ロサンゼルス・タイムズ爆破事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
『ロサンゼルス・タイムズ』爆破事件(Los Angeles Times bombing)
Photo-los-angeles-times-building-post-bombing.jpg
『ロサンゼルス・タイムズ』ビルディングのがれき 1910年
場所 アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス
日付 1910年10月1日(土曜日)
午前1時07分
標的 『ロサンゼルスタイムズ』ビルディング(Los Angeles Times Building)
攻撃手段 時限爆弾、火災
武器 ダイナマイト
死亡者 21人
負傷者 100人超
犯人 ジョン・J・マクナマラ(John J. McNamara)
ジェームズ・B・マクナマラ(James B. McNamara)

『ロサンゼルス・タイムズ』爆破事件(ロサンゼルスタイムズばくはじけん、Los Angeles Times bombing)は、1910年10月1日(土曜日)カリフォルニア州ロサンゼルスにあるロサンゼルス・タイムズの社屋が ダイナマイトによって爆破された事件である。 この事件はインターナショナル・アソシエーション・オヴ・ブリッジ・ストラクチュアル・オーナメンタル・アンド・レインフォーシング・アイアン・ワーカーズ(International Association of Bridge, Structural, Ornamental and Reinforcing Iron Workers)に所属する職能別組合員によって引きおこされた。 爆発による火災で、ロサンゼルス・タイムズの社員21人が死亡し、100人を超える負傷者が出た。ロサンゼルス・タイムズはこれを「世紀の犯罪」("crime of the century")と命名した。

1911年4月にジョン・J・マクナマラ(John J. ("J.J.") McNamara)およびジェームズ・J・マクナマラ(James B. ("J.B.") McNamara)兄弟が爆破の容疑で逮捕された。2人の公判はアメリカ労働運動にとって『有名な裁判事件』(cause célèbre)となった。ジェームズは、爆発物を仕掛けたことを認め、有罪判決を下され、終身刑を言い渡された。ジョンは、地元の製鉄工場を爆破したことで、15年間の実刑に服し、オーガナイザーとしてアイアン・ワーカーズ組合に戻った。

背景[編集]

1896年にアイアン・ワーカーズ・ユニオン(Iron Workers Union)が結成された。季節労働であり、所属する労働者の大半は仕事に慣れていなかったため、組合は弱く、産業の大部分は1912年まで未組織の状態であった。その年、組合は、アメリカン・ブリッジ会社(American Bridge Company)に対するストライキ権を勝ち取ったが、この会社はあらたに結成されたUSスチール会社の従属会社であった。アメリカン・ブリッジ業界内での力が強く、は1年もしないうちにアイアン・ワーカーズ・ユニオンはほとんどすべてのアメリカ合衆国の製鉄業者を組織した上に、ユニオン・ショップ条項を含む、署名された契約を勝ち取りもした[1][2]。マクナマラ兄弟は、アイルランド系アメリカ人の職能別労働組合主義者であった。ジョン(J.J.としても知られる)と弟ジェームズ(J.B.としても知られる)のマクナマラ兄弟は、(アイアン・ワーカーズ(Iron Workers))内にある、インターナショナル・アソシエーション・オヴ・ブリッジ・アンド・ストラクチャル・アイアン・・ワーカーズ(International Association of Bridge and Structural Iron Workers)という組織で働いていた。

アメリカン・ブリッジ会社に対するストライキ[編集]

1903年に、USスティールおよびアメリカン・ブリッジ会社の職員は、鉄鋼と鉄の産業雇用者の連合であるナショナル・エレクターズ・アソシエーション(National Erectors' Association)を結成した。ナショナル・エレクターズ・アソシエーションの主なゴールは、オープン・ショップを推し進め、雇用者が自産業の組合をこわすのを助けることであった。雇用者らは、組合つぶし運動に従事するために、労働スパイ、扇動工作員、私立探偵事務所、そしてスト破りを利用した。地元の州及び連邦の法執行官らは、この運動に協力したし、運動はしばしば組合員に対する暴力を用いた。オープンショップ運動によって強い圧力を加えられて、アイアン・ワーカーズは1905年に、闘士フランク・M・ライアン(Frank M. Ryan)を組合長(president)に、ジョン・J・マクナマラ(John J. McNamara)を出納係(secretary-treasurer)に選んで反応した。[3]1906年に、アイアン・ワーカーズは、契約を保持しようと企ててアメリカン・ブリッジでストライキを行った[3][4][5]しかし、オープンショップ運動は、大成功であった。1910年までに、USスティールは、複数の工場からすべての組合を追い出すことにほぼ成功した。他の製鉄会社の組合もまた、姿を消した。ただアイアン・ワーカーズだけが持ちこたえた(ただしアメリカン・ブリッジでのストライキは続いた)[6]

ダイナマイト運動[編集]

死に物狂いの組合職員らは、自分らが経験した挫折に反撃するために暴力に訴えた。1906年後半から、アイアン・ワーカーズの、国及び地方の職員らは、ダイナマイト爆破運動を始めた。運動は会社を交渉のテーブルにつかせることを目的としており、工場を破壊し人を殺害することではなかった。1906年と1911年との間に、アイアン・ワーカーズは110の鉄工所を爆破したが、損害はわずか数千ドルであった[3][4]。ナショナル・エレクターズ・アソシエーションは、アイアン・ワーカーズの執行委員会の1人ハーバート・S・ホッキン(Herbert S. Hockin)が彼らの雇われスパイであったから、爆破事件が誰の責任であるかをよく知っていた[3]

ロサンゼルス・ストライキ[編集]

ロサンゼルスの雇用者らは、半世紀近くにわたって組織化に抵抗し、成功していた。ロサンゼルスタイムズの発行者ハリソン・グレー・オーティス(Harrison Gray Otis)は、強い反労組の考えであった。オーティスは、1896年に地元のマーチャンツ・アソシエーション(Merchants Association)にまず加入し、それからこれを支配して、エンプロイヤーズ・グループ(Employers Group)(口語では M&M として知られる)と改名したり、これと自分の新聞の大読者を利用して、市内の数少ない残りの組合を終わらせる20年間の運動の先鋒にたてた[3][7]。賃金を高く維持する組合がないので、ロサンゼルス市内のオープン・ショップの雇用者らは、高度に労働組合化されたサンフランシスコ市内で設けられた賃金基準を掘り崩すことができた。サンフランシスコ市内の諸組合は、市内の雇用者らもまたやがて賃金引き下げを要求し始め、オープンショップ活動を始めるのではないかと恐れた。彼らに見えた唯一の解決策は、ロサンゼルスを再び労働組合化することであった[8][9]。サンフランシスコの諸組合は、ロサンゼルス市内に残っている数少ない強い組合の1つアイアン・ワーカーズにつよく依存した。労働組合化運動は1910年春から始まった。1910年6月1日(水曜日)に、1500人のアイアン・ワーカーズは、市内の製鉄所でストライキをして、1時間あたり50セントの最低賃金(2018年ドルで13ドル26セント)と割増賃金をかちとった。M&Mは、ストライキを破るために35万ドル(2018年換算で、930万ドル)をあつめた。上位裁判所の裁判官は、ピケッティングを除くすべてを禁止する、一連の差止め命令を出した。7月15日(金曜日)に、ロサンゼルス市議会は全会一致で、ピケッティングと「公共の街路で大きなあるいは異常な口調で話すこと」("speaking in public streets in a loud or unusual tone")を禁止し、禁錮50日間または罰金100ドルまたはその両者を罰則とする条例を制定した。大部分の組合員が、差止め命令に、あるいは命令に、従うことを拒絶し、472人のストライキ者が逮捕された。しかしストライキは有効であると判った:10月までに、13の組合があらたに結成され、市内の組合員は60パーセントちかくまで増加したのである[10]

爆破事件直前[編集]

ストライキ開始の2日後、1910年6月3日(金曜日)に、ウェスト・コーストのアイアン・ワーカーズ・ユニオンの職員のトップ ユージーン・クランシー(Eugene Clancy)は、ジョン・マクナマラ宛てに手紙を書いた:「ところで、ジョー、ぼくがここで欲しいのはホッキンだ」("Now, Joe, what I want here is Hockin")と、ダイナマイト爆破担当の組合職員ハーバート・ホッキン(Herbert Hockin)に言及した。しかし、ホッキンは、爆破の仕事のためにとっておいた金を取っている現場をおさえられていて、ジョン・マクナマラはもはや彼を信用していなかった。マクナマラは、セントルイスのジャック・バリー(Jack Barry)というべつのダイナマイト爆破者に、カリフォルニアに行くように頼んだが、バリーは目標のことを知ると仕事を断った。ジョンは最後には、弟ジェームズに爆破任務を託してカリフォルニアに送った[11]

