ヴィエッコスラブ・スクリーニャ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
ヴィエッコスラブ・スクリーニャ Football pictogram.svg
名前
カタカナ ヴィエッコスラブ・スクリーニャ
ラテン文字 Vjekoslav ŠKRINJAR
基本情報
国籍 クロアチアの旗 クロアチア
生年月日 (1969-06-02) 1969年6月2日(50歳)
出身地 スラヴォンスキ・ブロド
身長 172cm
体重 67kg
選手情報
ポジション MF
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ヴィエッコスラブ・スクリーニャ(ヴェコスラフ・シュクリニャール、Vjekoslav Škrinjar、1969年6月2日 - )は、クロアチア出身の元サッカー選手。現役時代のポジションミッドフィールダー

来歴[編集]

1987年に地元のスラヴォンスキ・ブロドでキャリアをスタートさせ、1989年に名門ディナモ・ザグレブに移籍。クロアチア人サポーターと警官隊との乱闘騒動に発展した1989年5月13日レッドスター・ベオグラード戦にも居合わせた。サポーターを守るために警官隊に立ち向かったため後に規律委員会にかけられたが、ズヴォニミール・ボバンが出場停止処分を受ける一方、スクリーニャは処分を免れた。[1]キャリアのピークとなった1993年には、ドイツやイタリアのクラブから数多くのオファーを受けたが、左足骨折により8ヶ月の治療を余儀なくされたことで、契約直前だったウディネーゼ移籍の話は流れた。

1995年よりJリーグガンバ大阪に移籍し、2シーズン在籍。彼に移籍を持ちかけたのは元ディナモ・ザグレブ監督で、1996年からガンバ大阪でも監督を務めたヨジップ・クゼだった。1年目は靭帯損傷鎖骨骨折でシーズンの半分以上を棒に振った。

その後クロアチアのNKザグレブセゲスタ・シサクを経て、2000年からはドイツのマインツ05でプレーしていたが、ストレス性の気管支喘息で試合中に3度も失神し、医者にこれ以上のプレーを禁じられたため引退した。

日本滞在中に生活に馴染む手助けをしてくれた宮本恒靖への敬意から、当時生まれた娘は宮本にちなんでミアと名付けられた。

所属クラブ[編集]

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1995 G大阪 - J 15 1 0 0 4 0 19 1
1996 - 15 2 0 0 11 2 26 4
通算 日本 J 30 3 0 0 15 2 45 5
総通算 30 3 0 0 15 2 45 5

関連項目[編集]

参考文献・脚注[編集]

「菊とフットボーラー 第89回」『ワールドサッカーグラフィック』(ぴあ、2005年2月号 Vol.139、128ページ)

  1. ^ 現地発!! クロアチア・サッカーレポート - 検証-1990.5.13”. クロアチアに行こう!!. 2012年7月10日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2008年6月7日閲覧。

外部リンク[編集]