ルイビル・カーネルズ
ルイビル・カーネルズ(Louisville Colonels)は、1882年から1899年にかけて、ケンタッキー州ルイビルを本拠地としてアメリカン・アソシエーションとナショナルリーグに加盟していたプロ野球チーム。
球団史
[編集]1882年にアメリカン・アソシエーションが創設されたのに合わせてチームが結成された。最初の2年は「ルイビル・エクリプス」と名乗り、1884年から「ルイビル・カーネルズ」を名乗るようになる。1年目はピート・ブラウニングが打率.378でリーグの首位打者になるなど活躍、チームはリーグ2位の成績を収める。1884年には主力投手だったガイ・ヘッカーがシーズン52勝、最優秀防御率と最多奪三振の投手三冠の活躍をするなどしたが、チームは優勝には手が届かなかった。
1889年シーズンは投手陣が不調で、シーズン中にメジャーリーグ歴代最長連敗記録となる26連敗[1]を喫するなど低迷し、27勝111敗という成績に終わった。しかし翌1890年、プレイヤーズ・リーグ創設に伴って各チームの主力選手が大量に新リーグに移籍して相手チームの戦力が大きく落ちたことが幸いし、カーネルズは初めてのリーグ優勝を果たす。しかしプレイヤーズ・リーグが1年で解体すると、チームの成績も再び低迷するようになった。
1892年以降はナショナルリーグに参加したが、1894年から3年連続最下位となるなど低迷が続いた。1899年、カーネルズの球団オーナーとなったバーニー・ドレイファスは、ピッツバーグ・パイレーツの株式を買いカーネルズの主力選手をパイレーツに移籍させる。ドレイファス自身は当初パイレーツとカーネルズの運営の掛け持ちをしようとしたが、同年本拠地だったエクリプス・パークが火災で焼失し、カーネルズは活動ができなくなってパイレーツに吸収された(同年解散とする資料もある)。
メジャー開幕21試合で得失点差がマイナス3桁(-106)になるワースト4位記録[2]を保持していることでも知られている。
戦績
[編集]年度 | リーグ | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 勝率 | 順位 | 監督 | 本拠地 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1882年 | AA | 80 | 42 | 38 | .525 | 2位 | デニー・マック | Eclipse Park I |
1883年 | 98 | 52 | 45 | .536 | 5位 | ジョー・ガーハート | ||
1884年 | 110 | 68 | 40 | .630 | 3位 | マイク・ウォルシュ | ||
1885年 | 112 | 53 | 59 | .473 | 6位 | ジム・ハート | ||
1886年 | 138 | 66 | 70 | .485 | 4位 | ジム・ハート | ||
1887年 | 139 | 76 | 60 | .559 | 4位 | キック・ケリー | ||
1888年 | 139 | 48 | 87 | .356 | 7位 | キック・ケリー モーデカイ・デビッドソン ジョン・ケリンズ | ||
1889年 | 140 | 27 | 111 | .196 | 8位 | デュード・エスターブルック チキン・ウルフ ダン・シャノン ジャック・チャップマン | ||
1890年 | 136 | 88 | 44 | .667 | 1位 | ジャック・チャップマン | ||
1891年 | 139 | 54 | 83 | .394 | 8位 | ジャック・チャップマン | ||
1892年 | NL | 154 | 63 | 89 | .414 | 9位 | ジャック・チャップマン フレッド・フェファー | |
1893年 | 126 | 50 | 75 | .400 | 11位 | ビリー・バーニー | Eclipse Park II | |
1894年 | 131 | 36 | 94 | .277 | 12位 | ビリー・バーニー | ||
1895年 | 133 | 35 | 96 | .267 | 12位 | ジョン・マクロスキー | ||
1896年 | 134 | 38 | 93 | .290 | 12位 | ジョン・マクロスキー ビル・マクガニグル | ||
1897年 | 136 | 52 | 78 | .400 | 11位 | ジム・ロジャース フレッド・クラーク | ||
1898年 | 154 | 70 | 81 | .464 | 9位 | フレッド・クラーク | ||
1899年 | 156 | 75 | 77 | .493 | 9位 | フレッド・クラーク |
所属した主な選手
[編集]- 投手
- トード・ラムジー:1887年にリーグ最多奪三振。前年1886年には、シーズン499奪三振を記録している。
- ガイ・ヘッカー:1884年に52勝20敗、防御率1.80、385奪三振で投手部門三冠を獲得した。
- ルーブ・ワッデル:後にアメリカ野球殿堂入り。
- 野手
- ピート・ブラウニング:外野手。1882年ルイビルでデビュー、首位打者3回、最多安打1回を記録。
- フレッド・クラーク:兼任監督。1945年にアメリカ野球殿堂入り。1901年からパイレーツをリーグ3連覇に導いた。
- チキン・ウルフ:本名ウィリアム・ファン・ウィンクル・ウルフ。外野手。1890年に首位打者と最多安打を記録。
- ホーナス・ワグナー:後にアメリカ野球殿堂入り。
- ヒューイー・ジェニングス:後にアメリカ野球殿堂入り。
主な球団記録
[編集]- 球団記録
- 打撃記録
- 通算安打数:1438(チキン・ウルフ)
- 通算本塁打:34(ピート・ブラウニング、フレッド・クラーク)
- 通算打点数:592(チキン・ウルフ)
- 通算盗塁数:245(フレッド・クラーク)
- サイクル安打:1886年8月8日、1889年6月7日(ピート・ブラウニング)
- 投手記録
- 通算勝利数:173(ガイ・ヘッカー)
- 通算奪三振:1225(トード・ラムジー)
- 無安打試合
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b “Games Lost Records by Baseball Almanac”. Baseball Almanac. 2019年6月1日閲覧。
- ^ “藤浪所属のアスレチックス“127年ぶりの歴史的弱さ”開幕21戦で得失点差マイナス3桁「100」”. news.yahoo.co.jp. Sponichi Annex (2023年4月23日). 2023年4月23日閲覧。