ルー・バイアーバウアー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ルー・バイアーバウアー
Lou Bierbauer
Lou Bierbauer baseball card.jpg
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ペンシルベニア州
生年月日 1865年9月23日
没年月日 1926年1月31日(満60歳没)
身長
体重
5' 8" =約172.7 cm
140 lb =約63.5 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 内野手二塁手
プロ入り 1886年
初出場 1886年4月17日
最終出場 1898年4月30日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

ルー・バイアーバウアー(Louis W. "Lou" Bierbauer, 1865年9月23日 - 1926年1月31日)は、1880~1890年代に活躍したアメリカメジャーリーグの野球選手。主なポジションは二塁手ペンシルベニア州エリー生まれ。右投げ左打ち。二塁手として当時高い評価のあった選手で、1891年にピッツバーグ・アレゲニーズが彼をこっそり引き抜いたことで非難され、チーム名を「パイレーツ」に変えたというエピソードが有名である。

略歴[編集]

1886年、20歳の時にアメリカン・アソシエーションフィラデルフィア・アスレチックス(現在のオークランド・アスレチックス及び、1860年~1876年に存在した同名球団とは無関係)に入団し、その守備力を買われレギュラーの二塁手となった。1年目は二塁手として133試合に出場し、刺殺数380、400を超える補殺数を記録した。3年目の1888年には補殺数がリーグ最多、翌1889年には472もの刺殺を記録した。打撃面では1年目こそ振るわなかったが、4年目には打率.304、100打点以上を挙げる活躍をした。

1890年にプレイヤーズ・リーグが創設された際、モンテ・ウォードが率いるブルックリン・ワンダーズに参加する。この年はキャリア最高となる128得点、180安打を記録し、リーグ最多の併殺を取るなど攻守に活躍を見せ、チームはリーグ2位の成績を収める。

プレイヤーズ・リーグが1年で消滅した後、1891年にバイアーバウアーが契約したのはナショナルリーグに所属していたピッツバーグ・アレゲニーズだった。しかし以前所属していたアスレチックスは、プレイヤーズ・リーグ破綻の後、バイアーバウアーがチームに戻ってくると考えており、この移籍を「盗人行為だ」と非難した。当時アメリカン・アソシエーションとナショナルリーグの間には、『両リーグ間で選手の引き抜きをしない』という協定が結ばれていたのだが、アレゲニーズはバイアーバウアーの移籍を、解散したブルックリンとの間の移籍として処理をしていたようである。[1]同年2月14日の連邦管理委員会の裁定によりこの移籍は認められることになったが、スター選手を失ったアスレチックスは1891年のシーズンを迎えることなく破綻してしまい、また非難され開き直ったピッツバーグのオーナーは、これをきっかけにチーム名を「アレゲニーズ」から「パイレーツ」に変更したと言われている。

パイレーツに籍を置いたバイアーバウアーは、1892年には555もの補殺を記録するなど、移籍後も二塁手としての高い守備力を見せていた。その後1896年オフにパイレーツからセントルイス・ブラウンズに移籍し、1898年を最後にメジャーリーグから引退した。1926年に故郷ペンシルベニア州にて死去。

通算成績[編集]

打撃成績[編集]

※数字の後の"*"は、記録不明箇所があることを示す。

試合 打数 安打 二塁打 三塁打 本塁打 得点 打点 盗塁 三振 四球 死球 犠打 打率 出塁率 長打率
1383 5706 1521 208 95 33 819 835 206 129* 268 15 38* .267 .301 .354

獲得タイトル・記録[編集]

  • 最高守備率(二塁手):1893年
  • リーグ最多補殺(二塁手):5回(1888,1890,1892,1894,1895年)

投手記録[編集]

  • 通算成績:4試合、0勝0敗、投球回14.2、被安打13、被本塁打0、三振5、自責点5、防御率3.07

脚注[編集]

  1. ^ プレイヤーズ・リーグを介した同様の引き抜きとして連邦管理委員会に訴えられたケースは、バイアーバウアーの他に、ボストン・ビーンイーターズ(現ブレーブス)が同じアスレチックスの強打者だったハリー・ストーヴィーを移籍させたケースと、同じく1891年にパイレーツに移籍したコニー・マックのケースの計3件である。

出典・外部リンク[編集]