爆破事件[編集]

1910年10月1日(土曜日)の爆破事件後のロサンゼルスタイムズの社屋。「要塞」("the fortress")とあだ名づけられた1886年築のれんがと花崗岩のビルは、現在の1935年築のビルから通り向こうに位置する、ブロードウェー(Broadway)とファースト・ストリート(First Street)にあった[12]

1910年10月30日(日曜日)の晩に、ジェームズは、ロサンゼルス・タイムズの社屋とインク通り("Ink Alley")として知られるロサンゼルス・タイムズ別館とのあいだの狭い路地(alley)に、ダイナマイトを詰めたスーツケースを置いた。スーツケースは、輪転機の可燃性インクの複数の樽の近くに置かれた。ダイナマイトには、手巻きの機械時計につなげられた雷管があって、午前1時に電池回路を閉じ、爆発を起こすようにセットされていた。彼は、それからロサンゼルス・タイムズ発行者グレー・オーティスの家とM&Mの秘書(secretary)フェリックス・ゼーハンテラール(Felix Zeehandelaar)の家の隣に、同様の複数の爆弾を置き、これも午前1時に爆発するようにセットした。その後、ジェームズはサンフランシスコ行きの列車に乗り込み、ロサンゼルス・タイムズの社屋に仕掛けられた爆弾が爆発したとき市外に居た[13]

この爆破事件により、これまでは非組織の作業場に仕掛けられていたターゲットが、反労組指導者の自宅、反労組の編集方針で有名な新聞にまで広がった[14]

1910年10月1日(土曜日)午前1時07分に、ロサンゼルスのファースト・ストリート(First Street)とブロードウェー(Broadway)にある、3階建てのロサンゼルスタイムズ社屋の外の路地で爆弾が爆発した。スーツケース爆弾のなかの16本のダイナマイトではビル全体を破壊するのには不十分であったが、爆発の火花がビル内のガス管に充満した天然ガスに引火したことにより、被害が拡大した。 また、ロサンゼルス・タイムズは朝刊紙だったため、深夜早朝時間に社員が働くことがあり、その日は翌日午後に発行される予定の、ヴァンダービルト杯オート・レースの結果を伝える号外に向けて多くの社員が徹夜で働いていた[15]。爆弾犯らは、このことを知らなかった[15]。その結果、爆発によりビルの側面が崩壊し、引き続き発生した火災はロサンゼルス・タイムズの社屋と、新聞輪転機が入っている隣の二次構造を破壊した。まだビル内にいた115人のうち21人が亡くなり、その多くの死因は火災に関連するものだった[3][16][17][18]。ロサンゼルス・タイムズは爆破事件を「世紀の犯罪」("crime of the century")と称し[19]、そして発行者オーティスは、複数の組合を、「アナキズムのくずども」("anarchic scum,")、「卑劣な謀殺犯ども」("cowardly murderers")、「誠実な労働に吸いついて離れぬヒル(蛭)ども」("leeches upon honest labor")、「真夜中の暗殺者ども」("midnight assassins")と激しく非難した[20]

正確な死者数は不明である。20の遺物が誰のものであるか特定された。さらに1体か2体の遺体の、複数の部分が、がれきからひっぱり出された[21]

未解決の矛盾点は、ロサンゼルス・タイムズビルディング内のガス管についてのジェームズの認識であった。 彼は爆破を告白した後、自分はガス管のことは知らなかったと主張した[22]。しかし、オーティー・マクニガルの証言によれば、マクナマラが逮捕前にマクニガルに語ったところによると、マクナマラはタイムズ・ビルの中に入り込み - 彼は2回、誰何(すいか)されたが、2回とも自分は休憩室に行くと言って通過して - 地階の中に入り込み、ガス・バルブをこじ開け、破壊を最大化させた[23]

ほかの爆弾[編集]

10月1日(土曜日)午前に、ゼーハンテラールのメイドが、ベッドルームの窓の下の茂みの後ろに包みを見つけた。通報を受けて駆けつけた警察により、爆弾の不発化処理が行われた。機械時計のぜんまいがきつく巻かれすぎた結果、時計に遅れが生じ、セットされた時間通りに爆弾が爆発しなかった。不発化された爆弾は、爆弾犯の手口に関する貴重な手がかりを含んでおり、捜査班はダイナマイトを仕掛けた者を特定することが出来た。

オーティス宅の管理人は、ゼーハンテラールの爆弾のことを聞き、オーティスの家屋のまわりを調べることを決めた。彼は、張り出し窓のしたのいくつかの茂みの後ろに革のスーツケースを見つけた。また警察が到着し、スーツケースを家屋から持ち去り、広々した場所に出した。スーツケースを切り開いている間、目覚まし時計がスーツケースの中で鳴動したため、警察は爆弾が爆発する直前に安全な場所に走りのがれた。捜査官らは、ゼーハンテラールの時と同様に、機械時計のぜんまいがきつく巻かれすぎたために爆発が遅れた、と推理した[17]

ロサンゼルス・タイムズビルの爆発事件のその夜に、ロサンゼルス・タイムズの補助建屋(auxiliary building)で侵入未遂事件と伝えられることがあって、2人の男が1人の警備員に追い払われた。この事件は初めは、別の爆破未遂事件であると推定された[24]

ロサンゼルス市内のアイアン・ワーカーズ・ストライキ委員会と、アメリカ労働総同盟会長サミュエル・ゴンパーズは、ただちに爆破事件を非難し、どの労働組合あるいは個人も責任があるはずがない、と主張した[25]

再びロサンゼルスで爆破が起きる[編集]

数ヶ月の間、ロサンゼルス・タイムズを爆破した犯人たちは警察の目をかいくぐって逃走を続けていた。組合は、ロサンゼルス市内でさらに爆破するべき時であると決定し、オーティー・マクニガルに標的となる5つの建物(ロサンゼルス・タイムズ予備印刷工場、ルエリン・アイアン・ワークス(Llewellyn Iron Works)、ベーカー・アイアン・ワークス(Baker Iron Works)。建設中:ロサンゼルス・カウンティー・ホール・オヴ・レコーズ(Los Angeles County Hall of Records)、ホテル・アレグザンドリア(Hotel Alexandria)を記載した一覧表を持たせて送った。 ジョンはマクニガルに、自分は「沿岸の一味」("coast bunch")にクリスマス・プレゼントを贈ると約束したと語り、クリスマスの日に爆発が起きることを望んでいた。ルエリン・アイアン・ワークスに仕掛けられたダイナマイトの爆発により工場の一部が損壊し、2万5000ドルの被害額が出た。ジョン・マクナマラは、1つしか爆破されなかったことに腹を立てたが、マクニガルは警備の厳しさを理由に諦めた旨を語っている[26]

爆弾犯を追い詰める[編集]

ウィリアム・J・バーンズ(William J. Burns)

ロサンゼルス・タイムズと法執行当局が、実行犯はただちに捕まるであろうと告知したが、数週間が経っても、誰一人逮捕されなかった。ロサンゼルス市は爆弾犯の確保に2万5000ドルの懸賞金を出し、M&Mは別に5万ドルを集めた。

ロサンゼルス市長ジョージ・アリグザンダー(George Alexander)は1910年10月2日(日曜日)に、犯人を捕まえるために私立探偵ウィリアム・J・バーンズ(William J. Burns)を雇った[27]。バーンズは、ナショナル・エレクターズ・アソシエーションのために過去4年間の製鉄工場爆破事件を調査していて[28]、調査の一環としてシティーの仕事を受けた。雇われスパイのホッキンから、バーンズは、アイアン・ワーカーズ組合員オーティー・マクニガルが組合長ライアン及び出納係マクナマラからの命令に従ってアイアン・ワーカーズの爆破運動を処理していたことを知った。マクニガルとマクナマラは、酒を片手に狩りをするのを好む、アルコール依存症一歩手前の人物だった。バーンズは前年の冬の狩り旅行の1つにスパイとともに潜入したし、マクナマラは旅行中にロサンゼルス・タイムズビルディングを爆破したことを自慢した。この私立探偵はまた、マクナマラの写真を密かに撮った。バーンズがその写真をロサンゼルス市内のあるホテルのフロント係に見せると、係は彼が「ミスター・J・B・ブライス」("Mr. J. B. Bryce")であると証言し、彼は爆破事件の前日にチェックインし、翌朝慌ててチェックアウトしたと話した。

