ロツマ島

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ロツマ島(Rotuma)はフィジーに属する島。ロトゥマ島とも表記。島には先住民であるロツマ人が住んでいる。面積は46平方km。[1]

ロツマ島
面積 46 km²
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歴史[編集]

人類の到達[編集]

サモアからポリネシア系の人間が住み着いたのがロツマ島の始まりである。

島に伝わる伝説[編集]

サモアにラホという男がいた。この男他の島民から嫌われ島を出ることを決めた。「かご2杯の砂を載せ船出しろ」そう神のお告げを受け妻と6組の男女とともに島を出た。疲れ果てた時また神のお告げを受けた。「砂を海に捨てよ。」捨てた砂は島になりロツマ島になった。7組の男女は意見が合わず7つの村が生まれた。

西洋人との接触[編集]

1791年に初めて西洋人が島へ訪れた。それ以降水や食料補給のために西洋人は訪れるようになり、ろくでなし船員が強制下船させたり脱走兵が逃げ込むこともよくあった。1840年代には宣教師がトンガ人と共に訪れた。19世紀後半に7つの村が2つの陣営に分かれ争いとなったのでイギリスに保護を求めた。

イギリス保護領時代[編集]

1881年にロツマ島はイギリスの保護領になり、同じく保護領のフィジーと一緒に植民地として統治されるようになった。ロツマ島はフィジーと遠く離れていたため植民地としはほぼ放置状態で流刑地として使われた。行政官のイギリス人と警察官、コプラを買う商社の駐在員ぐらいでロツマ人は以前と変わらず首長制の暮らしをしていた。

フィジー独立[編集]

1970年のフィジー独立時にはフィジーの保護領として一緒にイギリスから独立した、しかし島の人間からはイギリスに保護を求めて植民地になったのであってフィジーの保護領になるために植民地になったのではないと反発が出た。

独立騒動とヘンリー・ギブソン[編集]

1987年10月にフィジーでクーデターが起こるとロツマ島の自称「王」であるヘンリー・ギブソンがフィジーから独立しかつてイギリス女王と結んだ保護条約を守るために独立すると主張した。

ギブソンは島生まれのスコットランド移民の子孫で母親は首長の娘であり少年時代にニュージーランドに移住、その後日本で空手等の武術の修行をし1891年のイギリス統治100周年の式典に招かれこれが独立運動の関わるきっかけとなった。村の首長が死んだ際新しい首長を別の村から招くことにギブソンは反対し自分を首長のしろと求めたが叶わず島の伝説の王復活を宣言し自ら王位に就いた。1987年5月にクーデターが起きると島の評議会は議論を始めフィジー残留を決定、9月に2度目のクーデターが起きても決定は変わらなかった。ギブソンは10月ロツマ島の王としてロツマ共和国の独立を宣言し嘆願書を元宗主国のイギリスと国連事務総長に送ったが無視された。12月にギブソンがデザインしたロツマ共和国旗が島の文化センターに英国旗と米国旗と一緒に掲げられた。

独立反対派は国旗を発砲する事件が起きたのでフィジー軍によってロツマ島は制圧、独立派が村の代表を解任して新しい独立派の代表を選出、通報され独立派の村代表が逮捕される事件が起こった。フィジー憲法はクーデターにより破棄した事によりロツマ島にはフィジーの司法管轄権は及ばないのかが一つの争点となったが評議会がフィジー残留を決めたので及ぶと判断され執行猶予付きの罰金刑が言い渡された。ギブソンはニュージーランドのにいたので逮捕されることもなかった。自称ロツマの王であるギブソンが支持された背景にはフィジー本土から遠く離れた辺境であるロツマ島の開発が遅れていたこと、税関はないためにコプラなどの輸出で不利であったこと、フィジーを経由して海外製品が輸入される為に物価が高いことなどフィジー政府への不満があり独立すれば先進国からの支援を直接ロツマ島に利用できる、フィジーを介さず直接貿易することで物価が下がる等の実利的な面もあった。

1990年の憲法改正から2014年憲法改正まで[編集]

1990年の改正された憲法で下院にロツマ人議席枠が設置された。上院にも議員を選出していたがロツマ島の枠ではなくロツマ島を含めた他の地区としての議員であった。2001年にはロツマ島独立運動は合法の判決が裁判所より下され、非暴力であれば独立運動を行っても良いとなった。2006年のクーデターで廃止された憲法の代わりになる新憲法では議会は一院制、フィジー全土を単一の選挙区とした比例となりロツマ人枠が廃止された。

出典[編集]

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吉田一郎 『消滅した国々』 社会評論社2012年11月30日、671頁~676頁。ISBN 9-7847-8450-970-6。