ロッジP2

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ロッジP2(Loggia P2、正式名称:Propaganda Due)は、イタリアに拠点を置くフリーメイソンのグランド・ロッジ「イタリア大東社 (Grande Oriente d'Italia)イタリア語版」傘下で活動していたロッジである。メンバーの違法行為を問われ1976年にフリーメイソンのロッジとしての承認を取り消された後も、元メンバーにより秘密結社的な存在として運営されていた。

概要[ソースを編集]

活動開始[ソースを編集]

1877年に、「Propaganda Massonica」の名でフリーメイソンのロッジとしての活動を始めた。その後ベニート・ムッソリーニ率いるファシスト党政権下の1925年に全てのフリーメイソンが活動を禁止されたために活動を停止し、その後は秘密裏に活動を行った。

その後第二次世界大戦後の1945年にフリーメイソンの活動が解禁されたことを受けて、「Propaganda Due」の名で、イタリアに拠点を置くフリーメイソンのグランド・ロッジ「イタリア大東社」傘下のロッジとして活動を再開した。しかし1960年代に至るまで、その活動は政治的な色彩を帯びたものではない上に活発なものではなく、数回の会合を開いていた程度にすぎなかった。

ジェッリの入会と反共化[ソースを編集]

リーチオ・ジェッリ

しかし1966年に、元ファシスト党員で、極右政党であるイタリア社会運動(MSI)の幹部で、第二次世界大戦におけるドイツの戦犯容疑者のブラジルアルゼンチンなどの南アメリカ諸国への海外逃亡を幇助した「オデッサ」と手を組み助けた人物としても知られたリーチオ・ジェッリが入会してからは、ジェッリ自らが活動を活発化させ主導権を握り、1971年には代表(グランド・マスター=親方)に就任した。

この前後に、東西冷戦下のイタリアにおいてソビエト連邦と一定の距離を置くと見せかけた「ユーロコミュニズム」路線を敷いた、エンリコ・ベルリンゲル書記長率いるイタリア共産党が支持を増し、国政における議席を増やしたほか、ボローニャフィレンツェなどの大都市の首長に共産党員が選出されるなど活動が活発化した。

またボリビアニカラグアなどの南アメリカ諸国においてもキューバチェ・ゲバラなどの共産主義者が反独裁運動に浸透を図る中で、ジェッリ代表の主導の元、これらの左傾化に危機感を持つイタリアの右派政治家イタリア軍人を中心に、アルゼンチンのファン・ペロン政権や、当時軍政下にあったブラジルやウルグアイなどの南アメリカ諸国の軍事政権の政治家や軍人もメンバーに持ち、さながら冷戦下における反共主義者の集まりとして活動していた。

違法活動[ソースを編集]

反共主義活動の一環として、ジェッリ代表などを中心とした一部のメンバーが、アルゼンチンやボリビア、チリなどの南アメリカの軍事独裁政権や、民主的な選挙で選択された政権に対する軍事クーデターを起こそうと画策している軍部に向けて、戦闘機ミサイル装甲車などの武器買い付けを行った(1982年にアルゼンチンとイギリスとの間に起きたフォークランド紛争で、アルゼンチン空海軍機に搭載され、多くのイギリス海軍艦船を沈め有名になったフランス製の「エグゾセ・ミサイル」も、ジェッリ代表やメンバーにより調達されたものであることが明らかになっている)。

またジェッリ代表ら主要メンバーは、1970年代にアルゼンチンで、反政府的な左翼運動家や反政府ゲリラに対して「汚い戦争」を進めていた、軍人出身のホルヘ・ラファエル・ビデラ大統領を資金面で積極的に支援していた。しかしこれらの資金の多くが違法に調達されたものであった。

さらにジェッリ代表やアルゼンチンのメンバーは、第二次世界大戦後に戦犯容疑者となったものの、ジェッリやバチカンの協力を得てボリビアに逃亡した後に同国の軍事政権のアドバイザーを務めていた元ナチス親衛隊中尉クラウス・バルビーや、同じく元ドイツ軍士官でムッソリーニ救出作戦の指揮官として知られ、ドイツの敗戦後はスペインや南アメリカで暮らしていたオットー・スコルツェニーとも、これらの武器の輸出を通して関係を続けていた。

さらにジェッリ代表を含む複数のメンバーは、バルビーやスコルツェニーのみならず、これらの南アメリカの軍事独裁政権を同じく支援していたアメリカ中央情報局(CIA)との関係も噂されている[1]

認証取り消し[ソースを編集]

この様な違法な活動が明らかになったことが、当時共産党などの左翼政党が大きな勢力を維持していたイタリア国内で大きな疑惑と批判を浴び、1974年には「イタリア大東社」傘下のロッジとしての承認取り消しが提起され、1976年に「イタリア大東社」傘下のロッジとしての認証が取り消され、フリーメイソンから正式に破門されることとなった[2]

しかし、その後もジェッリは「イタリア大東社」内の他のロッジで活動を続けた上に、他のメンバーも、イタリアの政治家や軍人、極右活動家を中心に他のロッジのメンバーとなりつつ秘密裏に「ロッジP2」として秘密裏に活動を続け、言葉通りの「秘密結社」的存在として活動した。