ジェームズ・マクナマラ及びウオーティー・マクニガルの逮捕[編集]

1911年4月14日(金曜日)に、バーンズ、バーンズの息子レーモンド(Raymond)、そしてデトロイト及びシカゴからの警察官は、デトロイト市内のオックスフォード・ホテル(Oxford Hotel)に行き、マクニガルとジェームズを逮捕した。ダイナマイト、複数の雷管、及び複数の目覚まし時計が、彼らの複数のスーツケースから見つかった[29]。その男らは、自分たちはシカゴでの銀行強盗容疑で逮捕されている、と語った。男は2人とも、犯罪とされることに対する隙のないアリバイがあったから、バーンズおよび警察官らに同行してシカゴに戻ることを承諾した[30][31]

シカゴでは、マクニガルとマクナマラは警察署に連れて行かれず、シカゴ警察の巡査部長ウィリアム・リード(William Reed)の自家に4月13日(木曜日)から4月20日(木曜日)まで拘束された[32]。どうやらバーンズは、マクニガルに、自分は全てを知っている、あなたは当局との取引することにより自分自身を救うことができる、と納得させたらしい。マクニガルは、より軽い実刑判決を確保するために自分の知っていることをすべて語ることを承諾し、告白に署名した。彼は、自分はロサンゼルス・タイムズ爆破事件に関与しなかったが、ジム・マクナマラは自分にそれに関する一切を語った、それはジム・マクナマラとほかの2人マシュー・シュミット(Matthew Schmidt)及びデヴィッド・キャプラン(David Caplan)によって実行された、と語った(シュミットとキャプランは1915年まで逮捕を免れた)。マクニガルはまた、他に関わった人物には、ライアン、ジョン、ホッキン、そして他のアイアン・ワーカーの指導者らも含まれる、と言った[29][33]

バーンズは、カリフォルニアの職員に電報を打ち、マクニガル、ジェームズ及びジョンの引き渡し用紙を確保した。バーンズは、インディアナ州インディアナポリスに向けて発ったが、そこにはアイアン・ワーカーズの本部があった。ナショナル・エレクターズ・アソシエーションの職員の助力を得て、彼は、インディアナ州知事トーマス・R・マーシャルを説得して、ジョンの逮捕状を出させた。

組合本部への急襲とジョンの逮捕[編集]

4月22日(土曜日)に、バーンズと2人の地元警察巡査は、アイアン・ワーカーズの執行委員会会合に乱入し、マクナマラを逮捕した。ジョンは、地元の巡回裁判所に引き出された。裁判官は、弁護士を求めるマクナマラの請求を拒絶し、そうする法的権限なしに[34][35]、ジョンを釈放してバーンズの保護の下に置いた。逮捕から出発まで30分間を要した。同じ日に、マクニガルとジェームズは、ロサンゼルス警察によって列車でカリフォルニアに連れて行かれた。4月26日(水曜日)に、3人全員がロサンゼルス入りした[34][36]

組合労働者はマクナマラ家の人々の弁護のために団結する[編集]

全国の労働運動は、マクマナマラ家の人々に対する扱いに激怒し、労働組合の指導者らは、ただちに兄弟2人の無実を弁護した。彼らは、バーンズは誘拐、自分の法執行官としての詐称、およびマクニガルとジェームズの取扱における不法な監禁、に関わっていた、と主張した。地元の巡回裁判の裁判官は、ジョンの、法的代理人との接触を拒否したし、彼の引き渡しを是認する権限はなかった。2人のマクナマラはどちらも、誘拐されて、ひょっとすると強制されて、告白した第3の男からしぼり出された告白に基づいて逮捕されていた。

多くの組合労働者にとって、マクナマラ事件は、1906年のビル・ヘーウッド(Bill Haywood)事件の繰り返しにみえた。その事件では、ウェスタン・フェデレーション・オヴ・マイナーズ(Western Federation of Miners)の指導者らは、元アイダホ州知事の暗殺にダイナマイトを使用したことで訴えられた。マクナマラ事件の場合のように、或る組合員は告白し、組合指導部の関与を示唆していたし、被告人らは極めて不正規なやり方で引き渡されたし、訴追側の捜査は反組合な利害関係者と強い繋がりのある巡査に導かれた。かの事件の場合、訴追された組合指導者らは無罪とされた[37]

労働組合の指導者らもまた、他の要素によってマクナマラ家の人々の無実を確信していた。オープンショップ運動とオーティスが示した激しい敵意で、多くの人々が一部始終はでっちあげだと確信した(ただし中にはユージーン・V・デブス(Eugene V. Debs)をふくむロサンゼルス・タイムズビルディング爆破を非難する人々もいた)。バーンズは、ゴンパーズその他の労働組合の指導者らが全国の爆破運動に関わっていた、とほのめかしたし、AFLの職員らは、発現しようとする労働運動を破壊することをもくろむ逮捕者らの国内の運動が進行中ではないかと恐れた。その一方で、ロサンゼルス市長ジョージ・アリグザンダー(George Alexander)は、アメリカ社会党候補者ジョブ・ハリマン(Job Harriman)との再選選挙戦に釘付けになっていた。中には、爆破事件はハリマンを市庁舎の外に置いておく陰謀であるかもしれない、と感じる人々もいた[38]

組合労働者は、ジョンが、背後に呼び集めるべき魅力的な人物であるとわかった。外見では、彼は敵にダイナマイトをしかける男には見えなかった。彼は、34歳、ハンサムで、運動選手の体つきで、常に身なりがよく、言葉遣いが上品であった。彼は、アイアン・ワーカーズ・ユニオンに勤めながら、夜間に法律の学位を取得した[39]。ジョンはゴンパーズに、自分はロサンゼルス・タイムズ爆破事件とは関係が無いと言って安心させた。ゴンパーズは彼の言葉を信じきり、彼の影響をマクナマラの人々の背後になげた。ゴンパーズの裏書きがあって、USの労働運動全体が、パレード、大衆集会、広告運動、及びマクナマラ弁護基金への寄付で、マクナマラ家の人々を支持した。

バーンズは、インディアナポリス市内で彼がつかんだ証拠をこっそりしこんだと労働支持者から非難されて気分を害した。彼は、サミュエル・ゴンパーズ(Samuel Gompers)にたいして非常に批判的であった。バーンズは、ゴンパーズがダイナマイトの陰謀の一味であるとは考えなかったが、圧倒的な証拠にもかかわらず、バーンズがマクナマラ家の人々を罪におとしいれた、と非難したことに対してゴンパーズは無責任だと非難した。バーンズは、ゴンパーズが4年間におよぶダイナマイト爆破運動を知らなかったはずがない、もし知っていたら躊躇したであろう、と書いた。

ガス爆発の弁護[編集]

弁護側は、ロサンゼルスロサンゼルス・タイムズ爆発はガス漏れの偶然の点火であると主張し、ダイナマイトは少しも関係していないと否定した。彼らは、証拠の残り、例えば翌朝ロサンゼルス市内で見つかった残りの爆弾、インディアナポリスの組合本部で得られたすべての材料は、こっそり仕込まれた、と主張した。彼らは、オーティスは組合指導者らを投獄するために悲劇的な事故を利用した、と非難した。

ガス爆発事故説を支持するために、ステート・フェデレーション・オヴ・キャリフォーニア(State Federation of Labor of California)は、ロサンゼルスに行き事件を調査する委員会を任命した。委員会には、ウェスタン・フェデレーション・オヴ・マイナーズ(Western Federation of Miners)のメンバーの多くが含まれていたが、彼らであればダイナマイトを熟知していたであろう。委員会は、タイムズ・ビルディングにダイナマイトの爆発の痕跡はない、それは単にガス爆発であった、と報告して返した。彼らは、オーティスはそれが事故だと知っていると断定したが、彼はマクナマラ家の人々に対する罪状をでっちあげたが、これは1つには労働組合の信用を傷つけるため、1つにはガス事故を起こさせた怠慢への非難を避けるためであった。報告は次のように宣言した:

