レオナルド・マルケス

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Leonardo Márquez

レオナルド・マルケス(Leonardo Márquez、1820年1913年)は、メキシコ軍人

彼は米墨戦争で戦い、1849年の革命運動ではアントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナの突出した支援者となった。 独裁体制崩壊後は、マルケスはミゲル・ミラモンフェリックス・スロアガの起こした反ベニート・フアレスの運動を支持した。

1862年に彼はフランスの大義を取り、マクシミリアン大公メキシコ皇帝とするメキシコ帝国の設立に活発かつ重要な役割を果たした。1864年、マクシミリアンによって彼は常備陸軍の最高司令官とされ、イスタンブールに使節として派遣された。 彼は帰国した1866年にはフランス軍が撤退しており、彼はメキシコ人による帝国軍の創設に着手した。

1866年10月、マクシミリアンは彼を別働隊の司令官にし、1867年3月に、彼を政府を創設し、ケレタロを助ける軍を挙兵するためにメキシコシティに派遣した。 マルケスはミゲル・ミラモンとは絶えず意見が合わないことでよく知られていた。彼らが分かれていたときにミラモンは共和国軍への攻撃を提案したが、マルケスはこの提案には反対していた。もしかしたらミラモンがそれを示唆したからではないか。

彼はケレタロではマクシミリアンと一緒であった。しかし攻囲軍を突破し、皇帝を助けるための軍の組織のためにメキシコシティへ向かった。 これが不可能であるとわかると、彼は首都の南のプエブラに独自の政府の樹立を計画した。彼はプエブラに到達する前に敗れ、メキシコシティに戻った。そこはポルフィリオ・ディアスによって包囲されていた。

首都は6月21日に降伏し、マルケスは、数か月の雲隠れののち、ベラクルスに行きそこからキューバハバナ亡命した。 彼は1870年の恩赦の対象からも明確に除外された。 彼は狂信的で、人命を軽視する冷血な人物で、1859年ゲリラとの勝利のあとに大量殺戮をしたことで「タクバヤ」とあだ名された。この事件について彼は、ミラモンの命令であったとの釈明をした。マクシミリアンは、処刑の前に一人の兵士に打ち明けている。「ケレタロで自分の捕縛の原因を作ったミゲル・アンヘル・ロペスの裏切りは許せても、大量殺戮をしたマルケスは許せない」と。[1]

出版物[編集]

  • H. H. Bancroft, History of Mexico, volumes v and vi (San Francisco, 1888)

References[編集]

External links[編集]