コンテンツにスキップ

ヴァルラム2世 (リンブルフ伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴァルラム2世
Walram II.
リンブルフ伯
下ロートリンゲン公
在位 リンブルフ伯1119年 - 1139年
下ロートリンゲン公1128年 - 1139年

出生 1085年ごろ
死去 1139年8月6日
配偶者 ユッタ・フォン・ヴァッセンベルク
子女 ハインリヒ2世
ゲルハルト
ベアトリクス
ヴァルラム
家名 リンブルフ家
父親 リンブルフ伯下ロートリンゲン公ハインリヒ1世
母親 アーデルハイト・フォン・ポッテンシュタイン
テンプレートを表示

ヴァルラム2世(Walram II., 1085年ごろ - 1139年8月6日)は、リンブルフ伯およびアルロン伯(在位:1119年 - 1139年)。また、ドイツ王ロタール3世より1128年に下ロートリンゲン公に任ぜられた[1]

生涯

[編集]

ヴァルラム2世はリンブルフ伯下ロートリンゲン公ハインリヒ1世とアーデルハイト・フォン・ポッテンシュタインの息子である[1]。父ハインリヒはハインリヒ5世が王位についた際に、ルーヴェン伯ゴドフロワ1世に公位を渡すことを余儀なくされたが、公爵の称号は保持していた。その後、ロタール3世の即位により、ゴットフリート1世は下ロートリンゲン公位をヴァルラムに譲ることを余儀なくされた。しかしゴットフリート1世はこれに不満を持ち、特にシント=トロイデン修道院のフォークトであったドゥラス伯に関する対立において戦争が勃発した。1129年、ヴァルラムとリエージュ司教アレクサンドル1世・フォン・ユーリヒは、ドゥラス近くのウィルデレンでゴットフリート1世の軍を破ったが[2]、ブラバント家とドゥラス家はその後、3年後に合意に達するまで戦いを続けた。ヴァルラムとゴットフリート1世は最終的に和解したが、ゴットフリート1世は公爵の称号を使い続けた。

結婚と子女

[編集]

ヴァルラム2世は1107年から1110年の間に、ゲルデルン伯ゲルハルト1世の娘ユッタ・フォン・ヴァッセンベルクと結婚した[3]。1129年、ヴァルラム2世はデュースブルクの森林監督官となった。1139年、ロタール3世が死去し、ヴァルラム2世はコンラート・フォン・ホーエンシュタウフェンを支持し、コンラートは王に選ばれた。ヴァルラムはその後まもなく亡くなるまで、新王に忠実であり続けた。ヴァルラムの死後、下ロートリンゲン公位にはルーヴェン伯ゴドフロワ2世がついた。

ヴァルラム2世とユッタの間には以下の子女が生まれた。

  • ハインリヒ2世(1111年頃 - 1167年) - リンブルフ公[4]
  • ゲルハルト - 出自不明のエリーザベトと結婚し、1子ゲルハルト(1148年生)が生まれた
  • ベアトリクス(1164年以降の7月12日没) - ラウレンブルク伯ループレヒト1世(ナッサウ家祖)と結婚
  • ヴァルラム(1147年1月5日没)[4]
  • 娘(1150/51年没) - テクレンブルク伯エクベルトと結婚

脚注

[編集]

参考文献

[編集]
  • Bijsterveld, Arnoud-Jan (1999). “Gift exchange, landed property and eternity. The foundation and endowment of the Promonstratensian priory of Postel (1128/1138-1179)”. Land and Ancestors: Cultural Dynamics in the Urnfield Period and the Middle Ages in the southern Netherlands. Amsterdamn University Press. pp. 331-348 
  • Gislebertus (of Mons) (2005). Chronicle of Hainaut. The Boydell Press 
  • The Origins of the German Principalities, 1100-1350: Essays by German Historians. Routledge. (2017) 
先代
ハインリヒ1世
リンブルフ伯
1119年 - 1139年
次代
ハインリヒ2世
先代
ゴットフリート6世
下ロートリンゲン公
1128年 - 1139年
次代
ゴットフリート7世