他方で、ダイナマイトによる爆発の特徴を熟知している人々に、証拠は、ダイナマイトは無いという圧倒的な確実性を提供している[40]

中にはさらに行く人々もいた。ユージーン・デブスは、ハリソン・オーティスは労働組合の指導者らを罪に陥れるために自分のビルディングを吹き飛ばしたと非難した。彼は爆破に次のように言及した:「オーティス将軍が、自らした、あるいはさせた、仕事、というのも私はあの男をよく知っているから」("a job that General Otis did himself or had it done, for I know the man well")[41]

弁護人クラレンス・ダロー[編集]

クラレンス・ダロー(Clarence Darrow)

アイアン・ワーカーズの組合長フランク・ライアンは、クラレンス・ダロー(Clarence Darrow)にマクナマラの弁護をしてくれるように頼んだ。1906年に、ダローは、労働組合の指導者ビル・ヘーウッド(Bill Haywood)の弁護に成功して労働界のヒーローになっていた。しかし、ダローは不健康であったし、組合労働者はマクナマラの無実を確信していたが、ダローは、彼らに不利な証拠は圧倒的だ、兄弟2人はほとんど有罪だ、と悟った。逮捕後まもなく、そして彼がマクナマラ家の人々の代理人を務めることを承諾する前に、彼はこれをあるジャーナリストに、事件をしぶしぶ引き受けた理由として打ち明けた[42]。ライアンはハリマンにたより、ハリマンは兄弟2人の弁護側弁護士になることを承諾した。しかし、ゴンパーズはシカゴ市内のダローを訪れ、彼に、事件は彼の専門技術知識が必要だということを納得させた。ダローは、弁護側弁護士を引き受けることをしぶしぶ承諾した。ハリマンは、彼の助手としてとどまった。ダローはまた、元ロサンゼルス郡 地区首席検察官補レコンテ・デーヴィス(Lecompte Davis)、組合びいきのインディアナ裁判官サイラス・F・マクナット(Cyrus F. McNutt)そして商工会議所会頭ジョセフ・スコット(Joseph Scott)を、[43] 弁護側共同弁護士として引き入れた[44]

1911年3月5日(日曜日)に、マクナマラ家の人々は、罪状の認否を問われた。彼らは有罪の答弁をせず、罪を認めなかった。マクニガルは、共犯者に不利な証言をし、そのときは訴えられなかった[45]

ダローは、弁護に35万ドル(9,192,500ドル 2019年)必要であろうと主張した。AFLは、すでにダローに5万ドルの依頼料を支払っていたが、ただちに追加の資金を集め始めた。AFL執行委員会は、金を集めるために、永続的な「ウェーズ・アンド・ミーンズ・コミッティー」("Ways and Means Committee")をもうけた。連邦は、地元の、州の、地域のそして全国の組合に、頭数あたり25パーセントを弁護基金に寄付するように、懇請し、寄付金をうけるために国じゅうの大都市内に弁護委員会を設立した。

ダローはまた、自分は訴追側に政治的圧力を加えるために、大衆の支持が必要なのだ、と主張した。ピン、ボタン、その他の身の回り品が金を集めるために売られ、ジョンに関する映画 - 『A Martyr to His Cause』 - が製作された。それはオハイオ州シンシナティ市内で初公開され、推定5万人がそれを見るために金を支払った。国中でレイバー・デー_(アメリカ合衆国)は「マクナマラの日」("McNamara Day")であると宣言され、集団のマーチが被告人らを支持するために13大都市で行われた。

陪審が選ばれる要員の面々

10月25日(水曜日)に、陪審員の選択が始まった[46]。『予備尋問』(voir dire)が続いているとき、ダローは、公判の結果が著しく心配になった[47][48]。彼は、ジェームズは証人として頼ることができない、反対尋問を受けてつぶれるだろう、という気がした[48]。10月15日(日曜日)に、彼は、訴追側が、21の別々の罪を裏付けるたくさんの証拠を入手したことを知った[48]。10月18日(水曜日)に、彼は、連邦司法長官ジョージ・W・ウィッカーシャム(George W. Wickersham)が、大統領ウィリアム・タフトの賛成を得て、マクナマラにたいする罰則付召喚状を確保するのに十分な証拠を入手していたことを知った。陪審員の最初の名簿は10月25日(水曜日)に使い尽くされ、法廷に追加の陪審員名簿を注文させた。陪審は最後には11月7日(火曜日)に着席した[46]

司法取引交渉[編集]

陪審員の選択が続いているとき、醜聞暴露のジャーナリスト リンカーン・シュテフェンス(Lincoln Steffens)がロサンゼルス入りした。シュテフェンスは、マクナマラ家の人々は有罪なのだと確信して、拘置所に彼らを訪ねた。シュテフェンスは、彼らの行為を「正当化し得るダイナマイト爆破行為」("justifiable dynamiting")として印刷物で弁護しようともくろんだ[49]、雇用者の暴力と、州をスポンサーとする労働組合にたいする抑圧をものともせずに、ジェームズは、シュテフェンスの計画を熱烈に支持したが、ジョンは、ダローが同意しない限り協力を拒絶した。ダローは、シュテフェンスの、兄弟2人が彼に犯行を認めたという報告に唖然としたが、自分の健康が悪くなり、弁護に対する悲観が募って、ダローは、マクナマラ家の人々がシュテフェンスに協力することを許すことを承諾した[50]

11月19日(日曜日)-20日(月曜日)の週末に、ダローとシュテフェンスは、新聞発行者E・W・スクリップス(E. W. Scripps)と会った。公判の議論の間に、ダローは、訴追側に圧力をかけて司法取引を受け入れさせる可能性を高めた。マクナマラの軽い刑期と引き換えならば、AFLは、ロサンゼルス雇用者らに対する、悪化させるストライキ及び組織化の努力を終わらせるであろう。シュテフェンスは、オーティス及び、オーティスの義理の息子で『ロサンゼルスタイムズ』のアシスタント・ジェネラル・マネージャーのハリー・チャンドラー(Harry Chandler)と会った。[51] 男は2人とも、計画を承諾した。AFLの世論運動の成功は、どうやら新聞人両者を悩ませていたらしかったし、アイアン・ワーカーズがストライキの維持(拡大さえ)の成功がロサンゼルス実業界の多数者の決心を弱らせていた。チャンドラーは、地区検察官(district attorney)ジョン・D・フレデリックス(John D. Fredericks)と交渉を始めようと申し出た[52][53]

ロサンゼルス実業家らの一団は、秘密会談を支援したが、彼らは、訴追者フレデリックスに対する法律的な力は無かった。フレデリックスは、マクナマラを自由の身にさせるあらゆる計画を認可することを拒絶した。ナショナル・エレクターズ・アソシエーション(National Erectors' Association)は、会談(訴追側、弁護側ともに、相手陣営内に雇われスパイをおいていた)のことを知っていて[54]、フレデリックスに圧力をかけてあらゆる司法取引を拒絶させていた。妥協案として、フレデリックスは、ジェームズが実刑を受け、ジョンがもっと短い刑期を受けることを要求した。

マクナマラ家の人々が有罪の答弁をして罪を認める[編集]

取引が、マクナマラ兄弟の前に提出された。ジェームズは最初、兄を自由の身にしない司法取引を承諾することを拒絶した。しかしダローが彼に、兄弟が2人とも有罪の答弁をして罪を認めたときに限って解決は可能である、と語ると、ジェームズは同意した[55]。ダローは、AFLの代理人を呼びにやった。ショックを受けたこの労働組合の指導者は、ダローが彼に、弁護側にはほとんど勝ち目が無いということを納得させるまで、合意を受け入れることを拒絶した[56]

ダローは、司法取引(というよりもむしろ公開の法廷で犯行を認めること)だけが必要であることを希望していた。しかしロサンゼルスの雇用者らは、弁護側弁護士ハリマン(Harriman)が選挙日(12月5日(火曜日))に市長アリグザンダーをこてんぱんにやっつけることを心配した。もし公開の法廷で犯行を認めることがあれば、ハリマンの信用を傷つけ、彼の勝利を阻み、そして雇用者らは強く求めるであろう[48][56]

