リヴァプール (軽巡洋艦・2代)
リヴァプール | |
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![]() リヴァプール(1942年2月28日撮影) | |
基本情報 | |
運用者 |
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級名 | タウン級軽巡洋艦 |
艦歴 | |
起工 | 1936年2月17日 |
進水 | 1937年3月24日 |
就役 | 1938年11月2日 |
退役 | 1952年11月 |
最期 | 1958年7月にスクラップとして売却 |
要目 | |
基準排水量 | 9,400トン |
満載排水量 | 11,930トン |
長さ | 591.6 ft (180.3 m) |
幅 | 64.9 ft (19.8 m) |
深さ | 20.6 ft (6.3 m) |
ボイラー | 海軍式三胴型重油専焼缶4基 |
主機 | パーソンズ式オール・ギヤードタービン4基4軸推進 |
出力 | 82,500 shp |
速力 | 32ノット (59 km/h) |
乗員 | 750名 |
兵装 |
Mk XXIII 15.2 cm(50口径)三連装砲4基 Mk XVII 10,2cm(45口径)高角砲連装4基 3ポンド砲単装2基 2ポンド4連装ポムポム砲2基 12.7 mm四連装機銃2基 53.3 cm水上魚雷発射管三連装2基 |
装甲 |
舷側: 114 mm(VP部、水線部のみ) 甲板: 38 mm(VP部のみ) 弾火薬庫: 25〜114 mm 主砲塔: 102 mm(前盾)、51 mm(側盾)、- mm(後盾)、- mm(天蓋) |
搭載機 |
水上機3基 カタパルト1基 |
リヴァプール (HMS Liverpool, C11) は、イギリス海軍のタウン級軽巡洋艦。艦名はイングランド北西部の都市リヴァプールにちなむ。
艦歴[編集]
本艦は、ゴーヴァンのフェアフィールド・シップビルディング・アンド・エンジニアリング・カンパニーで1936年2月17日に起工して1937年3月24日に進水し、1938年11月2日に就役した。
第二次世界大戦勃発後の1940年1月21日に、中国艦隊に所属していた本艦はホノルルから横浜に向けて航行中の日本客船浅間丸を千葉県房総半島沖の公海上で臨検した。本艦は浅間丸乗客のドイツ人21名の身柄を拘束し、当時関係が悪化していた日本とイギリスの間において大きな国際問題に発展した(「浅間丸事件」)。
1940年6月7日にはアレクサンドリアに着き、地中海艦隊の第7巡洋艦戦隊に加わった[1]。
1940年6月12日、本艦と姉妹艦のグロスター (HMS Gloucester, C62) は4隻の駆逐艦を伴ってトブルクを砲撃した。この際、グロスターはイタリア小型艦を4隻と交戦した。イタリア側は翌日1隻の損失を認めた。
6月28日、MA3作戦で出撃中であった本艦、グロスター、ネプチューン (HMS Neptune, 20) 、オライオン (HMS Orion, 85) およびシドニー (HMAS Sydney) から成る第7巡洋艦戦隊は、マタパン岬南西で3隻のイタリア駆逐艦と交戦した。このエスペロ船団の戦いで、第7巡洋艦戦隊はイタリア駆逐艦エスペロ (Espero) を撃沈した。一方、本艦もエスペロからの4.7インチ砲弾1発を被弾している[2]。
7月9日、カラブリア沖海戦に参加。
7月21日、軽巡洋艦ケープタウンなどとともにアレクサンドリアから出撃し、エーゲ海へ向かうAN2船団を護衛した[3]。船団は7月25日にアテネに到着し、引き続きエジプトへ向かうAS2船団を護衛した[4]。7月29日、クレタ島の南でイタリア軍帰による爆撃を受け、爆弾1発が命中した[5]。爆弾は爆発しなかったが、死者が1人出た[5]。
続いてハッツ作戦、MB5作戦に参加した。MB5作戦ではグロスターと共にマルタへ兵員を輸送した[6]。
次はマルタへ補給船団を送るMB6作戦に参加し、10月13日にはレロス島攻撃に向かう空母イラストリアスに同行した[7]。10月14日、エーゲ海で本艦はイタリア軍サヴォイア・マルケッティ SM.79雷撃機の攻撃を受けた[8]。艦首に魚雷が命中して火災が発生し、ガソリンタンクや弾薬に引火して爆発も起き、艦首が破壊された[9]。死者は30名であった[10]。本艦は軽巡洋艦オライオンに曳航されて10月16日にアレクサンドリアに到着し[8]、そこでの応急修理が1941年4月まで行われた[11]後、カリフォルニア州ヴァレーオのメア・アイランド海軍造船所で本格修理が行われた[11]。1942年春には本国に帰還し、4月から5月にかけて北極船団の護衛を行った。
