタン美術館). 2019年9月28日閲覧。
  28. ^ Victor Brauner” (フランス語). www.larousse.fr. Éditions Larousse - Encyclopédie Larousse en ligne. 2019年9月28日閲覧。
  29. ^ ARP 1001 | 1947 | Victor Brauner” (フランス語). www.fam1500.uqam.ca. 2019年9月28日閲覧。
  30. ^ 平成22年度 国立新美術館 活動報告” (日本語). 国立新美術館. 2019年9月28日閲覧。
  31. ^ ヴィクトル・ブローネル、アンドレ・ブルトン、イヴ・タンギー、ジャック・エロルドフランス語版(ニューヨーク近代美術館)による鉛筆画の合作。

参考資料[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]