11月28日(火曜日)に、弁護側の立場は、さらに弱くなった。ダローが、陪審員賄賂罪未遂で訴えられたのである。弁護側チームの主調査者が陪審員賄賂罪容疑で逮捕されたし、ダローが金を公然と手渡ししているところを目撃されていた。ダロー自身が信用失墜に瀕しているために、弁護側の単なる司法取引に対する望みは、尽きた[56][57]。 1911年12月1日(金曜日)に、マクナマラ兄弟は、一転、公開法廷で罪状を認めた。ジェームズは、自分が1910年10月1日(土曜日)に爆弾をセットし、『ロサンゼルスタイムズ』ビルを破壊した謀殺をみとめた。ジョンは、初めて法廷に足を踏み入れ、12月25日(月曜日)のルウェリン・アイアン・ワークスの爆破を命令したことを認めた[48][58]。ジョンは後にインタビューアーに、ダローはマクナマラ兄弟を世論から隔離させていた、と語った。彼は、彼らが、もし公衆がどれくらい自分らの味方であるか知っていたならば、司法取引を承諾したはずである、と主張した[59]

判決審問(sentencing hearing)で、ジム・マクナマラの告白が法廷で読み上げられた:

わたし、ジェームズ・B・マクナマラは、ここまで謀殺の罪状を認めて、この事実を述べたいと願っている:1910年9月30日午後5時45分に、私は、タイムズ・ビルディングの一部、インク・アリ(Ink Alley)に、翌日午前1時に爆発するようにセットされた、80パーセントのダイナマイト16本をふくむスーツケースを置いた。ビルディングを損傷させ、所有者らを怯えさせることが私の意図であった。私は、これらの不運な男らが生命を落としたことをこころから遺憾に思う。もし私の生命を与えることが、彼らを元に戻すならば、私は喜んででそうする。ところが実際は私は、第一級謀殺の罪状を認めるに際して、自分の生命を国家の両手にゆだねている。[60]

裁判官ボードウェルは、彼らはタイムズの労働者を傷つける意図はなかった、という弁護側主張を拒絶した:

80パーセントのダイナマイトを16本、ビルディング内に置き、その中で印刷者として多くの場所でガスが燃えているのを知っていて、多くの同胞である人間があくせく働いているのを知っている人がもしいるとすれば、その人は同胞である人間の生命をなんとも思っていないに違いない。彼は心底から謀殺犯であったに違いない[61]

判決を言い渡した後、裁判官ボードウェルは、司法取引を成し遂げるときリンカーン・シュテフェンスの役割を最小化する長い声明を出した。ボードウェルは、訴追側は長い間司法取引を求めたが、ジェームズの、兄を自由の身とするという主張を承諾することはできなかった、と書いた。裁判官は、行き詰まりを真に打開したのは、弁護側に雇われた探偵バート・フランクリンの、陪審員賄賂罪未遂容疑での逮捕であった、と述べた。賄賂罪未遂によって、弁護側がどれくらい死に物狂いであるのかが明らかになり、彼らはジョンのの実刑を承諾せざるをえなかった。

有罪の答弁に対する反応[編集]

訴追者フレデリックス(Fredericks)は、マクナマラ家の人々に有罪の答弁をさせて罪を認めさせたことによって、彼は言った、彼らは有罪で間違いないだろうという理由で、司法取引を正当化した。もし有罪の答弁がなかったなら、支持者らは常に、自分らはおとしいれられた、と考えたであろう[62]

ダローはのちに、マクナマラ家の人々を誤り導き、圧力をかけて彼らにそれぞれ有罪の答弁をさせ罪を認めさせたと批判された。以下のような疑いが残った、すなわち、主陪審員捜査者バート・フランクリンの、陪審賄賂罪未遂のかどでの逮捕の後[63]ダローは、有罪の答弁を急ぐ必要があった、なぜなら彼は彼が賄賂罪未遂でも訴えられるであろうことを知っていたし、弁護士の1人が司法取引はすでに合意していたから彼は陪審員らに賄賂する動機はなかった[64]。ダローは、兄弟2人に不利な圧倒的な証拠を引証することによって有罪の答弁を弁護した:

最初から勝つ見込みは決してなかった。もし公判に付され完敗するほうがよかったであろうと言う人々がいるならば、私は、30ないし40のホテルの宿泊者名簿、ロサンゼルス市内の3つ、サンフランシスコ市内の多く、そして国内の各地の他のものがあるという事実に注意を向けるであろう。ジェームズがまさにその当日にいたとする多くの証人が、そしてビルディング内にいたとする少なくとも1人が、いた。あらゆる種類の圧倒的な証拠があったし、誰もそれに打ち勝つことはできなかったであろう[65]

有罪の答弁の後、ダローは、依頼人らの弁護のために資金を集めるために詐欺を使ったことで批判された:マクナマラ家の人々が罪を犯したと最初から知っていながら、労働者の寄付金から20万ドルの活動資金をあつめ、うち約10万ドルを費やすためにぜいたくな努力を始める目的で支持者に彼らの無実を信じさせた。ダローは、自分の第一の義務は自分の依頼人らに対するものである、自分は可能なかぎり最高の弁護のために資金を集めるためにあらゆる必要なことをした、と言った[66]

答弁が変更されたとき、サミュエル・ゴンパーズは、ニュージャージーを列車で旅をしていた。APの通信員は彼の列車に乗り込み、彼を目覚めさせ、有罪の評決に関する特報記事を彼に手渡した。「私は仰天した、私は仰天した」("I am astounded, I am astounded")と彼は言った。「マクナマラ家の人々は労働者を裏切ったな」("The McNamaras have betrayed labor")[67]

しかし、社会党(Socialist Party)は、マクナマラ兄弟の行為は、組合が過去25年間、直面した雇用者の支援を受けたそして州の支援を受けた恐怖とされるものの観点からは正当化されると主張して、彼らを非難することを拒絶した。ヘーウッドとデブスは、その意見を繰り返した[68]。デブスは次のように書いた:

教養と洗練を備えた紳士が、タイプライターに向かい、労働者らの犯罪を指摘することは容易である。しかし仮に彼が厳しい貧しさの中で育ち、教育を拒否され、子供時代から野蛮な生存競争の中に投げ込まれ、虐げられ、搾取され、闘うように強いられ、警察にこん棒で殴られ、家族が強制退去を受けている間拘置所にいて、妻と子らが腹をすかせている人々の1人であるとする、そのとき主人に押しつけられていた野蛮なやり方の犠牲者である犯罪と戦う人々を、犯罪者だと非難するのを躊躇するであろう[68]

マクナマラ訴訟での同僚弁護士ジョブ・ハリマンは、12月5日(火曜日)のロサンゼルス市長選でアリグザンダー市長に地すべり的に敗北した。ハリマンは5人が立候補した予備選挙で、アリグザンダーの37パーセントに対して44パーセントを勝ち取り、アリグザンダーに勝っていたが、マクナマラの告白の後、ハリマンは決選投票では38パーセントの得票にとどまった[48]

12月9日(土曜日)に、兄弟2人は、サン・クエンティン州立刑務所に収監された[58]。ジェームズの公判後の結論は次のとおり:「わかるかい?...世界中がダイナマイトはよいと信じているんだぜ」("You see? ... The whole damn world believes in dynamite")[69]

インディアナポリスの大きい公判[編集]

マクナマラ兄弟の司法取引の一部として、ロサンゼルスの訴追者らはロサンゼルス爆破事件でほかの労働組合職員らを追わないことを承諾していた。しかし連邦政府は、取引の相手ではなかったし、1912年に54人の組合員が5年間におよぶ国中のダイナマイト運動との関与で訴えられたが、その大部分はアイアン・ワーカーズ・ユニオンの地方と国の職員であった。謀殺あるいは財産の破壊のようなことは、連邦犯罪ではなかったから、被告人らは、鉄道列車によるダイナマイトの違法な移送の陰謀という連邦犯罪で訴えられた。多くのそれぞれの弁護士がそれぞれの代理人を務めたが、弁護側を率いたのは、インディアナ出身の現職の連邦上院議員ジョン・W・カーン(John W. Kern)であった。

