コンテンツにスキップ

ルネ・ド・ブルボン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ルネ・ド・ブルボン
Renée de Bourbon
ルネ(右)と夫アントワーヌ

出生 1494年
死去 1539年5月26日
ロレーヌ公国ナンシー
配偶者 ロレーヌ公アントワーヌ
子女 フランソワ1世
アンヌ
ニコラ
ジャン
アントワーヌ
エリザベート
家名 ブルボン=モンパンシエ家
父親 モンパンシエ伯ジルベール
母親 キアラ・ゴンザーガ
テンプレートを表示

ルネ・ド・ブルボン(フランス語:Renée de Bourbon, 1494年 - 1539年5月26日)は、ロレーヌ公アントワーヌの妃。モンパンシエ伯ジルベールとキアラ・ゴンザーガの娘である。

生涯

[編集]

ルネは親族のフランス王女らとともに育てられた。1515年6月26日アンボワーズにてロレーヌ公アントワーヌと結婚した。この結婚はフランス王フランソワ1世によって決められた。フランソワ1世はアントワーヌにルイ12世の未亡人メアリー・テューダーとの結婚を約束していたが、メアリーがチャールズ・ブランドンと結婚したため、フランソワ1世は代わりにルネをアントワーヌの結婚相手に選んだ。

ルネのナンシー入りについては、年代記に記録されている。ルネは1516年5月の初めにバル=ル=デュックからナンシーに到着した。最初にルネは町に入る手前のラクーと呼ばれる村に滞在した。6時間ピクニックを楽しんだ後、ナンシーの門に到着し、そこで城壁の大砲の音とともに台の上で歌う合唱隊に出迎えられた[1]

公妃となったルネはロレーヌにおいて政治的影響力はなかったと伝えられている[2]。しかし、ルネは洗練されたイタリア的センスを持っていたことで知られ、ロレーヌに「マントヴァ宮廷の優雅さと上品さ」をもたらしたといわれている[2]。アントワーヌの時代以降にナンシーで起こった芸術の開花は、ルネの影響によるものである[2]

1538年8月、ルネはハンガリー王妃マリア・フォン・エスターライヒと会うためにコンピエーニュに向かうよう命じられた。1539年3月、胃に不具合を起こした夫アントワーヌに会うためヌフシャトーに向かい、夫とともにナンシーに帰還した。ルネは1539年5月26日赤痢のためナンシーで死去した[3]

子女

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ Les Archives de Nancy, Henri Lepage, vol. 1 (1865), pp. 56-60.
  2. ^ a b c Julia Cartwright: Christina of Denmark. Duchess of Milan and Lorraine. 1522-1590, New York, 1913
  3. ^ Wood, Marguerite, Balcares Papers, vol. 1 (1923), pp. 11-12, 22, 25, 26-29.