コンテンツにスキップ

ルートヴィヒ6世 (プファルツ選帝侯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ルートヴィヒ6世
Ludwig VI.
プファルツ選帝侯
在位 1576年 - 1583年

出生 (1539-07-04) 1539年7月4日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
プファルツ選帝侯領ハイデルベルク
死去 (1583-10-22) 1583年10月22日(44歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
プファルツ選帝侯領ジンメルン
埋葬 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
プファルツ選帝侯領ハイデルベルク聖霊教会
配偶者 エリーザベト・フォン・ヘッセン
  アンナ・フォン・オストフリースラント
子女 一覧参照
家名 プファルツ=ジンメルン家
父親 フリードリヒ3世
母親 マリー・フォン・ブランデンブルク=クルムバッハ
宗教 キリスト教ルター派
テンプレートを表示
ルートヴィヒ6世

ルートヴィヒ6世Ludwig VI., 1539年7月4日 - 1583年10月22日)は、プファルツ選帝侯(在位:1576年 - 1583年)。フリードリヒ3世ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯カジミールの娘マリーの長男[1]

生涯

[編集]

フランス語を学ぶため、1554年にドルのブルゴーニュ大学を訪れた。ルートヴィヒはプファルツ選帝侯の推定相続人として、すでにプファルツ選帝侯オットー・ハインリヒの宮廷で政務に参加していた。1563年より、オーバー・プファルツの総督を務めた。

熱心なカルヴァン派だった父フリードリヒ3世や息子フリードリヒ4世とは異なり、ルター派を優遇し、カルヴァン派をハイデルベルク大学の職から排除した[2]。カルヴァン派の神学者たちは、ルートヴィヒの弟ヨハン・カジミールノイシュタット・アン・デア・ヴァインシュトラーセにあった宮廷に保護を求め、「カジミーリアヌム・ノイシュタット」を設立した。ケルン戦争中、ルートヴィヒ6世はケルン大司教ゲープハルト・トルフゼス・フォン・ヴァルトブルクの側に立った唯一のルター派の諸侯であった。ルター派による領内の再編に伴い、ルートヴィヒ6世は新しい宮廷憲法、秩序憲法を採択し、1582年には大憲法を採択した。

子女

[編集]

1560年7月8日ヘッセン方伯フィリップ1世の娘エリーザベトと結婚[3]、12人の子を儲けたが、3人しか成長出来なかった。

  • アンナ・マリア(1562年 - 1589年) - スウェーデンカール9世と結婚[4]
  • エリーザベト(1562年)
  • ドロテア・エリーザベト(1565年)
  • ドロテア(1566年 - 1568年)
  • フリードリヒ・フィリップ(1567年 - 1568年)
  • ヨハン・フリードリヒ(1569年)
  • ルートヴィヒ(1570年 - 1571年)
  • カタリーナ(1572年 - 1586年)
  • クリスティーネ(1573年 - 1619年)
  • フリードリヒ4世(1574年 - 1610年) - プファルツ選帝侯[3]
  • フィリップ(1575年)
  • エリーザベト(1576年 - 1577年)

1583年、オストフリースラント伯エッツァルト2世の娘アンナと再婚したが、子は無かった。

脚注

[編集]
  1. ^ Thomas 2010, Appendix B.
  2. ^ Jeffery 2018, p. 25.
  3. ^ a b Thomas 2010, p. 39.
  4. ^ Cook & Broadhead 2012, p. 329.

参考文献

[編集]
  • Cook, Chris; Broadhead, Philip (2012). The Routledge Companion to Early Modern Europe, 1453-1763. Routledge 
  • Jeffery, Renée (2018). Princess Elisabeth of Bohemia: The Philosopher Princess. Lexington Books 
  • Thomas, Andrew L. (2010). A House Divided: Wittelsbach Confessional Court Cultures in the Holy Roman Empire, C. 1550-1650. Brill 

外部リンク

[編集]
先代
フリードリヒ3世
プファルツ選帝侯
1576年 - 1583年
次代
フリードリヒ4世