公判にもっていくときに、被告人の人数は、54人から48人に減じられた。マクナマラ兄弟は公判から除外されたが、これは、彼らがすでにカリフォルニアで収監されていたからである。さらに2人が有罪の答弁をして罪を認めた。1人は逃亡者で見つからなかった。1人の公判は負傷のために先延ばしにされた。裁判官A・B・アンダーソン(A. B. Anderson)は、公判が開始した後に8人を、証拠の欠如のためにかどを否定した[70]

ジョンの友人フランク・エックホフ(Frank Eckhoff)は、ロサンゼルス・タイムズ爆破ののちジェームズは自分に、メアリー・ダイ(Mary Dye)を「彼女は知りすぎている」("she knew too much")から謀殺してくれるように依頼してきた、と証言した。ジムは、彼に、彼女の通勤列車の座席のしたに爆発物をこっそり仕掛けてもらいたがった。エックホフは拒絶していた[71]

1912年12月28日(土曜日)に、陪審は、残る40人のうち38人に有罪の評決を下した[70]。2日後、裁判官A・B・アンダーソンは、ダイナマイト爆破運動を「真の恐怖時代」("a veritable reign of terror")とよばわって判決をくだして、つぎのように論評した:

証拠は、被告人らの一部は謀殺を犯したことを示しているが、彼らはその犯罪では訴えられてはいない。本法廷は、彼らをそのために罰することはできないし、負わせられたかどに対する処罰措置を裏工作するときの考慮によって影響を受けるべきではない[72]

6人の被告人が、執行猶予の判決を言い渡された。組合長フランク・ライアンは、7年という最長の判決を言い渡された。サンフランシスコ労働組合の指導者オラフ・トヴェーモー(Olaf Tveitmoe)と訴追側の情報屋ハーバート・ホッキンをふくむ他の6人は、6年であった。残りは、1年と1日と4年間のあいだの判決を言い渡された。全ての被告人は、カンザス州レヴンワースの連邦刑務所に送られた[73][74]

30人の被告人が上訴した。1914年6月に、第7連邦巡回控訴院(US Seventh Circuit Court of Appeals)は、逆転し、オラフ・トヴェーモーのそれを含む、有罪判決の5つのために新たな公判を命じた。トヴェーモーの場合、法廷は、彼をロサンゼルスロサンゼルス・タイムズ爆破事件に関与させている証拠は、この事件はダイナマイトの州間移送に関わっていなかったという理由で、連邦の罪状と無関係であると裁定した。公判記録内の豊富な証拠を引証して、法廷は、残っている25の有罪判決を支持した[75]。翌月に、連邦地区首席検察官(US district attorney)は、上訴裁判所の裁定の観点から、政府は、有罪判決がくつがえされた5人の被告人を再審しようとしないであろう、と告知した。5人は釈放された[76]

アイアン・ワーカーズは、深刻な人員の喪失を被り、AFLに資金を求めた。AFLは、財政的援助を提供することと、ゴンパーズが次のワーカーズのコンヴェンションで講演することを謝絶した。しかし、多くのAFL組合の複数の長らは講演しなかったし、アイアン・ワーカーズはライアン組合長を再び代表にしている[77]

最後の事件:キャプランとシュミット[編集]

インディアナポリスの複数の公判の後では、残る事件は、デイヴィッド・キャプラン及びマシュー・シュミットのそれであったし、この2人のアナキストは、ジムがロサンゼルス爆破事件で使用するダイナマイトを買うのを助けていた。両者ともに、1911年に、起訴されたが、逃亡者となり、警察から巧みに逃れた。

1914年7月4日(土曜日)に、ダイナマイト爆弾が、3人の建築家が住むニューヨークのテナント・アパートメントで爆発した。爆発で男3人が死亡し、ビルが破壊され、隣のアパートメントの女が死亡し、他に多くの負傷者が出た。警察は、爆弾は翌日タリータウン(Tarrytown)で使用される予定の爆弾であった、と推理したが、タリータウンでは、死んだ爆弾犯の1人を含む多くのアナキストがロックフェラーの夏の地所の侵入未遂と結びつく犯罪に直面することになっていた[78]。この事件は、アイアン・ワーカーズ爆破事件と無関係であるようにおもわれたが、ウィリアム・J・バーンズ(William J. Burns)は、爆弾の破片からロサンゼルスロサンゼルス・タイムズ爆弾と同様の構造が明らかになったことを知った。

爆弾の類似性にもとづいて、バーンズは、ニュー・ヨークのアナキスト圏に捜索を集中した。 彼は、マシュー・シュミットを見つけだし、ニュー・ヨークの警察官が1915年2月13日(土曜日)にシュミットを逮捕したとき、現場にいた[79]。バーンズの手先らは、キャプランをも逮捕したいと願いつつシュミットをしばらく監視していたが、最後にはシュミットだけで我慢した。しかしシュミットの持ち物の捜索で或る手紙が見つかったために、彼らはシアトル地区に向かい、同地で、1915年2月18日(木曜日)に地元警察がデイヴィッド・キャプランを逮捕した[80]

サンフランシスコ労働組合の指導者オラフ・トヴェートモーは、前年、釈放されていたが、この2人の男は複数のウェスト・コースト労働組合(West Coast labor unions)の費用で弁護されるだろうと約束した[81]。カーペンターズ・ユニオン(Carpenters Union)の公式機関刊行物「ザ・カーペンター」(The Carpenter)は、キャプラン及びシュミットの訴追の責任を「労働の敵」("the enemies of labor")に負わした[82]

シュミットおよびキャプランはロサンゼルスでべつべつに公判に付された。マシュー・シュミットは、1915年12月に謀殺で有罪判決をくだされ、終身刑を言い渡された[83]。彼の有罪判決をうけて、オラフ・トヴェートモーは、次のように言った:「ロサンゼルスで10年戦争が起こるだろう。やつらはこのことの報いを受けるだろう」[84]

デイヴィッド・キャプランの1つめの公判は、陪審が行き詰まって終わったた。1916年12月に、2つめの陪審は、第二級故殺罪で有罪の評決を下した[85]。法廷は、彼に10年の実刑を言い渡した。彼は6年半の後1923年に釈放された[86]

余波[編集]

ロサンゼルスにおける労働運動は、崩壊した。雇用者らは、司法取引の追加条項を履行することを拒絶したが、条項は、労使の会合の開催と、オープンショップ運動の終結を要求していた。その代わり、雇用者らは、ロサンゼルスにおける労働運動を壊す努力を倍加させた。中央労働審議会(Central Labor Council)は1912年初期に人的損害を被り、市内の労働運動は、1950年代になってようやく成長の兆しを示し始めた[87]

ダローは、陪審干渉の2つの罪状で訴えられた。彼の主な捜査者は、共犯者に不利な証言をし、賄賂罪未遂にサミュエル・ゴンパーズを巻き込みさえした。経済的に困窮していたダローは、弁護のための基金を集めるのにAFLの助力を求めたが、ゴンパーズはそれを与えることを断った。ユナイテッド・マイン・ワーカーズ・オヴ・アメリカ(United Mine Workers of America)及びウェスタン・フェデレーション・オヴ・マイナーズ(Western Federation of Miners)が寄付金を懇請したとき、AFL執行評議会(AFL Executive Council)は、寄付の考慮を、係争点が未定であるまで、延期した。ダローは、第一審で無罪判決を言い渡された。2つめの賄賂罪事件が起訴に持ち込まれたとき、公判は、評決不能陪審(hung jury)でおわった[88]

シュテフェンスは、マクナマラ兄弟に浴びせかけられた悪罵にあまりに悩まされたので、合衆国内の経済および階級の格差を緩和する運動を始めたほどであった。1912年なかばまでに、多くの著名人 - 社会事業家ジェーン・アダムズとリリアン・ワルド(Lillian Wald)、実業家ヘンリー・モーゲンソウ_(外交官)、ジャーナリストポール・ケロッグ、法律家ルイス・ブランダイス、経済学者アーヴィング・フィッシャー、平和主義の聖職者ジョン・ヘインズ・ホームズ(John Haynes Holmes)をふくむ - が、タフタ大統領に、国内の経済的緊張をやわらげるために労使関係に関する委員会を設立してくれるように頼んでいた。タフタは、合衆国議会が委員会を承認するように要求し、1912年8月23日(金曜日)に合衆国議会は委員会を承認した。フランク・P・ウォルシュ(Frank P. Walsh)を長とする労使関係委員会(Commission on Industrial Relations)の複数の報告は、8時間労働と第1次世界大戦時代の全国戦争労働委員会(National War Labor Board)の確立を助け、そして多くのニューディール政策の労働立法に深く影響した[89][90]

