レオニード・パステルナーク

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レオニード・オシポヴィチ・パステルナークロシア語:Леонид Осипович Пастернак1862年4月4日(露暦では3月22日) - 1945年5月31日)はロシア帝国印象主義美術の画家ウクライナ出身。詩人ボリス・パステルナークの父親でもある。

生涯[編集]

リンゴ狩り (1918年
画家の息子たち。ボリス()とアレクサンドル()

オデッサで宿屋を営むユダヤ人の家庭に、6人兄弟の末っ子として生れる。幼い頃から絵を描き始めるが、絵が学問の妨げになることを恐れた家族から、諦めるようにと説得された。しかし、7歳の時にパステルナーク少年に最初の庇護者がつき、パステルナーク少年の絵を買い上げてくれるようになる。もっともその人物は、町の洗濯屋であった。

1881年から1885年までモスクワ大学に在籍し、当初は医学部に在籍するも、後に法学部に編入した。ついに生涯を芸術に捧げる決意をし、1887年ミュンヘン美術アカデミー留学する。ロシアに戻ると、2年のあいだ砲術隊に徴兵された後、やっと1889年に画業に専念することが出来るようになる。

初めて展示された作品が、当時ロシアで最大のスポンサーであるパーヴェル・トレチャコフに買い上げられるなど、非常に幸先よいスタートを切った。やがて人気の画家となり、「ポレノフ・サークル」の一員と呼ばれるようになる(その仲間は、ワシーリー・ポレーノフワレンチン・セーロフイサーク・レヴィタンミハイル・ネステロフコンスタンチン・コロヴィンらであった)。1889年に著名なピアニストのロザリンダ・カウフマンと結婚。

レオニード・パステルナークは、印象主義者を自ら以って任じた最初のロシアの画家である。1880年代から1890年代までのロシアでは、そのように宣言すれば、芸術家が人目を惹くに足りたのである。彼はまた、移動派ロシア美術家連盟の同人でもあった。ヤースナヤ・ポリャーナで数ヵ月を過ごした際にレフ・トルストイと親しくなり、この文豪の肖像画をふんだんに描くとともに、『戦争と平和』や『復活』に挿絵も寄せている。1900年にはパリ万国博覧会に、トルストイの小説のための挿絵を出品して表彰されている。1905年には帝国美術アカデミーの会員に選出もされ、モスクワ絵画・彫刻・建築学校の教壇に立った。

1921年に片眼を手術することが必要になり、ベルリンで施術を受けるため、夫人と二人の娘を連れてソ連を去った。ボリスとアレクサンドルの息子二人はロシアに残った。手術が終わると二度とソ連に戻らぬ決意を固め、そのままベルリンに留まった。1938年ナチズムの脅威を逃れてイギリスに渡り、1945年にオックスフォードで他界した。

外部リンク[編集]