1942年6月にはハープーン作戦に参加してマルタ島への船団護衛を行い、軽巡洋艦ケニヤおよび第17駆逐群の駆逐艦とともにマルタへ向かう船団を護衛して6月4日にイギリス本国を離れた[12]。船団は6月11、12日夜にジブラルタル海峡を通過し、6月14日にはイタリア軍機の攻撃を受けた[12]。その攻撃で本艦は被雷し、右舷側の機関室Bに24フィート×19フィートの穴が開き、死者15人、負傷者22人を出した[12]。損傷した本艦は駆逐艦アンテロープに曳航され、護衛の駆逐艦ウェストコットとともにジブラルタルへ向かった[12]。その途中にもイタリア軍機による爆撃や雷撃を受けたが命中はせず、6月16日にはジブラルタルから来た曳船がアンテロープと交代し、17日夕刻にジブラルタルに到着した[12]。そこで応急修理を受けた後、ロサイスで本格修理を受けたものの、完了まで3年を費やした。その後、地中海に展開した。
1951年には、マウントバッテン卿が本艦に乗艦してスプリトを訪問し、続いてユーゴスラビアでチトー元帥と会談した。
1950年代にイギリス海軍は艦艇数を削減し、本艦は1952年にポーツマスで予備役となった。その後、1958年に解体された。
脚注[編集]
- ^ Town Class Cruisers, p.207
- ^ Struggle for the Middle Sea, p.33
- ^ Royal Australian Navy, 1939–1942, p.197
- ^ Town Class Cruisers, p.209, Royal Australian Navy, 1939–1942, pp.197-198
- ^ a b Town Class Cruisers, p.209, p.209
- ^ Chronology of the War at Sea 1939-1945, pp.42-43
- ^ Eagle's War, p.57
- ^ a b Savoia-Marchetti S.79 Sparviero Torpedo-Bomber Units, p.10
- ^ Savoia-Marchetti S.79 Sparviero Torpedo-Bomber Units, p.10, Town Class Cruisers, p.210
- ^ Town Class Cruisers, p.210
- ^ a b Cruisers of World War Two, p.109
- ^ a b c d e In Passage Perilous
参考文献[編集]
- M. J. Whitley, Cruisers of World War Two: an International Encyclopedia, Naval Institute Press, 2000, ISBN 1-55750-141-6
- Jurgen Rohwer, Chronology of the War at Sea 1939-1945, Naval institute press, 2005, ISBN 1-59114-119-2
- Peter C. Smith, Eagle's War: Aircraft Carrier HMS Eagle 1939-1942, Crécy Publishing, 2009, ISBN 978-0-9075795-3-3
- Vincent P. O'Hara, In Passage Perilous: Malta and the Convoy Battles of June 1942, Indiana University Press, 2013, ISBN 978-0-253-00605-9 (電子版)
- Neil MacCart, Town Class Cruisers, Maritime Books, 2012, ISBN 978-1-904-45952-1
- G. HerMon Gill, Australia in the War of 1939–1945. Series 2 – Navy Volume I – Royal Australian Navy, 1939–1942, 1957
- Vincent P. O'Hara, Struggle for the Middle Sea, Naval Institute Press, 2009, ISBN 978-1-59114-648-3
- Marco Mattioli, Savoia-Marchetti S.79 Sparviero Torpedo-Bomber Units, Osprey Publishing, 2014
外部リンク[編集]
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