コリエーレ・デラ・セラ紙への経営介入[ソースを編集]

ポール・マルチンクス枢機卿

その後1977年には、当時の与党であるキリスト教民主党との対立により、イタリアの主要銀行からの融資を止められ資金難に陥っていた日刊紙「コリエーレ・デラ・セラ」の親会社であるリッツオーリ社に、左派で知られたピエーロ・オットーネ編集長を解雇することを条件にジェッリが融資を持ちかけた。なお、リッツオーリ社のアンジェロ・リッツオーリ社長は「ロッジP2」のメンバーである[3]

その後ジェッリは、自らと関係の深かったバチカン銀行の総裁で、枢機卿でもあるポール・マルチンクスが違法に調達した資金をリッツオーリ社に提供し、その後オットーネ編集長は解雇された。以降同紙は現在に至るまで保守主義的な論調を取ることとなった。

ボローニャ駅爆破事件[ソースを編集]

爆破されたボローニャ中央駅

1980年8月2日の朝に、ボローニャにあるボローニャ中央駅で爆弾テロ事件が発生し、駅舎と駅構内に停車していた客車が破壊され、これにより85人が死亡、200人以上が負傷した。当初この事件は鉄道事故と思われていたものの、事件後の調査で捜査員が爆心地近くで金属片とプラスチック片を発見したことにより、テロ事件と断定され捜査が開始された。

事件後にはローマジェノバミラノのマスコミに、極左テロ組織の「赤い旅団」と、ネオファシズム組織の「武装革命中核」(Nuclei Armati Rivoluzionari/NAR)が犯行を名乗り出たが、 その後武装革命中核は「事件とは無関係で、犯行声明はでっち上げである」という声明を3日夜発表した[4]

しかしその後捜査当局は武装革命中核がテロの実行犯と断定し、さらに「ロッジP2」のメンバーで、イタリア軍安全情報局(SISMI)のナンバー2のピエルト・ムスメキ将軍が、ジェッリ代表の事件への関与の嫌疑をそらし、さらに極右組織「Terza Posizione」のリーダー達に嫌疑をかけるための偽装工作を行ったとして逮捕された。その後行われた裁判で、ジェッリとムスメキ将軍は捜査妨害などの罪で有罪判決を受けた。

なお、事件の動機は詳しくは判明していないが、爆破テロを行い多くの市民を殺害しその罪を共産主義者になすりつけることで、これまでの暴力的革命路線を放棄し、ソビエト連邦との距離を取るユーロコミュニズム路線を取ったことでボローニャやローマ、フィレンツェなどの北部イタリアにおける大都市の首長を出すなど、当時イタリア国内で勢力を拡大していた共産主義者による脅威と、イタリア共産党との協力路線である「歴史的妥協」をすすめ、その結果共産党の勢力拡大を招いたキリスト教民主主義フランチェスコ・コッシガ政権の極左対策への無策をアピールし、世論を極右政党に対し有利な方向に誘導することが目的であったのではないかと言われている。

「P2事件」[ソースを編集]

シルヴィオ・ベルルスコーニ

1981年3月に、ボローニャ中央駅爆弾テロ事件をはじめとする極右テロや複数の経済犯罪、さらに政府転覆謀議などへの関与の容疑でイタリア当局から逮捕状が出されていたジェッリ代表のナポリの別宅をイタリア警察が捜索した際に、既にフリーメイソンのロッジとしての認証を取り消されていた「ロッジP2」に、下記の10人を含む932人のメンバーがいることがジェッリ代表が隠し持っていたリストから確認され、イタリア政府より発表された[5]

その中には、第二次世界大戦後の王制廃止により、スイスポルトガルでの亡命生活を余儀なくされていたヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイアイタリア王国王太子の他にも、30人のイタリアの現役将軍、38人の現役国会議員、4人の現役閣僚、情報機関首脳、後のイタリア首相となるシルヴィオ・ベルルスコーニなどの実業家大学教授などが含まれており、「P2事件」と呼ばれイタリア政財界のみならず、ヨーロッパ中を揺るがす大スキャンダルとなり、ときのアルナルド・フォルラーニ首相は辞任に追い込まれた[6]

破門[ソースを編集]

このような事実が明らかになった結果、これらのメンバーとの関係を疑われることになってしまったフリーメイソン内の委員会は、すでにロッジとしての認証を正式に取り消していた「ロッジP2」そのものを再度正式に「破門」したと発表した。

さらに、スイスに逃亡していたジェッリ代表を含む「ロッジP2」メンバーの中で、「ロッジP2」の認証取り消し後に他のフリーメイソンのロッジのメンバーとして活動していた者全員を、「フリーメイソンの名をかたった上で、フリーメイソンにふさわしくない活動を行った」として、1981年10月31日に正式に破門した。 また同年12月24日には、アレッサンドロ・ペルティーニ大統領が「ロッジP2」を「犯罪組織」と指名し、議会に調査委員会が発足した。

