ルキウス・カエキリウス・メテッルス・ダルマティクス
ルキウス・カエキリウス・メテッルス・デルマティクス L. Caecilius L. f. Q. n. Metellus Delmaticus[1] | |
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出生 | 不明 |
死没 | 紀元前104年 |
出身階級 | ノビレス(プレプス) |
氏族 | カエキリウス氏族 |
官職 |
法務官(紀元前122年以前) 執政官(紀元前119年) 前執政官(紀元前118年-117年) 最高神祇官(紀元前115年/114年-紀元前104年 |
指揮した戦争 | ダルマティア反乱鎮圧 |
ルキウス・カエキリウス・メテッルス・デルマティクス(ラテン語: Lucius Caecilius Metellus Delmaticus、- 紀元前104年)はプレブス(平民)出身の共和政ローマの政務官。紀元前119年に執政官(コンスル)、紀元前114年から紀元前104年まで最高神祇官(ポンティフェクス・マクシムス)を務めた。デルマティクスというアグノーメンはダルマティアでの勝利に由来する。
出自
[編集]カエキリウス・メテッルス家の出身。伝説によれば、カエキリウス氏族は火の神ウゥルカーヌスの息子で、プラエネステ(現在のパレストリーナ)の建設者であるカエクルス(en)の子孫とする[2]。メテッルス家は紀元前3世紀の初めに元老院に議席を得た。最初に執政官となったのは紀元前284年のルキウス・カエキリウス・メテッルス・デンテルである。パトリキ(貴族)であるセルウィリウス氏族と協力し、メテッルス家は紀元前140年代から元老院における最も有力な家系となった[3]。特に紀元前123年から紀元前109年にかけては6人の執政官を出している[4]。
デルマティクスは紀元前142年の執政官ルキウス・カエキリウス・メテッルス・カルウスの長男であり[5]、クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・マケドニクスのいとこである。弟にはクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ヌミディクスがいる。
経歴
[編集]デルマティクスに関する記録は紀元前119年に執政官に就任した際が最初であり、それ以前は不明である。逆算すると、紀元前122年以前には法務官(プラエトル)を務めていたはずである[6]。
同僚執政官は、やはりプレプスのルキウス・アウレリウス・コッタであった。同年にガイウス・マリウスが護民官となっているが[7]、これはマリウスがカエキリウス氏族のクリエンテス[8] となったか、あるいは一時的に支援を受けたことが大きい[7]。まもなくマリウスは富裕階級の投票権を制限する法案を提出した。プルタルコスによれば、ルキウス・カエキリウスという人物がこれに反対したが、マリウスはかってのパトロヌス(庇護者)を告訴し、法案を成立させた[9]。ただし、プルタルコスが書くルキウス・カエキリウスはデルマティクスではないかもしれない[10]。
執政官の任期が完了すると、デルマティクスは前執政官として、ダルマティアに赴任する[11]。凱旋式をどうしても実施したかったデルマティクスは、理由もなしに現地人との戦争を始めた。戦争を望んでいなかったダルマティアは降伏し、ローマ軍はサロナ(現在のソリン)で冬営に入った[12]。紀元前117年にローマに戻ると凱旋式を実施し[13]、ダルマティアに対する「勝利」を祝してデルマティクスのアグノーメンを得た。また、勝利を記念してディオスクーリ神殿を拡張するとともに、塗装を新たに行って像をいくつか建てている[14]。
紀元前115年に、ルキウス・カエキリウス・メテッルスという人物が、グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスと共に監察官(ケンソル)となっている[15]。これはデルマティクスか、甥のルキウス・カエキリウス・メテッルス・ディアデマトゥスと思われるが、カピトリヌスのファスティのこの部分が欠落しているため、何れかを断定はできない[16]。メテッルスとアヘノバルブスは元老院議員32名を除名した[17]。この中には前年の執政官ガイウス・リキニウス・ゲタも含まれており[18]、デルマティクスの娘と結婚していたマルクス・アエミリウス・スカウルスは元老院筆頭(セネートゥス・プリンケプス)となっている[19]。
同年[20] あるいは翌年[21]、最高神祇官(ポンティフェクス・マクシムス)であったプブリウス・ムキウス・スカエウォラの死去に伴い、デルマティクスは終身職である最高神祇官に就任し、紀元前104年に没するまでその職にあった。この職にあっては、ウェスタの処女の姦通罪に関する調査を行っている[22]。
子孫
[編集]デルマティクスの娘はマルクス・アエミリウス・スカウルスの再婚相手となり、またルキウス・コルネリウス・スッラの4番目の妻となっている[23]。
小説
[編集]デルマティクスはコリーン・マッカラの "The First Man in Rome"の登場人物の一人である。
脚注
[編集]- ^ Broughton T., 1951, p.525.
