レカレド1世

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レカレド1世
Recaredo
西ゴート王
Recaredo I, rey de los Visigodos (Museo del Prado).jpg
在位 586年 - 601年
死去 601年5月31日
配偶者 Floresinda(シセブト後妻の母。レカレド2世の祖母)
  Bedo(スウィンティラ、ゲイラの母)
Baddo(バドー。リウヴァ2世の母)
子女 リウヴァ2世
娘(シセブト妃)
スウィンティラ
ゲイラ
父親 レオヴィギルド
母親 テオドシア
宗教 アリウス派、のちカトリック
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レカレド1世Recaredo559年頃?/560年頃?/565年 - 601年5月31日)は、西ゴート王(在位:586年 - 601年)。

生涯[編集]

レカレドは、レオヴィギルド英語版王と最初の妃テオドシアの第2王子として生まれた。彼はアリウス派の教育を受けた。長兄ヘルメネギルドは父レオヴィギルドの存命中から共同統治王となっていたが、妻に迎えたアウストラシア王女イングンデシギベルト1世ブルンヒルドの娘)の影響を受けカトリックに改宗し、父に対し反乱を起こして流刑にされていた。父レオヴィギルドの死去数週間後、彼は西ゴート貴族の反対なしに王座についた。次いで、メロヴィング朝との深いつながりと、継母ゴイスインタの指示に従い、彼は大使をキルデベルト1世(ブリュンヒルデの子)とブルグントグントラムクロタール1世の子)の元へ送り、和平と同盟関係強化を申し入れた。しかしグントラムは大使と面会するのを拒んだ(グントラムは姪イングンデとその夫ヘルメネギルドの非業の死に怒り、西ゴートの治めるセプティマニアへ遠征した経緯があった)。なお、ヘルメネギルドの妻イングンデの妹クロドシンドと婚約していたが、後に解消し、キルペリク1世の娘リグントとの婚約も流れている。また、甥アタナギルド(長兄ヘルメネギルドの子で合法的な西ゴート王国王位継承者で王位継承権を持つ王族の1人)を人質として有する東ローマ帝国(時の皇帝はマウリキウス)が派遣した軍と交戦しているが、幾つかの都市を奪われている。西ゴート王国が東ローマ帝国に対して完全に優勢になるのはレカレドの娘婿シセブト(在位:612年 - 621年)の時代であり、イベリア半島統一に関してはシセブトの子レカレド2世を倒して王位を簒奪したレカレドの子の1人スィンティラ(在位:621年 - 631年)の治世中に東ローマ勢力をイベリア半島から完全に駆逐したことでようやく達成されることになる。レカレドが東ローマ帝国と交戦してから約30年の歳月が経過している。601年に没し、身分の低い妻バドーが産んだリウヴァ2世が跡を継いだ。

家族と親族、子孫[編集]

レカレドには4人の子があり、前述の通り、妻の一人バドーとの間に生まれたリウヴァ2世(583年/584年 - 603年)が王位を継いだ(第19代王)が、2年後に子女無く、右腕を切断されて追放、後に殺害され、バドーの血筋は途絶えた。リウヴァ2世の異母妹(名前不詳、586年生誕、没年不詳)はシセブト(第22代王)の妃(後妻)となり、レカレド2世(生年不明 - 621年、第23代王)の母となったがレカレド2世は子女無く、王位を継いだ年に暗殺された。ここにリウヴァ2世の異母妹の母フロレシンダの系統も断絶した。 しかし、もう一人の妻ベドにはスウィンティラ(第24代王、588年 - 633年/635年)とゲイラがおり、スウィンティラの血筋はキンダスウィント・レケスウィント父子、エルウィグ、ロデリック(それぞれ、第28代、第29代王、第31代王、第34代王)の時代を除いて西ゴート王国滅亡まで王位につき続け、現在のスペイン国王フェリペ6世は末裔の一人である。スウィンティラは第22代王シセブトが前妻(名前不詳)との間に儲けた娘テオドラ(レカレド2世の異母姉。590年頃生誕)と結婚。シセナンド(605年-636年、第25代王)、キンティラ(第26代王、606年-639年)、リキメル(610年-631年)、名前不詳の娘、リウヴィゴート(第31代王エルウィグの妃、620年頃生誕)3男2女を儲けた。このうち、キンティラとリウヴィゴートの系統が存続。キンティラにはトゥルガという息子がおり、跡を継いで第27代王となった。トゥルガには3人の子がおり、ワムバは第30代王となり、ワムバの兄弟姉妹の子にエギカ(第32代王)がいる。エギカはリウヴィゴートとエルウィグの娘キクシロと結婚。ウィティザ (第33代王)、シセブト、オッパスを儲けた。なお、キクシロには2人の同母兄弟姉妹(Dodo、Chalpaida)がおり、Chalpaidaは732年にトゥール・ポワティエ間の戦いウマイヤ朝を破ったカール・マルテルの母でピピン3世の祖母、カール大帝の曾祖母にあたる。また、リウヴィゴートの夫エルウィグの父アルダバスト(611年頃生誕、アルタバストスとも)は東ローマ帝国からの亡命者であり、祖父母はレカレドの兄ヘルメネギルドとその妃イングンデ、父はヘルメネギルドの息子アタナギルド、母は東ローマ皇帝マウリキウスの姉妹ゴルディアの孫娘(597年頃生誕、ゴルディアの娘がマミコニア王家のアルタバストスに嫁いでいた)もしくはマウリキウスの姪(弟ペトルスの娘で、母はアナスタシア・アレオビンダ。母方の家系を遡るとコンスタンティヌス朝ウァレンティニアヌス朝テオドシウス朝に辿り着く)フラウィア・ユリアナ(590年頃生誕)との仮説が唱えられている。

レカレドとベドの家系は西ゴート王国滅亡まで王位に居続け、現在まで存続しているとされる。

王の改宗[編集]

レカレド1世のカトリック改宗'、ムニョス・デグライン画、スペイン上院所蔵
レカレド1世の金貨

587年、レカレドはカトリックへの改宗を宣言した。多くの西ゴート貴族や聖職者たちが王にならって改宗した。しかしセプティマニアルシタニアでアリウス派の反乱が起こり、鎮圧にあたらなければならなかった。588年、陰謀を企んだとしてアリウス派を信仰する継母ゴイスインタを追放した。ゴイスインタは翌年に処刑された。

彼はアリウス派書物の焚書を命じた。そしてアリウス派信徒を公職から追放し、アリウス派教会を立ち退かせたためわずか数年で教会は姿を消した。

589年、王の名のもとで第3回トレド教会会議が招集され、セビリアのレアンデル(セビリアのイシドールスの実兄)が指揮を執った。ここに新たなカトリック王国が設定された。王の公開懺悔状が公証人の声で読み上げられ、カトリック信仰の告白とアリウス派棄教を表明した。彼は西ゴート族およびスエビ族へカトリックへの改宗を呼びかけた。それでも、公然とアリウス派信仰を支持する司教たち(スエビ族が目立った)がいた。

教会会議の決定は、王の勅令発行で法的権力を得た。これに従わない者には厳しい処罰が課せられた(財産の没収、流刑など)。

西ゴート族のカトリック改宗は大きな社会変化でもあった。彼らはローマの衣服を着用していたが、伝統的なフィブラなどの留め金やバックルがなくなり、死者とともにその財産を埋葬する習慣が消滅した。

先代:
レオヴィギルド
西ゴート王
586年 - 601年
次代:
リウヴァ2世