カルヴィ暗殺事件[ソースを編集]

ロベルト・カルヴィ
アンドレオッティとジェッリ

バチカン銀行の主力取引行で、「ロッジP2」メンバーであるロベルト・カルヴィが頭取を務めていたアンブロシアーノ銀行が、1982年に10億ドルから15億ドルともいわれる使途不明金を出して破綻し、カルヴィが逃亡先のイギリスロンドン暗殺された。なお死体が発見された時点では「自殺」とされたが、その後の調査で暗殺であると認定された。

後にジェッリは逃亡先のジュネーヴで逮捕され、1980年8月2日に行われ多数の死傷者を出したボローニャ駅爆破テロ事件やアンブロシアーノ銀行破綻、カルヴィ暗殺に関与した暗殺犯の1人としてスイスとイタリアで起訴され有罪判決を受け服役したものの、数回に渡り脱獄と再逮捕を繰り返した[7]。なお、カルヴィ暗殺への関与については「証拠不十分」として無罪となった[8]

またジェッリの脱獄には、これまでに何度も首相を含む主要閣僚を務めていたジュリオ・アンドレオッティをはじめとするイタリアの政界関係者のバックアップがあったと言われている。

なお、アンブロシアーノ銀行破綻とそれに続くカルヴィ暗殺事件には、ジェッリ代表やマルチンクス大司教をはじめとするバチカン関係者やイタリア政財界のみならず、マフィア関係者やユダヤ系金融家で大富豪ジェームズ・ゴールドスミス、果ては事件当時のローマ教皇であったヨハネ・パウロ2世とともに、出身国であるポーランドの反体制(=反共産主義政府)組織である「連帯」を資金援助していたCIAに至るまで、様々な組織の関与が噂された。

現在[ソースを編集]

このように、「ロッジP2」とのそのメンバーの行動はイタリア内外から多くの批判を浴びたものの、その後もベルルスコーニがイタリア首相の座に就くなど、元メンバーの多くがイタリア内外で活躍し続けている。

なおジェッリは2003年に「P2再生プラン」を発表し話題を呼んだものの、実際に再興はされていない。また2007年に「カルヴィ暗殺事件」で無罪判決を受けた後には、自らの自叙伝的映画のための権利を譲渡する契約をアメリカの映画プロデューサーとの間に結んだものの、これらの計画が実現しないまま2015年12月にこの世を去った。

主なメンバー[ソースを編集]

イタリア[ソースを編集]

ベルルスコーニが加入した際の会費の領収証
  • リーチオ・ジェッリ:最後の代表で実業家投資家。1919年ピストイア生まれ。
  • ロベルト・カルヴィ:1920年生まれ。アンブロシアーノ銀行の頭取で、シンドーナとの関係が深かった[9]。同行が破綻した1982年に、逃亡先のイギリスのロンドンで暗殺された。後にジェッリが暗殺犯の1人として起訴されたが「証拠不十分」として無罪となった。
  • ピエルト・ムスメキ:イタリア軍安全情報局(SISMI)のナンバー2であったが、ボローニャ駅爆破テロ事件の容疑者としてジェッリとともに逮捕された。
  • ミーノ・ペコレッリ:ジャーナリスト。極左テロ組織の「赤い旅団」によるアルド・モーロ元首相殺害事件へのジュリオ・アンドレオッティ首相による関与を暴く記事を執筆した後の1979年3月に暗殺された。後にアンドレオッティが起訴され有罪となったがその後逆転無罪となった。

イタリア以外[ソースを編集]

  • ラウル・アルベルト・ラスティーリ:1971年から1973年までアルゼンチンの内務大臣を務めた。
  • ホセ・ロペス・レガ:アルゼンチンの社会福祉担当大臣

小説[ソースを編集]

  • 『P2』ルイス・ミゲル・ローシャ著、木村裕美訳、新潮社 2010年
原著 『O ULTIMO PAPA(LA MUERTE DEL PAPA』2006年。オリジナルはポルトガル語、訳はスペイン語版から。

索引[ソースを編集]

  1. ^ 「法王暗殺」デイビッド・ヤロップ著 文藝春秋 1985年
  2. ^ 「法王暗殺」デイビッド・ヤロップ著 文藝春秋 1985年
  3. ^ 「イタリア・マフィア」シルヴィオ・ピエロサンティ著 ちくま新書 2007年
  4. ^ ボローニャ惨事は爆弾テロ 犠牲者に早大生 死者84、負傷188人 読売新聞 1980年8月4日夕刊1ページ
  5. ^ 「法王暗殺」デイビッド・ヤロップ著 文藝春秋 1985年
  6. ^ 「イタリア・マフィア」シルヴィオ・ピエロサンティ著 ちくま新書 2007年
  7. ^ 「法王暗殺」デイビッド・ヤロップ著 文藝春秋 1985年
  8. ^ 「法王暗殺」デイビッド・ヤロップ著 文藝春秋 1985年
  9. ^ 「法王暗殺」デイビッド・ヤロップ著 文藝春秋 1985年

関連項目[ソースを編集]