リム・トンハイ

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リム・トンハイ
名前
本名 リム・トンハイ
ラテン文字 Lim Tong Hai
中国語 林東海
基本情報
国籍 シンガポールの旗 シンガポール
生年月日 (1969-05-14) 1969年5月14日(54歳)
出身地 シンガポール
身長 183cm
選手情報
ポジション DF(CB)
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1989 シンガポールの旗 ジュロンFC
1990-1993 シンガポールの旗 ゲイラン・インターナショナルFC
1994-1995 シンガポールの旗 シンガポールFA
1996-2001 シンガポールの旗 ティオン・バルー/タンジョン・パガー
2002-2003 シンガポールの旗 ゲイラン・ユナイテッドFC
代表歴
1989-1999  シンガポール 47[1]
監督歴
シンガポールの旗 ゲイラン・ユナイテッドFC(強化長)
2004-? シンガポールの旗 ゲイラン・ユナイテッドFC(プライムリーグ)
シンガポールの旗 ゲイラン・ユナイテッドFC(ヘッドコーチ)
2010-2012 シンガポールの旗 ゲイラン・ユナイテッドFC(マネージャー)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

リム・トンハイLim Tong Hai中国語: 林 东海[2]1969年5月14日 - )は、シンガポールの元サッカー選手、サッカー指導者。元シンガポール代表主将。ポジションはCB

サッカー選手としての現役引退後は現役で最後を過ごしたゲイラン・ユナイテッドFCで様々な指導者の立場に着いた[3]

クラブ歴[編集]

1989年にジュロンFCでプロになる。その翌年、シンガポールサッカー協会プレミアリーグゲイラン・インターナショナルFCに移籍。1994年にはシンガポールFAに移籍し、大韓民国代表張政との強い連携を見せ、マレーシア・スーパーリーグマレーシアカップの両方を制覇するのに大きく貢献した。同チームがマレーシアから撤退しSリーグに加入すると、1996年に彼はティオン・バル・ユナイテッドFCに移籍した。1998年には改名してタンジョン・パガー・ユナイテッドFCとなった同チームの主将となり、シンガポール・カップシンガポールFAカップの両方を制した。改名したゲイラン・ユナイテッドFC(元ゲイラン・インターナショナルFC)に2002年に復帰するとこのチームで2シーズンを過ごし、現役を引退した。

代表歴[編集]

シンガポール代表として1989年にデビューして以来、多くの記憶に残る試合に出場してきた。しかしながら、彼の代表でのどん底は凄まじい物で、それは1993年の東南アジアサッカー選手権の事であった。この時のミャンマー代表戦では彼は2発のオウンゴールを決め、PK戦に縺れ込み、結果としてシンガポールの決勝進出を逃す事となった[4][5]

1997年にはシンガポール代表の主将に就任したが、翌年にはその座をナズリ・ナシルに譲る事となった。

監督歴[編集]

2003年にサッカー選手を引退した後、そのままゲイラン・ユナイテッドFCに残留し、翌年にはプライムリーグの監督となった。2006年には一軍の世話人に昇格、2007年のSリーグでは芳しい成績が出せていないここ数年のチームの立て直しに寄与した。この時のチームの中心人物はキム・グラントノー・ラーマンハッサン・サニーらの選手と彼であったが、彼らにも大きな変化を及ぼし、2007シーズンは良いスタートを切った。年末になるとスロバキアのヨーゼフ・ヘレルが監督に就任し、チームを中心的に率いる役割を終えた。

参考文献[編集]

  1. ^ FAS launches FAS Captains' Advisory Panel”. FAS. 2014年3月21日閲覧。
  2. ^ 林东海在这里攀上足球生涯巅峰”. 联合早报网 (2015年4月6日). 2015年11月26日閲覧。
  3. ^ Tong Hai ‘honoured’ at new appointment”. FAS. 2014年3月21日閲覧。
  4. ^ Joe Dorai (1993年6月18日). “Tong Hai's double blunder makes history”. The Straits Times 
  5. ^ Lim Tong Hai faces up to darkest moment of 2 own goals in 1993 SEA Games match”. The Straits Times. 2015年11月26日閲覧。

外部リンク[編集]

先代
ファンディ・アマド
サッカーシンガポール代表主将
1997
次代
ナズリ・ナシル