- ^ Wiseman T., 1974, p. 155.
- ^ Trukhina N., 1986, p. 133.
- ^ Mari, Cinna and Metelli, 2013, p. 112.
- ^ Caecilius 138, s. 1212.
- ^ Broughton T., 1951, p. 516.
- ^ a b Labitzke M., 2012, s. 33.
- ^ プルタルコス『対比列伝:ガイウス・マリウス』、 4-5.
- ^ プルタルコス『対比列伝:ガイウス・マリウス』、4.
- ^ Van Ooteghem J., 1964 , p. 83-84.
- ^ Broughton T., 1951, p. 527.
- ^ アッピアノス『ローマ史:イリュリア戦争』、II, 11.
- ^ エウトロピウス『首都創建以来の略史』、IV, 23.
- ^ プルタルコス『対比列伝:ポンペイウス』、2.
- ^ リウィウス『ローマ建国史』、Pereches, LXII.
- ^ Broughton T., 1951, p. 531-532.
- ^ リウィウス『ローマ建国史』、 Pereches, 62.
- ^ キケロ『アウルス・クルエンティウスへの弁明』、119.
- ^ Bédian E., 2010 , p. 173.
- ^ Broughton T., 1951, p. 532.
- ^ Caecilius 138 , s. 1213
- ^ Asconius Pedian , In defense of Milo, 40.
- ^ Korolenkov A., Smykov E., 2007 , p. 170.
参考資料
[編集]古代の資料
[編集]- アッピアノス『ローマ史』
- アスコニウス・ペディアヌス
- エウトロピウス『首都創建以来の略史』
- ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』
- プルタルコス『対比列伝』
- キケロ『演説集』
研究書
[編集]- Broughton T. "Magistrates of the Roman Republic" - New York, 1951. - Vol. I. - P. 600.
- "Caecilius 138" // RE. - No. III, 1 . - P. 1212-1213 .
- Labitzke M. "Marius. Der verleumdete Retter Roms" . - Münster, 2012. - 544 p. - ISBN 978-3-89781-215-4 ..
- Van Ooteghem J. "Gaius Marius" - Bruxelles: Palais des Academies, 1964. - 336 p.
- Wiseman T. "Legendary Genealogies in Late-Republican Rome" // G & R. - No. 1974. - No. 2 . - P. 153-164 .
- Bédian E. "Cepion and Norban (notes on the decade of 100-90 BC)" // Studia Historica. - 2010. - number X . - P. 162-207 .
- Korolenkov A. "Mariy, Zinn and Metelli" // Herald of Ancient History. - 2013. - No. 4 . - P. 113-122 .
- Korolenkov A., Smykov E. "Sulla" - M .: Young Guard, 2007. - 430 p. - ISBN 978-5-235-02967-5 .
- Trukhina N. "Politics and politics of the "golden age" of the Roman Republic" - M .: Publishing house of the Moscow State University, 1986. - 184 p.
関連項目
[編集]公職 | ||
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先代 ガイウス・パピリウス・カルボ プブリウス・マニリウス |
執政官 同僚:ルキウス・アウレリウス・コッタ 紀元前119年 |
次代 マルクス・ポルキウス・カト クィントゥス・マルキウス・レクス |