オーティー・マクニガルは、2年間半の刑期を務めた後仮釈放された[91]

暴力的急進主義を受け入れたジェームズは、暴力を肯定する急進論者らによって崇拝された。左翼の労働組合の指導者と一部政治家が繰り返し彼を釈放させようとしたが、彼はあらゆる仮釈放を請求することを拒絶した。1941年3月9日(日曜日)にジェームズはサン・クエンティン州立刑務所で癌のため死亡した[92][93][94]

ジョンは9年後に出所し、アイアン・ワーカーズ組合は彼をオーガナイザーとして歓迎した。彼は、契約者が組合員らを雇わないなら建物を破壊するぞと脅迫したとして有罪判決を言い渡され、刑務所に送り返された。もう一度釈放されて、組合は、彼が200ドルを費消していたことを知り、彼を解雇した。ジョンは仕事を転々とした末に、1941年5月8日(木曜日)にモンタナ州ビュートで死亡した[95][94]

読書案内[編集]

  • Adamic, Louis. Dynamite: The Story of Class Violence in America. New York: Viking Press, 1931.(英語)
  • Adams, Jr., Graham. Age of Industrial Violence, 1910-1913. New York: Columbia University Press, 1966.(英語)
  • Blum, Howard. American Lightning: Terror, Mystery, the Birth of Hollywood, and the Crime of the Century. New York: Crown, September 2008.(英語)
  • Burns, William J. The Masked War. Reprint ed. New York: Arno Press, 1969. Originally published by George H. Doran Company, New York, 1913.(英語)
  • Cross, Ira B. History of the Labor Movement in California. Reprint ed. Berkeley, Calif.: University of California Press, 1974.(英語)
  • Cowan, Geoffrey. The People v. Clarence Darrow: The Bribery Trial of America's Greatest Lawyer. New York: Three Rivers Press, 1994.(英語)
  • Darrow, Clarence. The Story of My Life. New York: Charles Scribner's Sons, 1932.(英語)
  • Debs, Eugene. "The McNamara Case and the Labor Movement," International Socialist Review, vol. 12, no. 7 (Jan. 1912), pp. 397–401.(英語)
  • Estrada, William D. The Los Angeles Plaza: Sacred and Contested Space. Austin, Tex.: University of Texas Press, 2009.(英語)
  • Fine, Sidney. "Without Blare of Trumpets": Walter Drew, the National Erectors' Association, and the Open Shop Movement, 1903-57. Ann Arbor, Mich.: University of Michigan Press, 1995.(英語)
  • Foner, Philip S. History of the Labor Movement in the United States. Vol. 5: The AFL in the Progressive Era, 1910-1915. New York: International Publishers, 1980.(英語)
  • Gottlieb, Robert and Wolt, Irene. Thinking Big: The Story of the 'Los Angeles Times, Its Publishers, and Their Influence on Southern California. New York: Putnam, 1977.(英語)
  • Hartshorn, Peter. "I Have Seen the Future": A Life of Lincoln Steffens. Berkeley, Calif.: Counterpoint, 2011.(英語)
  • Irwin, Lee. Deadly Times: The 1910 Bombing of the 'Los Angeles Times' and America's Forgotten Decade of Terror. Guilford, Conn.: Lyons Press, 2013.(英語)
  • Kaufman, Bruce E. The Origins and Evolution of Industrial Relations in the United States. Ithaca, N.Y.: Cornell University Press, 1992.(英語)
  • Kazin, Michael. Barons of Labor: The San Francisco Building Trades and Union Power in the Progressive Era. Champaign, Ill.: University of Illinois Press, 1987.(英語)
  • Kraft, James P., "The Fall of Job Harriman's Socialist Party: Violence, Gender, and Politics in Los Angeles, 1911," Southern California Quarterly, vol. 70, no. 1 (Spring 1988), pp. 43–68.(英語)
  • McDougal, Dennis. Privileged Son: Otis Chandler and the Rise and Fall of the L. A. Times Dynasty. Reprint ed. New York: Perseus Publishing, 2002.(英語)
  • McManigal, Ortie. The National Dynamite Plot. Los Angeles: Neale Co., 1913.(英語)
  • Milkman, Ruth L.A. Story: Immigrant Workers and the Future of the U.S. Labor Movement. New York: Russell Sage Foundation, 2006.(英語)
  • Rayback, Joseph G. A History of American Labor. Rev. and exp. ed. New York: Macmillan Publishing Co., 1974.(英語)
  • Robinson, W.W. Bombs and Bribery: The Story of the McNamara and Darrow Trials Following the Dynamiting in 1910 of the Los Angeles Times Building. Los Angeles: Dawson's Book Shop, 1969.(英語)
  • Shapiro, Herbert. "The McNamara Case: A Crisis of the Progressive Era," Southern California Quarterly, vol. 59, no. 3 (Fall 1977), pp. 271–287. In JSTOR(英語)
  • Steffens, Lincoln. The Autobiography of Lincoln Steffens. New York: Harcourt, Brace and Company, 1931.(英語)
  • Stimson, Grace Heilman. Rise of the Labor Movement in Los Angeles. Berkeley, Calif.: University of California Press, 1955.(英語)
  • Taft, Philip. The A.F. of L. in the Time of Gompers. Hardback reprint. New York: Harper & Brothers, 1957.(英語)
  • Wagner, Rob Leicester. Hollywood Bohemia: The Roots of Progressive Politics in Rob Wagner's Script (Janaway 2016) (978-1-59641-369-6)(英語)
  • Welskopp, Thomas. "Birds of a Feather: A Comparative History of German and US Labor in the Nineteenth and Twentieth Centuries." In Comparative and Transnational History: Central European Approaches and New Perspectives. Heinz-Gerhard Haupt and Jürgen Kocka, eds. New York: Berghahn Books, 2012.(英語)

脚注[編集]

