ルドヴィコ・フェラーリ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
Lodovico Ferrari
ルドヴィコ・フェラーリ
生誕 1522年2月2日
Flag of the Papal States (pre 1808).svg 教皇領ボローニャ
死没 1565年10月5日 (43歳没)
Flag of the Papal States (pre 1808).svg 教皇領ボローニャ
研究分野 数学
主な業績 四次方程式
影響を
受けた人物
ジェロラモ・カルダーノ
プロジェクト:人物伝
テンプレートを表示

ルドヴィコ・フェラーリ(Ludovico Ferrari, 1522年2月2日-1565年10月5日)は、イタリア数学者である。ロドヴィコ、フェルラーリ、フェルラリ、フェラリとも。

14歳の時に数学者ジェロラモ・カルダーノの家で召使いとして働き始めたが、その才能を認められカルダーノから数学の教えを受け、研究の手伝いをするようになった。26歳のフェラーリについて、日本の数学者である森毅は「やさしい声ときよらな面、しかし神の才と悪魔の心をもった青年」と評している。

「解法を公表しない」との誓いの元でニコロ・フォンタナ・タルタリアから解法を得たカルダーノは、弟子のフェラーリと共に一般的な三次方程式の解法等の研究に取り組んだ。この研究の過程で、フェラーリは四次方程式の解法を発見した。後にカルダーノは『アルス・マグナ』という数学書を出版し、この本の中でフェラーリの四次方程式の解法についても記している。「解法を公表しない」との誓いを破られたタルタリアは激怒し、カルダーノのことを非難するようになる。ここでカルダーノの弟子であるフェラーリは「自分もその場にいたがそのような誓いは立てていない」と主張しているが、真相は定かでない。タルターリアはカルダーノとの論争を望んだが、カルダーノはタルタリアの誘いには乗らず、以降タルタリアとフェラーリの論争が続いていくことになる。1548年、タルタリアとフェラーリが数学の公開討論を行うことになり、互いに31問ずつの問題を出し合った。この討論試合の詳細は明らかになっていない。フェラーリの勝利に終わったという説が有力である。この討論試合の後フェラーリの名声は高まり、各方面から仕事の依頼が来るようになった。皇帝の息子の家庭教師の依頼もあった。

1565年ボローニャ大学教授につくが、同年に姉によりヒ素で毒殺されたとされている。

関連項目[編集]