ルイ・ジュール・トロシュ

ルイ・ジュール・トロシュ(Louis Jules Trochu、1815年3月12日 – 1896年10月7日)は、フランス陸軍の軍人、国防政府首班[1]。パリ包囲戦でパリの防衛に勤しんだが、世論には降伏路線とみられ、4か月で辞任した[1]。
生涯
[編集]軍歴
[編集]1815年3月12日、ベル=イル=アン=メールのル・パレで生まれた[2]。サン・シール陸軍士官学校で教育を受けた後、1837年にフランス陸軍に入り、1840年に中尉、1843年に大尉に昇進した[2]。大尉としてフランス領アルジェリアで総督のトマ・ロベール・ブジョーの部下になり、1844年のイスリの戦いでの勇敢さによりブジョーのエー=ド=カン(副官)に任命され、1845年に少佐、1853年に大佐に昇進した[2]。
クリミア戦争ではジャック・ルロワ・ド・サン=タルノー元帥の副官を務めたのち、旅団将軍に昇進、戦功により師団将軍に昇進したうえでレジオンドヌール勲章コマンドゥールを授与された[2]。1859年の第二次イタリア独立戦争でも師団将軍として活躍し、レジオンドヌール勲章グランクロワを授与された[2]。1866年、将軍となった[1]。
1866年より陸軍省で雇用され、陸軍改革の準備を進めた[2]。1867年に著作『フランス軍』(L’Armée française)を出版し、数か月で10版を重ねて大成功を収めたが、第二帝政の宮廷で歓迎されず、陸軍省から追い出された[2]。著書の内容が陸軍の規律のなさと無能さを批判するものだったためとされ(『ブリタニカ百科事典第11版』では「オルレアニストの感情に触発された内容」と形容した)、民衆からは支持された[1][2]。
普仏戦争
[編集]1870年に普仏戦争が勃発したときも軍職を得られなかったが、フランス軍が緒戦で敗れると[2]、1870年8月14日にパリ軍事総督に任命された[1]。トロシュはパリの守備を強化して籠城戦を準備[2]、同年9月4日に第二帝政が崩壊すると、国防政府首班に就任した[1]。しかしトロシュの防衛計画は世論には降伏路線とみられ、トロシュは1871年1月21日にパリ軍事総督を辞任した[1]。
戦後
[編集]1871年2月の国民議会選挙で8県から選出され、モルビアン県の代表として議員を務めた[2]。国民議会議員としてはオルレアニストに属したが、1872年7月に辞任して政界を引退[1]、1873年には陸軍からも引退した[2]。
1873年に『Pour la vérité et pour la justice』を著して国防政府を擁護し、1879年に再び『フランス軍』を著した[2]。1896年10月7日、アンドル=エ=ロワール県トゥールで死去した[2]。
出典
[編集]外部リンク
[編集]| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代 ナポレオン3世(元首) シャルル・クーザン=モントバン(首相) |
国防政府議長 1870年 – 1871年 |
次代 アドルフ・ティエール(元首) ジュール・デュフォール(首相) |