  1. ^ Rayback, pp. 219–20.
  2. ^ Taft, pp. 275–76.
  3. ^ a b c d e f Taft, p. 276.
  4. ^ a b Foner, p. 8.
  5. ^ Stimson, p. 380; Fine, pp. 33–46.
  6. ^ Foner, pp. 7–8; Welskopp, pp. 156–57; Gottlieb and Wolt, pp. 88–89.
  7. ^ Cross, p. 278; Kazin, p. 203; Milkman, p. 35.
  8. ^ Cross, p. 282.
  9. ^ Stimson, pp. 33–133.
  10. ^ Foner, pp. 9–10.
  11. ^ Lew Irwin, Deadly Times (Guilford, Conn.: Lyons, 2013) 74.
  12. ^ Miranda, Carolina A. (2017年9月22日). “The 1910 bombing of the Los Angeles Times has been the subject of books and film. Now it's a bus tour”. Los Angeles Times. 2018年10月23日閲覧。
  13. ^ オーティー・マクニガル(Ortie McManigal)は、ジム・マクナマラはオーティーに、3個の爆弾すべて(ロサンゼルス・タイムズ社屋、オーティスの家、及びゼーハンテラールの家)は午前1時にセットしたと語った、と証言した。他の多くの情報源はこれを反映し、これら爆弾は午前1時に爆発するように合わせられた、と言っている。例えば:Geoffrey Cowan, The People v. Clarence Darrow (New York: Random House, 1993) 87, and Lew Irwin, Deadly Times (Guilford, Conn.: Lyons, 2013) 116-118.その上、ジム・マクナマラの告白は、彼はロサンゼルス・タイムズビルディングの爆弾を午前1時にセットした、と詳細に述べた。しかし、デニス・マクドゥーガル(Dennis McDougal)は「ロサンゼルス・タイムズビルディング爆弾は午前4時にセットされたが、それよりも前に爆発した。フェリックス・ゼーハンテラールの家の爆弾は午後1時にセットされ、オーティスの自宅の爆弾は午後2時にセットされた」と書いた。Privileged Son (Cambridge, Mass.: Perseus, 2001) 50, 53.
  14. ^ Lew Irwin, Deadly Times (Guilford, Conn.: Lyons, 2013) 71.
  15. ^ a b "Robert Sawyer." Motorsport Memorial. 2012. Accessed 2012-10-11.
  16. ^ Cross, pp. 282–83; Adamic, p. 151.
  17. ^ a b "Fire Kills 19, Unions Accused", New York Times, October 2, 1910.
  18. ^ "Twenty-One Killed and More Injured In the Dynamited 'Times' Building," Los Angeles Times, October 2, 1910; "Los Angeles Times Ruins Yield Five More Bodies", New York Times, October 3, 1910
  19. ^ "The Crime of the Century," Los Angeles Times, October 16, 1910
  20. ^ Adamic, p. 211
  21. ^ Lew Irwin, Deadly Times (Guilford, Conn.: Lyons, 2013) 337-338.
  22. ^ McDougal, p. 53.
  23. ^ "M'Manigal repeats boast of M'Namara," N.Y. Times, 15 Nov. 1912, p.4.
  24. ^ "Editors and printers meet awful death in flames following big explosion," Oakland Tribune, 1 Oct. 1910, p.2.
  25. ^ Foner, pp. 11, 14; Irwin, pp. 14–15.
  26. ^ Taft, p. 281; Estrada, p. 140.
  27. ^ Associated Press, "Strange Story Is Told By Detective: Burns Narrative Takes on Color as Dynamite Case Is Fully Probed", The San Bernardino Daily Sun, San Bernardino, California, Sunday 1 December 1912, Volume XXXVII, Number 37, page 2.
  28. ^ Adamic, p. 155.
  29. ^ a b Foner, p. 12.
  30. ^ Burns, p. 146; Stimson, p. 387.
  31. ^ マクドゥーガルは、マクニガルとマクナマラは誘拐されたのであり、逮捕はされなかった、と主張している。マクナマラが助けを求めて悲鳴を上げたとき、地元のデトロイトの警察官が間に入った。バーンズはマクニガルを静かにやって来くるように説得し、マクニガルとマクナマラは静かにやって来た。マクドゥーガルは、彼の立場からのこの話をしたとき出典を引かなかった。See McDougal, p. 54.
  32. ^ 歴史家フィリップ・タフトはこれは、適正な手続きおよび司法権の欠如のために誘拐であるとした。Taft, p. 277; see also Foner, p. 13.
  33. ^ Burns, pp. 151–55; Stimson, pp. 387–88.
  34. ^ a b Taft, p. 277.
  35. ^ Foner, p. 13.
  36. ^ Foner, pp. 12–13; Stimson, p. 389; Adamic, pp. 155–56.
  37. ^ Foner, pp. 13–14.
  38. ^ Foner, pp. 14–16.
  39. ^ Geoffrey Cowan, The People v. Clarence Darrow (New York: Random House, 1993) 78-79, 110.
  40. ^ "Law's classification in kidnapping case," The Motorman and Conductor, May 1911, v.19 n.6 p.37.
  41. ^ The Commercial Telegraphers' Journal, Oct. 1911, v.9 n.10 p.300.
  42. ^ Geoffrey Cowan, The People v. Clarence Darrow (New York: Random House, 1993) 123.
  43. ^ Taft, pp. 278, 280; Foner, pp. 17–18.
  44. ^ Taft, pp. 278, 280; Foner, pp. 17–18.
  45. ^ Foner, p. 18.
  46. ^ a b Foner, p. 21.
  47. ^ Darrow, p. 179–181.
  48. ^ a b c d e f Taft, p. 281.
  49. ^ Foner, p. 22.
  50. ^ Foner, p. 21–22; Darrow, p. 182; Steffens, p. 662.
  51. ^ チャンドラーは、爆弾が爆発する数分前に『ロサンゼルスタイムズ』ビルディングを立ち去っていた。See: "Fire Kills 19, Unions Accused", The New York Times, October 2, 1910
  52. ^ Foner, p. 23.
  53. ^ McDougal, p. 56–57; Darrow, p. 181; Steffens, p. 674–675.
  54. ^ McDougal, p. 56.
  55. ^ Foner, p. 23-24; Darrow, p. 183; Steffens, p. 682.
  56. ^ a b c Foner, p. 24.
  57. ^ Cowan, p. 364-365.
  58. ^ a b Foner, p. 25.
  59. ^ Foner, p. 28.
  60. ^ George P. Costigan Jr., Cases and Other Authorities on Legal Ethics (St. Paul: West, 1917) 349-347.
  61. ^ George P. Costigan Jr., Cases and Other Authorities on Legal Ethics (St. Paul: West, 1917) 347.
  62. ^ "With the two brothers in San Quentin all is quiet," The Square Deal, Jan. 1912, v.9 n.78 p.527.
  63. ^ Christianson, Stephen G., "McNamara Brothers Trial: 1911", "Great American Trials", Knappman, Edward W., editor, Visible Ink Press, Detroit, Michigan, 1994, 0-8103-8875-8, page 252.
  64. ^ Gerald F. Uelmen, "Fighting fire with fire: a reflection on the ethics of Clarence Darrow," Fordham Law Review, 2003, v.71 n.4 p.1564.
  65. ^ "With the two brothers in San Quentin all is quiet," The Square Deal, Jan. 1912, v.9 n.78 p.531.
  66. ^ Geoge F. Costigan, Cases and Other Authorities on Legal Ethics (St. Paul: West, 1917) 343-352.
  67. ^ Foner, pp. 25–26
  68. ^ a b Foner, p. 27.
  69. ^ Hartshorn, p. 215.
  70. ^ a b "38 labor leaders are found guilty," New York Times, 29 Dec. 1912, p.9.
  71. ^ "Tells of dynamite plot to slay girl," New York Times, 17 Nov. 1912, p.12.
  72. ^ "33 dynamiters get prison terms," New York Times, 31 Dec. 1912, p.1.
  73. ^ United Press, "Ryan is given 7 years," Pittsburgh (PA) Press, 30 Dec. 1912, p.1.
  74. ^ Taft, pp. 283–84; Stimson, p. 412.
  75. ^ Ryan v. United States, United States Circuit Courts of Appeals Reports, 1915, v.132, p.257-305.
  76. ^ "Labor conspiracy cases disposed of in federal court," Rochester (NY) Democrat and Chronicle, 4 July 1914, p.1.
  77. ^ Taft, pp. 284–85.
  78. ^ "Anarchist bomb believed for Rockefeller kills three I.W.W. makers and a woman-injures many--wrecks tenement house," New York Sun, 5 July 1914, p.1.
  79. ^ "4-year chase lands alleged dynamiter," New York Times, 14 Feb. 1915, p.1.
  80. ^ "Letter found here betrays Caplan," New York Times, 20 Feb. 1915, p.6.
  81. ^ "Schmidt and Caplan face murder charge on coast," Indianapolis Star, 4 Mar. 1915, p.2. "$5,000 donated by unions for Schmidt-Caplan Case," Indianapolis Star, 7 Jan. 1916, p.5 c.3.
  82. ^ "Fair play for Schmidt and Caplan," The Carpenter, Sept. 1915, v.35 n.9 p.23.
  83. ^ Associated Press, "Jury fixes sentence for life," Oakland (CA) Tribune, 31 Dec. 1915, p.6.
  84. ^ "Labor leaders and hypocrisy," Sunset, Feb. 1916, p.32.
  85. ^ "David Caplan held guilty in Times dynamiting case," Indianapolis Star, 16 Dec. 1916, p.1 c.2.
  86. ^ "David Caplan of Los Angeles Times dynamiting case freed," St. Louis (MO) Post-Dispatch, 11 July 1923, p.3.
  87. ^ Foner, pp. 29–30.
  88. ^ Cowan, pp. 428, 433.
  89. ^ Taft, pp. 286–87.
  90. ^ Kaufman, pp. 3, 8–9.
  91. ^ "McManigal's Liberty Near," The New York Times, November 2, 1913
  92. ^ "M'Namara, Bomber, Dies In San Quentin", The New York Times, March 9, 1941
  93. ^ Foner, p. 29.
  94. ^ a b Lew Irwin, Deadly Times (Guilford, Conn.: Lyons, 2013) 335.
  95. ^ "John J. M'Namara, Dynamiter, Is Dead", The New York Times, May 8, 1941

外部リンク[編集]